2023年3月9日木曜日

〈藤原定家の時代294〉建久3(1192)年9月3日~12月30日 畠山重忠の大力 北条義時(30)、姫ノ前(比企朝宗娘)と結婚(比企=頼家と北条=実朝との融和を図る) 熊谷次郎直実、叔父との境界線争いに敗れ出奔 永福寺の落慶供養     

 


〈藤原定家の時代293〉建久3(1192)年7月12日~8月24日 頼朝、征夷大将軍となる 千幡(次子・実朝)誕生 乳母は阿波局(時政娘、政子妹、阿野全成妻) より続く

建久3(1192)年

9月3日

・藤原定家(31)、夜、良経第で「いまこむといひしばかりに」の歌を頭におき三十三首を詠む。

9月11日

・畠山重忠の大力。

9月、永福寺造営工事は庭造りの段階に入る。この日(11日)、庭園に造詣の深い静玄が差図して、方々に石を配置したが、3m余もある大石を畠山重忠は一人でもち上げて池の中を歩いてゆき、差図通りにおいたので、観る者はその大力に感心した、という。頼朝は前夜から行政邸に泊まり込んで、これを見る。

9月12日

・小山朝政は先年、勲功によって恩賞(常陸国村田下庄)を受けていた。この日、政所下文が与えられた。

「小山の左衛門の尉朝政、先年の勲功に募り恩沢を給う。常陸の国村田下庄なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月25日

北条義時(30)が、大倉御所官女の姫ノ前(比企朝宗の娘)に艶書を送っていたのが発覚、頼朝は、2人を結婚させる(「吾妻鏡」同日条)。比企一族に囲まれて育った嫡子頼家(幼名万寿)と北条一族に囲まれた実朝の融和を願ってのことであろう。

当時、幕府内にあって「権威無双の女房」がいた。かの女は「姫(ひめ)の前(まえ)」といい、比企朝宗の娘であったが、「容顔はなはだ美麗であったためか、頼朝の意にも叶う女性であった。この女性に、義時は懸想したのである。

この一両年、色に耽るの志をもって消息せらるといえども、敢えて容用無きのところ、将軍家(頼朝)聞こし食(め)され、離別致すべからずの旨、起請文を取り、行き向かうべきの由、くだんの女房に仰せらるの間、その状(起請文)を乞い取るの後、嫁娶の儀を定むと云々。」(『吾妻鏡』

義時は数年前から「消息」(恋文)を送ったが、受け入れられなかった。そこで、頼朝が仲立ちし、「離別致すべからず」との起請文を取りつけるので、義時の想いを受け入れるように説得した。

相手が「権威無双」であったとしても、この2年間、義時は待った。挙げ句、頼朝があいだに入ることによって、その願いは叶った。後に見えるように、有力御家人に対しても強い姿勢を取り続ける義時の姿とは、あまりに異なる一面であるい。

しかし、寝所祇候衆に組み入れられても、いくつかの合戦に従軍しても、全く武勇譚を残していない義時ではあったg、、、。

頼朝は、自らの後継者頼家の周辺に比企氏とその関係者を、乳母として迎え入れていた。政子の同母弟ということもあったろうが、寝所祇候衆に組み入れて近侍させるとともに、頼家を囲繞する比企氏と婚姻関係を結ばせることによって、義時を「源家の方人」にしようと目論んだ。

10月19日

・北条政子、若宮(のちの実朝)と共に名越の浜御所から幕府御所に入る(「吾妻鏡」同日条)。

10月25日

・鎌倉、永福寺の惣門が完成。

10月29日

・永福寺の扉および仏像の後壁の絵画完成。絵師季長。秀衡の円隆寺を模したもの(『吾妻鏡』)

11月5日

・実朝の御行始(おなりはじめ)。

「卯の刻、新誕の若公の御行始めなり。籐九郎盛長が甘縄の家に入御す」(「吾妻鏡」同日条)。

11月9日

・殷富門院亮子内親王(46)没

11月13日

・永福寺造営において、前に庭に配置した石の具合がどうも頼朝の気に入らないので、置きなおすことになり、ここでまた重忠・広綱・大井次郎実春の3人が巌石を運んで位置をかえた。この3人の働きは百人の功に同じ、と頼朝の御感再三に及ぶ、といわれている。

