2024年5月20日月曜日

大杉栄とその時代年表(136) 1895(明治28)年1月21日~31日 伊藤野枝生まれる 陸奥外相、御前会議に「講和予定条件」提出、承認される 威海衛南岸の清軍壊滅 一葉「たけくらべ」(1~3)『文学界』第25号掲載(1年間)    

 


大杉栄とその時代年表(135) 1895(明治28)年1月11日~20日 『文藝倶楽部』創刊(博文館) 清軍、海城に対し逆襲(海城の難戦) 孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗 漱石、『ジャパン・メール』記者になろうとして失敗 より続く

1895(明治28)年

1月21日

「京城雑信」(『日本』1月21日付、筆者「槐園」(鮎貝房之進か))

東学で先生と言われる法軒は崔時亭の諱で,大先生と言われる崔済愚は水雲と号していると正確に伝え、また「軍中節目」という規律書を「一主将者先覧英雄之心以義招之以礼封之」など全文紹介している。

1月21日

伊藤野枝、誕生(1895年1月21日~1923年9月16日)。福岡県糸島郡今宿村大字谷1117番地(現・福岡市西区今宿1126番地)。

1月22日

一葉、星野天知から「文学界」11月号への寄稿を24日締め切りとして依頼される。

1月22日

「朝鮮時事」(『東朝』1月22日付、連載、1月8日発,漢城・青山好恵発) 

「主務官」の取材により,後備歩兵第19大隊は,「朝鮮兵教導中隊二百人壮営統営経理営の兵千四百人を従へ」て全羅道忠清道の鎮定にあたっていると明かした。

1月23日

一葉、『たけくらべ』(1~3)脱稿。制作中の「雛鶏」を「たけくらべ」と改題して成稿。翌24日、星野天知に送る。

1月25日

「東徒征討軍報告」(『日本』1月25日付)

全羅道順天に派遣されている釜山守備隊の鈴木大尉からの報告(1月8日付) を掲載。1月5日,鈴木中隊は,朝鮮兵70名(左水営から河東府に派遣された部隊) とともに,蟾居駅付近に向かい,捕縛した東学のうち,「一都接主金以甲斬首一廿七名砲殺」の処刑を行った。

6日には部隊は光陽府に向かい,そこでは住民の手によって2名の「梟首」と89名の「砲殺」が行われていたという。住民による同様の処刑は,7日に順天府に着いた時も報告され,リーダー2名の「砲殺」,3名の「梟首」,94名の「打殺」が行われていた。

釜山守備隊が、昆陽・河東・長興などの東学鎮圧に,1894年12月30日から1月初旬まで従事している報告である。光陽・順天で処刑された東学が,合計200名もいるというのはこの地方がまだ鎮定されていないことを明確に示している。

1月26日

清国全権委員、上海を出発。

1月27日

御前会議。陸奥外相が「講和予定条件」(朝鮮の独立、遼東半島の割譲、戦費賠償、通商条約の締結)提出。樺山軍令部長が山東半島大半の割取を追加を求めるが、会議は原案を承認。日本側委員は伊藤首相・陸奥外相とする。

1月29日

文部省、「高等女学校規程」制定。高等女学校の学科課程、修業年限、入学資格などを定める

1月29日

漱石、狩野亨吉を訪問。

30日 漱石、菅虎雄と共に狩野亨吉を訪ねる。"

1月29日

「東学党に関する報告」(『東朝』1月29日付)

南小四郎大隊長からの報告を,仁川− 広島の経由で伝えた情報である。南は,東学2〜3,000人が海南地方から珍島・済州島にまだいるという情報を入手している。この後,第19大隊はこの地方に向かう。

1月30日

威海衛へ進軍の第2軍左翼隊司令官大寺少将、歩兵第13連隊第3大隊に摩天嶺攻撃命令。午前8時25分、砲台占領。揚峰嶺砲台は自爆し、午後0時20分占領。一方、左縦隊は虎山東北高地、鳳林集東南一帯高地を占領。

この日、日本軍戦死54・負傷152、清軍不明(後、第6師団は740を埋葬)。威海衛南岸の清軍は壊滅

1月30日

『文学界』第25号に「たけくらべ」(1~3)掲載。以下1年間にわたって断続的に掲載され、29年1月30日発行第37号を以て完結した。

「たけくらべ」が完結すると、博文館の大橋乙羽は掲載紙を集めて一葉に届け、「たけくらべ」の改訂整備を依頼し、『文藝倶楽部』に一括掲載することにした。改訂原稿は3月中に乙羽に届けられ、4月10日刊行の『文藝倶楽部』第2巻第5編に掲載された。

これが掲載されると、森鷗外や幸田露伴らに着目され、鴎外の主宰する『めさまし草』誌上での鴎外、露伴、斎藤緑雨の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられた。

星野天知:

本名は慎之輔、日本橋本町4丁目の砂糖問屋伊勢源の経営者星野清左衛門の次男。明治20年、東京農科大学林学科卒業。平田禿木とは地縁の関係からも早くから知り合い、明治20年(1887)には2人で日本橋教会の北原牧師に洗礼を受けた。在学中に明治女学校に迎えられ、武道教育、のちには心理学、東洋哲学、漢文などを教える。明治女学校の巌本善治から学校や『女学雑誌』の経営面について相談を受ける。

明治23年に『女学生』を創刊し主筆となり、かたわら白表紙『女学雑誌』の編集に当たる。明治26年1月この二雑誌を統合して『文学界』を創刊し、明治女学校に関係を持つ北村透谷、島崎古藤庵(後の藤村)、三宅花圃等に禿木や戸川秋骨、馬場孤蝶、一葉、そしてのちに上田敏と戸川残花などが加わった。天知が初めて一葉に会ったのは、明治27年1月13日下谷龍泉寺町を訪ねたときであった。この時の印象や状況については、「文学界と一葉女史」に詳しく書いている。天知は他の同人達ほど頻繁に訪れたわけではなかったが、日清戦争中一葉が窮乏を極めていたときには生活を助ける意味もあって、「暗夜」「大つごもり」「たけくらべ」と毎号連続して作品を掲載すかように運んで、原稿料が常に彼女の手に渡るように図ったりしている。因みに、『文学界』の原稿料は一般同人に対しては払わないのが原則であった。

大橋乙羽;

明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の生まれ。20歳のとき、磐梯山爆発の記事を『出羽新聞』に載せ、これが出版社東陽堂主人吾妻健三郎の目に留まり、上京して東陽堂に入社した。『風俗画報』『絵画叢誌』を編集し、政治小説『霹靂一声』などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。『こぼれ松葉』『露小袖』『霜夜の虫』などを書き、『上杉鷹山』の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。尾崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女とき(時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派や樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、博文館では『文芸倶楽部』のほか総合雑誌『太陽』の編集も手掛けた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合った。翌1896年には一葉の『たけくらべ』を『文芸倶楽部』に一括掲載して世に名を成さしめ、さらに乙羽の依頼で一葉は『ゆく雲』『にごりえ』など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。(wikipedhiaより)"

樋口一葉『たけくらべ』(青空文庫)

1月30日

長興付近の戦闘を「大本営掲示」に基づいて報道した「東徒撃退」(『日本』1月30日付)と「東徒征討報告」(同日の『東朝』)。

1月31日

後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊(「従軍日誌」筆者)の長興より西にある海南(へナム)での討伐。


「同三十一日,同所滞在。但し本日,東徒の残者七名を捕え来り,是を城外の畑中に一列に並べ,銃に剱を着け,森田近通一等軍曹の号令にて一齋の動作,之を突き殺せり。見物せし韓人及統営兵等,驚愕最も甚し。」(従軍日誌」)

(東学農民軍の7名を捕らえてきて,城外の畑の中に一列に並べ,銃剣で,分隊長の号令で一斉に突き殺した。)


軍曹は,第1中隊第2小隊第3分隊,兵士18名の分隊長で、第2分隊に居た「従軍日誌」筆者は,これを見ていた。見物していた朝鮮兵や朝鮮人は「驚愕」した。

1月31日

英露公使、陸奥外相と会見、講和条件を質問。2月1日仏公使も同様。

1月31日

「東学党討伐」(『日本』1月31日付)

独立歩兵第18大隊の石森枝隊が1月17日「テウゴインとインゼウとの間」で東学数百と戦い,「賊数十名を斃し我兵一名負傷」を伝える。


つづく




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