2023年3月22日水曜日

〈藤原定家の時代307〉建久6(1195)年10月1日~12月25日 為仁親王(土御門天皇)誕生 母は源通親養女の在子(実父は能円) 後鳥羽天皇の皇子を産む兼実・通親の競争は、通親の勝利 九条良経内大臣(左近衛大将) 源通親権大納言     

 


〈藤原定家の時代306〉建久6(1195)年7月4日~9月29日 頼朝ら、京都から鎌倉に帰着 任子(兼実の娘)、皇女(昇子)を出産 奥州惣奉行を置く より続く

建久6(1195)年

10月1日

「武蔵の国以下御分国の所課・本所乃貢の事、不日に沙汰を致すべきの旨、厳密の仰せ有り。而るに今年土民等、損亡の事等を愁い申す間、定めて合期の進済有り難きかの由、奉行人右衛門の尉能員・散位行政等これを申すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月6日

・藤原資長(77)没

10月7日

・鶴岡臨時祭(「吾妻鏡」同日条)。

10月7日

・藤原定家(34)、昇子内親王御五十日に参仕

10月11日

護念上人慈応(源為義の末子、頼朝の叔父)が越後国から鎌倉に参上。頼朝が対面。

10月13日

「故木曽左馬の頭義仲朝臣の右筆大夫房覺明と云う者有り。元これ南京の学侶なり。義仲朝臣誅罸の後、本名に帰り信救得業(とくごう)と号す。当時筥根山に住むの由これを聞こし食し及ぶに就いて、山中の外鎌倉中並びに近国に出るべからざるの旨、今日御書を別当の許に遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月13日

・藤原定家(34)、中宮任子御産以後初度入内及び昇子内親王御行始の供奉

10月15日

・大姫が病悩に苦しみ、護念上人を召し祈頑させ。「日来御病悩」とあり、鎌倉に帰って以後も慢性的に病が続いていたと思われる。

「大姫公日来御病悩。寝食例に乖き、身心常に非ず。偏に邪気の致す所か。」

護念上人慈応が加持したところ、今日回復して、頼朝はたいそう喜んだ(「吾妻鏡」同日条)。

仏法を興隆するため荘園を寄進しようと言ったが、この申し出を受けなかった。

28日、鎌倉を去り越後に戻る。頼朝が引き留めたが、人々との交流は願う所ではないと、ただちに出発した。

10月29日

・藤原定家(34)、兼実の春日社参詣に供奉。翌30日も。

11月1日

・後鳥羽天皇の子為仁親王(土御門天皇)、誕生。母は源(久我)通親養女の在子(実父は能円)。後鳥羽天皇の皇子を産む兼実・通親の競争は、通親の勝利。通親は、この勢いを背景に九条兼実の政敵である近衛基通や丹後局・故後白河法皇の近臣達と組んで、大姫入内を餌にして頼朝・九条兼実の関係を絶ち、兼実排除に乗り出す。

治承4年7月14日、高倉院に第四皇子尊成(たかひら)親王(後の後鳥羽天皇)が誕生するが、半年後(京都への還都から1ヶ月後)、父高倉院は没する。清盛の妻時子は、尊成親王の養育を同腹の兄弟、法勝寺執行能円に依頼、彼の妻範子は親王の乳母とされている。しかし能門は、寿永2年(1183)7月平家の都落ちに際し、後事を範子に託して西海に赴く。能円は安徳天皇の御持僧。壇ノ浦で捕われ京へ戻されるが流罪に処せられる。一方範子は、尊成親王が議論の末選ばれて践酢(即位は翌年)したことから、乳母としての立場は格段に高まった。

この範子に近づき、結婚したのが源通親。後鳥羽天皇の父、高倉院に仕えていた通観にとって、範子は身近な存在だったと思われる。若い時からこの種の結婚と離縁を繰り返し悪名の高かった通親のことだから、計算ずくの行動であったろう。後鳥羽天皇の乳母夫となった通親は、範子と能円との間の子、在子・信子の姉妹を養女とした上、在子を後鳥羽天皇の後宮に入れる(信子も、在子が男子(後の土御門天皇)を出座するや、その乳母にしている)。

兼実の政敵である源通親が勢力を拡大するようになり、定家の行く手にも暗雲が垂れ籠めるようになる。通親の養女に後鳥羽天皇の皇子が生まれたことを契機に、翌年に兼実が引退させられ、娘任子(宣秋門院)も内裏を追われる事件が起きた(建久七年の政変)。九条家にとっても、定家にとっても、不遇な時代の到来である。

後鳥羽天皇宮廷の2人の有力な后:

①九条兼実の娘・中宮藤原任子(中宮)。

8月12日、第一皇女昇子(しょうし)内親王を出産。

②源通親の側室・藤原範子の連れ子で通親の養女・女御源在子(女官)。

11月1日、第一皇子為仁(ためひと)親王を出産

11月6日

「下河邊の庄司行平の事、将軍家殊に芳情を施さるるの余り、子孫に於いては永く門葉に准うべきの旨、今日御書を下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月10日

九条良経、内大臣(左近衛大将)となる。源通親、権大納言となる。藤原定家(34)、良経の任大臣節会に勤仕

11月11日

・藤原定長(47)没

11月12日

・藤原定家(34)、良経の内大臣拝賀に供奉

11月19日

・相模国大庭御厨の俣野郷内にある大日堂に田畠を寄進し、未来際までの仏聖灯油(ぶつしようとうゆ)料に宛てる。故俣野五郎景久が帰依した寺院で、本仏は権五郎(鎌倉)景政が造立したもの。

11月24日

「今夜姫宮入内の事有り。」(「三長記」同日条)。

12月9日

・藤原定家(34)、中宮任子閑院行啓に供奉、啓将を勤める

12月12日

「千葉の介常胤款状を捧ぐ。・・・潛かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり。老命後栄を期し難し。世事ただ上賞を憑む。・・・仍って連々恩賞を加えられをはんぬ。重ねて仰せらるべきの條、曽って思し食し忘れず。・・・時に常胤太だ落涙し、慇懃の御気色すでに顕れをはんぬ。武将の御籌策また止むこと無し。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月20日

・藤原定家(34)、仏名に参仕

12月22日

・頼朝、甘縄の安達盛長の家を訪ねる。この日はそこに泊まる。(「吾妻鏡」同日条)。

12月25日

・藤原定家(34)、慈円へ十首贈歌。12月20日、慈円が寒御祈のため不動法を修したとき、5日目に大雪あったため、定家は、

いつよりも心とどめよ庭のあと 今日ぞ誠の君が白雪

など十首を送り激励。慈円はこれに対して、

君と我と共に分てやとけぬ覧 とつの神路(かんじ)の雪の二条(ふたすじ)

はじめ十首を返す。

つづく

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