〈『古今著聞集』巻10「相撲強力」にみえる畠山重忠の大力〉

当時関東八ヵ国随一と称する大力の相撲の長居が、頼朝の前で、天下無敵であると自慢し、まあ畠山殿だけにはちょっとどうかわからないが、それにしてもそう簡単には動かされません、と広言を吐いた。頼朝はその高慢が憎らしいと患っていたところに、重忠が出仕して来たので、近くによぴよせ、おまえに頼みたいことがある、と言う。重忠は黙って畏まって控えている。何度かこんなことを繰り返した後、あまり同じ話が度々になるので、重忠は居ずまいを正し、君の御大事ということならば何事でもお受け致しますと言う。頼朝は、実はそこにいる長居めが、おまえと手合わせしてみたいという、余り自慢するので、自分がやっつけてやりたい位なのだが、長居の方でおまえのことをいっているから、一番相撲をしてくれないか、と言う。重忠は、大事というから何事かと思ったら、そんなことかと案外な様子で、静かに座を立ち、用意を整えて出て来た、長居もふんどしをしめて、練り出てきた。その身体は仁王様のようで、重忠でも叶うかなと思われるほどである。八卦よいやとなったとき、長居は重忠のこくびを強く打ち、前ミツをとろうとしたのを、重忠は両肩をぐっと抑えて近づけない。そのまま動かなくなった。そこで景時が、まあこの位でよろしゅぅございましょう、という。頼朝が、いや勝負がつく、といいも果てぬに、重忠は長居をへし据えた。長居は尻もちをつき気絶してしまった。重忠はそのまま座にはかえらず、言もしゃべらず帰っていった。肩の骨をつかみ挫いていたので、皆おどろいた、という話である。

11月25日

・熊谷次郎直実、叔父久下(くげ)直光との境界線争い。鎌倉幕府に訴上し頼朝の裁判を受けるが、不公平な判断に憤慨し途中で退座。髪を切り武士を捨て熊谷郷に戻る。翌年法然の弟子になる。

「直實武勇に於いては一人当千の名を施すと雖も、対決に至っては再往知十の才に足らず。頗る御不審を貽すに依って、将軍家度々尋ね問わしめ給う事有り。・・・左右に能わずと称し、縡未だ終えざるに、調度を巻き文書等を御壺中に投げ入れ座を起ち、猶忿怒に堪えず。西侍に於いて自ら刀を取り髻を除く。詞を吐いて云く、殿の御侍へ登りはてと。則ち南門を走り出で、私宅に帰るに及ばず逐電す。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

「走湯山の住侶専光房使者を進す。申して云く、直實が事御旨を承るに就いて、則ち海道を走り向かうの処、上洛を企てるの間、忽然として行き逢いをはんぬ。すでに法躰たるなり。而るにその性殊に異様なり。・・・将軍家太だ感ぜしめ給う。猶秘計を廻らし、上洛の事を留むべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」12月11日条)。

11月25日

・永福寺の落慶供養。奉行は大江広元。畠山重忠が頼朝のあとに布衣(ほい)を着て供奉。頼朝の供奉人として源範頼、足利義兼、山名義範、新田義兼、佐貫廣綱等(「吾妻鏡」同日条)。

11月29日

・新誕若宮五十日・百日の儀式(「吾妻鏡」同日条)。時政の差配。

11月29日

・慈円、天台座主就任

12月5日

・頼朝、山名義範・足利義兼等重臣を浜の御所に集め、新誕若宮の将来も守護することを命じる(「吾妻鏡」)。

「今日武蔵の守・信濃の守・相模の守・伊豆の守・上総の介・千葉の介・小山左衛門の尉・下河邊の庄司・小山の七郎・三浦の介・佐原左衛門の尉・和田左衛門の尉等を濱の御所に召し聚めらる。各々北面十二間に着す。将軍家自ら新誕の若公を懐き奉り出御す。この嬰児の鍾愛殊に甚だし。各々意を一つにして将来を守護せしむべきの由、慇懃の御詞を尽くされ、剰え盃酒を給う。女房大貳の局・近衛の局杓を取り盃を持つと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月10日

「女房大進の局、先日伊勢の国三箇山を拝領する事、子細を申さるるに依って、重ねて政所御下文を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月14日

・平家没官領の越前足羽郡足羽御厨、他の19ヶ所の荘園と共に一条能保妻(源頼朝妹)に与えられていた。この日、能保より書状が届き、これら亡妻の遺領を子女に譲るよう宣旨を申請して、これが下されたと報告した。(「吾妻鏡」同日条)。

「一條前の黄門の書状参着す。亡室の遺跡の跡二十箇所を以て、男女の子息に譲補す。将来の乖違を塞がんが為、去る月二十八日宣旨を申し下しをはんぬ。・・・これ平家没官領の内、摂津の国福原庄・・・、已上二十箇所、先日黄門の室家(将軍家御妹なりと)に譲り奉らるなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月20日

「渋谷の輩は偏に勇敢を備え、尤も御意に相叶うの間、公事勤役を慰めんが為、彼等が領所相模の国吉田庄の地頭を以て、領家圓満院に申請せられ、請け所と為す。御倉の納物を以てその乃貢に贖わるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月30日

・朝廷の審議で、銭貨の流通を停止する(「吾妻鏡」建久4年正月26日条)。



つづく

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