2024年5月24日金曜日

大杉栄とその時代年表(140) 1895(明治28)年3月1日~4日 鞍山站占領 漱石、愛媛県尋常中学校嘱託教員を承諾 従軍記者子規、新橋出発(従弟の古白との永訣) 牛荘子占領 小屋保治と大塚楠緒子入籍     

 

日清戦争の経過 中盤戦③ 遼河平原

大杉栄とその時代年表(139) 1895(明治28)年2月15日~31日 遼河平原掃討作戦始まる 中馬庚(一高二塁手)、「base ball」を「野球」と訳す 子規の従軍決まる 一葉「たけくらべ」(四)~(六) より続く

1895(明治28)年

3月

クリスチャン布川孫市が中心となり「社会学の原理、社会主義、社会問題等」を研究する目的で学術団体「社会学会」創立。機関誌「社会雑誌」。賛助者田口卯吉・三宅雪嶺・加藤弘之・ガルストら。幸徳秋水も出入りする。

3月1日

午前11時50分、第3師団、甘泉堡を占領。3時、新子台を占領。

翌2日午前10時50分、鞍山站を占領

戦局は新しい段階(遼河平原掃蕩)に入る。

3月1日

小倉遊亀、滋賀県に誕生。

3月2日

李鴻章(72)、長文の上疎を提出。領土割譲承諾しない限り難局打開できず、と訴える。

翌3日、これが容れられて北京発。

3月2日

狩野亨吉が漱石を訪問。

3月初旬(日不詳)

漱石、愛媛県尋常中学校嘱託教員を承諾


「三月初旬(日不詳)、高等師範学校と東京専門学校を辞して、愛媛県尋常中学嘱託教員を承諾する。(東京専門学校には後任として藤代禎輔(素人)を推施する)明治二十八年三月にやめるカメロン・ジョンスン(アメリカ人)の後任である。最初、愛媛県書記官浅田知定が菅虎雄に外人教師を依頼する。適任者がいなかったらしい。菅虎雄がそのことを話すと、外人教師なみの待遇なら行ってもよいと申し出たので、後任として斡旋する。(月給八十円)(東京から松山に行った動機は、何か特別の理由で、東京から脱出したものかと想像される。失恋説もある)」(荒正人、前掲書)

3月2日

子規、新調の洋服を着こんで、『日本』の従軍記者として新橋ステーションから大本営所在地広島に向う。同僚の鳥居赫雄(素川)が同行。高浜虚子、藤野古白らが見送る。

この日は、朝から俳句仲間が、もしかしたら二度と生きて会えないかもしれないという思いに駆られたのだろう、根岸の子規庵を訪れ、別れを惜しんでくれた。なかでも最年長の内藤鳴雪は、「君行かば山海関の梅開く」と送別の句を贈ってくれた。

そのときの様子を、子規は「陣中日記」の冒頭で次のように記している。


一身の命を天に委ねて順逆の境を人に咎めず有るは有るに任せ無きは無きに安んじ木曽の月に嘯き松島の風に吹かれて一簑一笠の身の上それを栄燿とも恩はざりけるを去年水無月の頃より西の方風雲たゞならず騒ぎまどひてあわや雷霆(らいてい)の声おどろおどろしう耳に響きしより世の中穏かならず只勝利のしらせ祝捷の酒盛に心を開くものから数ならぬ身も市に隠れ得ず何くれとほださるゝ事多きを寧ろ軍隊に従ひて大砲の声に気力を蕃ひ異国の山川に草鞋の跡を残さばやと思ひ立ちて三月の三日といぶに東京を出で立ちぬ。


「陣中日記」によると、おりから桃の節句の日であったことから、「雛もなし」という題で集まった仲間が句を詠み合い、子規は、「雛もなし男ばかりの桃の酒」「首途やきぬぎぬをしむ雛もなし」と二句詠み、さらに「かへらしとちかふ心や梓弓矢立たはさみ首途(かどで)すわれは」と、高ぶる気持ちを短歌に託して詠っている。

「当日の朝、虚子が根岸の家へ行くと、新調の洋服を着つつある子規のそばに従弟の藤野古白がいた。古白はこのとき満二十三歳であった。


万歳や黒き手を出し足を出し


子規のこの句を見つけた古白は、「近頃の升さんの句のうちでは面白いわい」と皮肉な口調でいった。子規の近来の句をみとめていないと暗につたえたのである。

「そんな句が面白いのかな」と子規は古白にいった。「それじゃこういうのはどうぞな。運命や黒き手を出し足を出し。その方が一層面白かないかな」

暴力沙汰がようやくおさまったと思ったら、今度はしきりに「運命」とか「人生」といった言葉をもてあそぶふうの古白へ投げた子規の皮肉であった。しかし、これが手を焼かされた従弟との永訣になろうとは、子規はゆめにも思わなかった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )


3月4日 子規、大坂に一泊

3月5日 子規、夕刻神戸着。夜10時の夜行列車で広島に向う。

3月6日 子規、広島に到着。

3月14日 子規、宇品から松山に向う

3月15日 子規、墓参のためいったん松山に帰省。三津浜着。2泊。

3月16日 松山の友人たちが三番町の料亭で子規のために送別の宴を張る。小万という芸妓が呼ばれる。

3月17日 広島に戻る

3月21日 近衛師団付きとして従軍許可される


「十年許り前に国に居て始めて東京に来る事を許された嬉しさにどうしても飯が喰へなんだ事があるが、其後今度のやうな嬉しい事は無い」(「我が病」)


3月6日、子規は従軍志願書に履歴書と作文を付けて、大本営副官部に提出。

「従軍願」;

子規は「愛媛県伊予国松山市湊町四丁目十番地士族」と「士族」出身であることを明らかにし、「右者此度近衛師団出征ノ場合二於テ新聞日本へ戦況通信ノ為メ従軍仕度御書ノ上ハ一切ノ御指揮確守仕候ハ勿論本人身上ノ事ハ社主其賢二任ズベク候此段以連署御願申上候也」と誓約・志願し、「正岡常規」で署名捺印し、陸羯南も「願之通」として「陸実」の実名で署名捺印している。次いで、子規は、「作文」として架空の戦争報道記事を添えて提出している。"

3月3日

午前11時30分、第3師団、耿家庄子に着。第5師団も崔家荘子に着。

4日朝10時、桂第3師団長、牛荘城攻撃命令。清軍の抵抗強し。午後0時10分、歩兵第7連隊(三好大佐)第1大隊が牛荘子市街南部に侵入。大島久道少将率いる歩兵第19連隊第3大隊は、清軍の退路を絶つ。第3・5師団合同で激しい市街戦

5日早朝の掃討戦、午前11時過ぎ牛荘子占領完了。

3月3日

韓楼教会攻撃未遂事件、劉士端の大刀会と天主教会の対立

3月3日

高野房太郎乗船のマチアス号、香港・アモイに各数週間滞在。

3月4日

小屋保治と大塚楠緒子、入籍

3月7日、原籍地での手続きが完了し、保治は大塚姓となる。


つづく

0 件のコメント: