2023年3月2日木曜日

〈藤原定家の時代287〉建久2(1191)年5月1日~6月26日 佐々木定綱が薩摩、定重は対馬、広綱は隠岐、定高は土佐に配流と決まるが、定重は配流を止めて梟首となる 後白河と丹後局(高階栄子)の子・覲子内親王を宣陽門院とし、その生母高階栄子を従二位に叙す 宣陽門院の別当たちは反頼朝・兼実派         

 


〈藤原定家の時代286〉建久2(1191)年4月1日~4月30日 大江広元、明法博士・左衛門大尉、検非違使となる 〈頼朝と通親、通親と広元、広元と兼実〉の関係 延暦寺の宮法師、年貢未進を理由に近江佐々木庄で乱暴 佐々木定重、近江国佐々木庄で日吉社の宮仕法師らを刃傷 山の大衆蜂起す(「玉葉」) より続く

建久2(1191)年

5月1日

「山門より鎌倉に遣わすの使者すでに帰り来たる。定綱を大衆の中に召し賜うべきの由、分明の裁断。しかのみならず、饗応使等、すでに法に過ぎ、当社を帰敬し、鄭重甚深と。悪徒この趣を聞き、いよいよその力を得て、遠流の裁許、更に以て言い足らざるたりと。誠にこれ天魔の所為なり。左右に能わずと。」(「玉葉」同日条)。

5月2日

「大夫の尉廣元の飛脚京都より参着す。大理書状を献らる。去る月二十六日、山門衆徒左衛門の尉定綱を訴え申さんが為、八王子・客人・十禅師・祇園・北野等の神輿を頂戴し、閑院皇居に参るの間、則ち群議有り。罪名死罪一等を減じ、遠流に処せらるべしと。その趣定めて宣下せらるるか。また遠江の守義定朝臣の飛脚参り申して云く、当時禁裡守護の番なり。去る月二十六日神輿入洛の時、家人等相禦ぐに依って、闘戦を発すべからざるの由、頻りに別当の宣有るの間、謹慎するの処、家人四人・同所従三人、忽ち山徒の為刃傷せらる。朝威を仰ぎ神鑒を怖れるに依って、すでに勇士の道を忘れるが如し。殆ど人の嘲りを招くべきかと。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月7日

「大夫の尉廣元、去る月二十日賀茂祭に供奉し、院の御厩の御馬を賜う。則ち御厩舎人(金武)を具す。凡そ眉目を施すと。その間の記録これを進す。また申して云く、上皇御願として、近江の国高嶋郡に五丈の毘沙門天像を安ぜられ、近日供養の儀有るべしと。善信その事を聞き、申して云く、彼の像は、去る養和の比、仙洞に於いて仏師院尊法印に仰せ、これを作り始めらる。幕下仰せて曰く、この事度々風聞有る所なり。平相国在世の時より造立し奉る。推量の及ぶ所、源氏調伏の為か。頗る甘心せずと。仍ってその趣内々廷尉の許に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月8日

・前月28日の院宣案文などが鎌倉に到着。佐々木定綱が薩摩に、定重は対馬に、広綱は隠岐に、定高は土佐に配流と。

20日、定重は、配流を止めて梟首となる。

5月12日

・大江広元、4月20日に行なわれた賀茂祭の記録を作成して鎌倉へ送るとともに、近江国高島郡に安置された毘沙門天像供養が行なわれたことを報告。

毘沙門天像供養の話を聞いた問注所執事三善康信は、この昆沙門天像が、養和年間に後白河の命を受けた仏師院尊法印によって院御所で作られたものであることを指摘し、頼朝は、この毘沙門天像が平清盛在世の時に道立された「源氏調伏」のためのものであるという風聞について「すこぶる甘心しない」旨を広元に伝える。

5月20日

「近江の国辛崎の辺に於いて、佐々木小次郎兵衛の尉定重、流刑を止め梟首せらる。この事、日来この難を遁るべきの様、幕下賢慮を廻らせらると雖も、山徒の欝陶、遂に以て宥め仰せらるる所無しと。この事景時の奉りたり。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月1日

・藤原定家(30)、良経より「いろは四十七首」を送られたのに和して四十七首を詠む。

同月、家隆が上の歌をみて送ってきた歌に「いろは四十七首」を返歌

同月、良経の求めにより「文字鋂二十首」を詠進

同月、良経に求められ木火土金水等を頭におき「一字題十五首」を詠進

6月9日

・一条能保の娘が藤原良経に嫁ぐことになる。

「大理の姫君左大将(良経卿)に嫁し給うべし。その儀すでに近々に在りと。仍って姫君の御装束(御台所の御沙汰)、女房五人・侍五人の装束並びに長絹百疋(幕下の御分)、沙汰し送らるべきの由、兼日その定め有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月12日

・太宰府、宋の要請で宋商人2人の処罰について奏上。

6月20日

・藤原実定(53)出家。閏12月16日没。

6月22日

・前摂政藤原基通家領の丹生郡鮎川荘に対し濫行を働いた藤島三郎についての訴えに対し、頼朝は、かつては比企朝宗に「北陸道方の事」を申し付けたが、今は「守護人をも差置かず候なり」と述べる(「吾妻鏡」6月22日条)。西国支配の譲歩・後退。

6月25日

・後白河法皇(65)御願により近江高島郡毘沙門堂を供養す

6月26日

・覲子(あきこ、10)内親王を宣陽門院とし、その生母高階栄子を従二位に叙す。

後白河は、武威を背景とする頼朝の要求を止むを得ずに容れ、人事では兼実を摂政に任じ、議奏の公卿を置いた。しかし、現実には以前からの側近政治を継続していた。

新しい側近は、丹後局こと高階栄子と前摂政・藤原基通、それに高階泰経・経仲父子、藤原降房、藤原実教、藤原忠経、藤原季能らであった。

高階栄子は、初め平業房の妻であり、治承3(1179)11月、業房が殺される前後から法皇の寵を得て、後白河の晩年における寵を殆ど独占した。兼実は栄子について、「法皇の愛妾 丹後と号す。近日、朝務、偏に彼の唇吻に在り」と評した。

丹後局の栄子は、養和元年(1181)10月5日、皇女覲子(あきこ)撃を産んだ。法皇は、愛妃の産んだこの皇女を溺愛し、文治5年(1189)11月には内親王に宣下して准后となし、建久2年(1192)6月には、10歳の内親王を女院に列し、宣陽門院の院号を与え、翌年3月には全国に散在する尤大な荘園群(長講堂領)を遺贈した。

院司のうち別当には、

右大臣藤原兼雅、権大納言兼右大将藤原頼実、中納言兼左衛門督源通親、参議右近衛中将藤原公時、左近衛中将源通宗(通親の一男)、右中辨平棟範が任命された。公卿4人が、そしてその中に大臣が女院の別当に補されるのは、稀有のことであった。

兼実は、通親について、「院の近臣、姫宮の後見なり。今日の事、本家の執行の人なり。」と述べているが、通親は彼を議奏に推挙した頼朝の期待を裏切って、法皇、丹後局に接近し、反頼朝、反兼実勢カの中核と化した。実際、事務屋の棟範を別とすれば、宣陽門院の別当たちは、いずれも反頼朝・兼実派に属し、前摂政・基通と気脈を通ずる人々であった。


つづく


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