2024年5月31日金曜日

大杉栄とその時代年表(147) 1895(明治28)年4月23日~30日 三国干渉 「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」(陸奥「蹇々録」) 「敷嶋のやまとますらをにえにして いくらかえたるもろこしの原」(一葉)   

 


大杉栄とその時代年表(146) 1895(明治28)年4月14日~22日 日清講和条約(下関条約)調印 森鴎外(33)陸軍軍医監 一葉日記「うき世にはかなきものは恋也。さりとてこれのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世ははかなき物也。、、、我れはさはたれと定めてこひわたるべき。」 より続く

1895(明治28)年

4月23日

陸奥外相、休養中の播州舞子(須磨・明石の中間)より、青木駐独公使の報告を受けて、伊藤首相に「一歩も譲らざる決心を示すほか策なし」と打電。伊藤首相は、旅順の樺山・川上両中将に対し、露独仏英4国が纏まり艦隊派遣の恐れありと警告。

4月23日

三国干渉

露公使ヒトロヴォ・独公使グットシュミット・仏公使アルマン、外務省(外務次官林董)を訪問。遼東半島占領は、清国首都を危うくし、朝鮮独立を有名無実にし、極東永久平和に障害とし、放棄を勧告する覚書。伊藤首相は、24日早朝の御前会議招集、回答引延ばしを決定。病床の陸奥は、一旦勧告を拒否し、勧告の深さと国内世論を見極めるよう返電。ロシア・ドイツは極東の艦隊を動かし始める。

「露国皇帝陛下の政府は、日本より清国に向て求めたる講和条約を査問するに、其要求に系る遼東半島を日本にて所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、之と同時に朝鮮国の独立を有名無実となすものにして、右は将来永く極東永久の平和に対し、重ねて其の誠実なる友誼を表せんが為め、茲に日本国政府に勧告するに、遼東半島を確然領有する事を放棄すべきことを以てす」(「大日本外交文書」)。

4月24日

御前会議。3国干渉の拒否・受入れを議論。列国会議で列国と共に処理する結論。

会議後(25日早暁)、伊藤首相・松方蔵相・野村(靖)内相が病床の陸奥外相を訪問。陸奥は列国会議には反対(召集に時間的余裕ない、新たな干渉をまねく)。3国の勧告の全部又は一部の受入れと3国には譲歩するが清国には一歩も譲らぬと結論。この夜、野村が天皇に報告、裁可。

陸奥は、5月8日の批准交換まで余裕あり、3国に勧告撤回または軽減を働きかけることと、英米伊3国の「強援」を誘引して露独仏3国牽制を図る。加藤高明駐英公使・栗野駐米公使に訓令。アメリカは局外中立に矛盾しない範囲での援助を告げる。イギリスは日本に協力する事もある種の干渉であり、一切干渉しないと回答。イタリアも最も好意的と思われていたが、「語調」を変更。英米伊3国による牽制案は崩壊

「然れども広島の御前会議は(当時広島に滞在する者伊藤総理の外山県西郷陸海二大臣のみ)固より余が再度の電報を待つ迄に猶予すべきに非ざれば、其商議を進行し、而して当日伊藤総理提議の要領は、{第一}仮令新に敵国増加の不幸に遭遇するも此際断然露・独・仏の勧告を拒絶する乎、{第二}茲に列国会議を招請し遼東半島の問題を該会議に於て処理する乎、{第三}此際寧ろ三国の勧告は全然之を聴容し清国に向ひ遼東半島を恩恵的に還付する乎、の三策の中其一を選むべしと云ふに在り。出席文武各臣は孰れも反履丁寧に討論を尽したる末、伊藤総理の第一策に就ては、当時我征清軍は全国の精鋭を悉して遼東半島に駐屯し、我強力の艦隊は悉く澎湖島に派出し内国海陸軍備は殆ど空虚なるのみならず、昨年来長日月の間戦闘を継続したる我艦隊は固より人員軍需共に既に疲労欠乏を告げたり、今日に於て三国聯合の海軍に論なく、露国艦隊のみと抗戦するも又甚だ覚束なき次第なり、故に今は第三国とは到底和親を破るべからず、新に敵国を加ふるは断じて得策に非ずと決定し、次に其第三策は意気寛大なるを示すに足る如きも、余りに言ひ甲斐なき嫌ありとし、遂に其第二策即ち列国会議を招請して本問題を処理すべしと廟議粗々協定し、伊藤総理は即夜広島を発し、翌二十五日暁天余を舞子に訪ひ御前会議の結論を示し、尚ほ余の意見あらば之を聴かむと云へり。・・・

然れども伊藤総理が御前会議の結論として齎らし来れる列国会議の説は、余の同意を表するに難しとしたる所たり。其理由は今茲に列国会議を招請せむとせば、対局者たる露・独・仏三国の外少とも尚ほ二三大国を加へざるべからず。而して此五六大国が所謂列国会議に参列するを承諾するや否や、良しや孰れも之を承諾したりとするも、実地に其会議を開く迄には許多の日月を要すべく、而して日清講和条約批准交換の期日は既に目前に迫り、久しく和戦未定の間に彷徨するは徒に事局の困難を増長すべく、又凡そ此種の問題にして一度列国会議に付するに於ては、列国各々自己の適切なる利害を主張すべきは必至の勢にして、会議の問題果して遼東半島の一事に限り得べきや、或は其議論枝葉より枝葉を傍生し各国互に種々の注文を持ち出し、遂に下ノ関条約の全体を破滅するに至るの恐なき能はず。是れ我より好むで更に欧州大国の新干渉を導くに同じき非計なるべし、と云ひたるに、伊藤総理、松方、野村両大臣も亦余の説を然りと首肯したり。然らば如何に此緊急問題を処理すべきかと云ふに至り、広島御前会議に於て既に方今の形勢新に敵国を増加すること得計に非ずと決定したる上は、露・独・仏三国にして其干渉を極度迄進行し来るべきものとせば、兎に角我は彼等の勧告の全部を承諾せざるを得ざるは自然の結果なるべし。而して我国今日の位置は目前此露・独・仏三国干渉の難問題を控へ居る外、尚ほ清国とは和戦未定の問題を貽し居る場合なれば、若し今後露・独・仏三国との交渉を久しくするときは、清国或は其機に乗じて講和条約の批准を放棄し、遂に下ノ関条約を故紙空文に帰せしむるやも許られず、故に我は両個の問題を確然分割して彼此相牽連する所なからしむべき様努力せざるべからず、之を約言すれば三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべしと決心し、一直線に其方針を追ふて進行すること目下の急務なるべしとの結論に帰着し、野村内務大臣は即夜舞子を発し広島に赴き右決議の趣を聖徳に達し尋で裁可を経たり」(「蹇々録」)。

4月24日

子規、金州で河東秉五郎(碧梧桐)からの4月14日付け手紙により従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。


「春や昔古白といへる男あり」(「陣中日記」4月24日)


「陣中日記」を『日本』に連載。

4月24日

一葉の許に、馬場孤蝶来訪。


「午後馬場君来訪、本町にておもしろからぬ事ありしけにや、ものいひいとど激したるやう也。夕げ共にしたためて更るまで語る。雨俄かに降出ぬるにかさを参らす。駒下駄にては如何と、女ものにてをかしけれど、それをも参らすれば、笑ひてはきゆく。」

孤蝶は、雑誌の経営を第一とする星野天知の現実主義と合わずに争いがあった様子。一葉は孤蝶の立場を支持している。

4月25日

一葉のもとに、孤蝶が昨日の下駄を返しに来る。禿木と一緒に来ようとしたが、禿木は身のふり方が決まってないのが恥ずかしいのか来たがらなかったという(間もなく師範学校に入学する)

この日付け日記にある歌


「新領地

敷嶋のやまとますらをにえにして

    いくらかえたるもろこしの原」

4月25日

高野房太郎乗船マチアス号、長崎寄港。

4月26日

早朝、一葉のもとに大橋乙羽が「ゆく雲」と略歴の校正刷りを持って来訪。長く話す。

4月27日

子規「陣中日記」より。この日、子規は金川城の東門を出て、杏の花の咲く一山村を独り訪ね、そこで出会った子供たちと言葉を交わしたときのことを、次のようにレポートしている。


「城郭の上を散歩す。めづらしく空打ち曇りで雲は大和尚山を呑みつ吐きつ其勢すさまじ。

     古城や菫花さく石の間

城中の杏花城外の楊柳に眼をうつしつゝ壁上を廻りて東門のほとりに来れば正面九山の谷間に紅緑打ちまじりて雲か花かと見ゆるものあり。心そゞろにうれしくて城を下りてそなたと許り野道辿り行けば半里許りにて志す処に着きぬ。遠く望みたるにも違はず山の端のけはしき岨陰に家二三軒並びて一渓は只楊柳と杏花とを種ゑたり。しばらくは詩も歌も浮まで只柳暗花明又一村とのみぞ口ずさまれける。

     一村は杏と柳ばかりかな

むれ遊ぶ小児の我を見て逃げ行くもあるを儞来と呼べば尽く集まり来りて頻りに何事をか話しあへり。試みに此の白き花は何ぞと問へば彼等は異口同音に梅なりといふ。梅の木とおぼしきもあれど多くは杏の花なるを此のあたりにてはおしなべて梅と称ふるにやあらん。帰り来る道すがら五つ六つ許りなる児の二三人葉摘めるを何処の子ぞと立ちよれば各館をさし出だして葉を買はんやといふ。不要といへば又うつむきて菜を摘む手のみいそがはし。此国の人は天性商買(ママ)にさかしきものなるべし。」

4月27日

大本営、広島から京都に移る。講和条約発効後も、復員せず。

台湾民主国との戦争及び朝鮮・遼東半島・威海衛の駐留兵力を指揮する為でもあったが、最大の目的は三国干渉に対抗すること。三国干渉は背後に武力を控えた真の干渉であって、ウラジオストク要塞は戦闘準備にはいり、同地は戦争状態宣言のもとにあった。別の非公式情報は、ロシアが軍隊を東アジアに移動中で、艦隊は合戦準備に入ったと伝える。

4月27日

一葉、萩の舎の稽古。

4月28日

久米桂一郎「裸体は美術の基礎」(「国民新聞」)。黒田清輝擁護。

4月28日

一葉、朝、護国寺で花を見る。夕暮に野々宮菊子が来訪、弟子への教授法などを教えてもらう。夜に孤蝶来訪。昨日も近くまで来たが、そう度々訪ねるのもどうかと思って遠慮したとのこと。夜更けまで話し込む。

兄虎之助に、援助してくれるという約束に礼状を出し、来月2日に母たきが訪ねることを伝える。

4月29日

一葉のもとに、午后、徳田初音が「徒然草」の講義を聞きに来る。次からは、毎週日曜ということにする。

4月30日

閣議、三国干渉部分受入決議(金州庁を除く遼東半島放棄、代償として相等金額支払いなど)。3国へ通告。


つづく

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