2024年5月26日日曜日

大杉栄とその時代年表(142) 1895(明治28)年3月16日~31日 小屋保治と大塚楠緒子が結婚 澎湖島占領 下関講和会議始まる 李鴻章、狙撃され重傷 「大刀会」成立 日清休戦条約調印 一葉「たけくらべ」(七)~(八)発表      

大塚楠緒子

大杉栄とその時代年表(141) 1895(明治28)年3月5日~15日 全琫準や崔時亨ら東学党指導者を評価するメディア論調 子規、広島で出征待機 子規、旧松山藩主久松定謨から刀を拝領  マルクス「フランスにおける階級闘争」 遼河平原掃蕩完成 澎湖島遠征艦隊、佐世保発 より続く

1895(明治28)年

3月16日

孫文ら興中会、広東攻撃計画

3月16日

参謀総長小松宮、征清大総督任命。

戦局進展・強硬論増大を背景に、山県は、大本営を大陸に進め開氷期を待って北京攻略を主張。海軍参謀山本権兵衛は、大本営前進は列強干渉のとき「幽閉孤立の姿」となるため危険と伊藤首相に進言。伊藤は「前進論は形勢の通ぜざる頑冥社中の浮説」とする。両者の妥協で、直隷作戦準備のため大本営幕僚の大半で征清大総督府を組織することになる。伊藤は、直隷作戦開始以前の講和を決心。

3月16日

下都賀郡と足利郡の被害町村、 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約結ぶ。安蘇郡にも働きかけがあり、田中正造がこれを受入れないよう説得。

3月16日

小屋保治は大塚家の養子になり楠緒子と結婚。

永田町の星岡茶寮で披露宴が開かれ、兄・直矩の羽織と袴を借りた漱石の外、大西祝・藤代禎輔・立花銑三郎・米山保三郎・狩野亨吉・菅虎雄・芳賀矢一、斎藤阿具らが出席した。結婚祝として橋本雅邦の描いた絵画を贈った。


■漱石と大塚保治・楠緒子

「大塚保治は漱石の一歳下、旧姓を小屋(こや)といった。帝国大学哲学科を恩賜の銀時計を受けて卒業すると、大学院では美学を専攻した。東京専門学校講師をつとめながら岡倉天心に師事して将来を嘱望された小屋保治は、この年ヨーロッパへ留学するのだが、それに先立った明治二十八年三月、法曹界の重鎮、大塚正男の養子となって大塚家の長女楠緒子(くすおこ、本名久寿雄くすお)と結婚していた。

明治八年生まれで小屋の七歳下、漱石の八歳下の大塚楠緒子は女子高等師範附属高等女学校時代から、その美貌で東大生たちの評判であった。小屋保治を婿養子に迎えたのは附属高女を首席で卒業した二年後、満十九歳のときであった。漱石のにわかな松山行はその直後にあたるので、楠緒子への失恋が原因ではないかという噂が立った。

噂が的を射ていたかは別として、小屋保治と結婚したのちも、彼女と漱石の間にはあわい交感があった。少なくとも楠緒子は、かつて自分を好きだった人として漱石を見ていたようである。

彼女の記憶は、まず明治四十年、漱石が東京朝日新聞入社後の第一作『虞美人草』の誇り高いヒロイン「藤尾」の命名に反映される。さらに、『それから』『門』『こころ』などの作品にも投影される。しかし、そこに見られる「三角関係」が、現実を映し出したものとは必ずしもいえない。明治四十三年晩秋、大塚楠緒子が三十五歳で死んだとき、「修善寺の大患」から生還した身を東京の病院で養いつつあった漱石は、つぎのような悼句を日記にしるした。


有る程の菊抛(な)げ入れよ棺の中   漱石」(関川夏央、前掲書)

3月17日

一葉、一昨日の孤蝶からの手紙に返信。「浮かれて見える孤蝶こそ、恋にかまけているのではないか、包み隠さず告白せよ」と言い返す。

3月18日

この日付け漱石の友人菊池謙二郎宛の手紙(返信)。

山口高等中学にいる菊池が漱石を山口に招脾してくれたことを謝しながら、「小生儀今般愛媛県尋常中学(のち松山中学)へ赴任の事と粗(ほぼ)決定致し」と記す。

3月19日

講和全権李鴻章(72)・全権大臣参議官李経方(鴻章息子、元駐日公使)・同参賛官馬建忠・同参賛官伍廷芳、下関着。

3月20日

午後3時、澎湖島遠征艦隊、将軍澳嶼に着。東郷平八郎司令官率いる「吉野」「浪速」が上陸地点を探索するが天候悪く状況不明。艦隊内は気温上昇による疲労・病気、佐世保停泊中のコレラの広がりを見せる。

23日11時30分、上陸開始。午後4時20分、後備歩兵第1連隊第1大隊長岩崎少佐、第1・2中隊率い太武社を占領。

24日午前6時30分、拱北砲台占領。正午、馬公城占領。

25日午前1時、円頂半島に追詰められた清軍、降伏。投降588。澎湖島占領完了。

26日、馬公城に澎湖列島行政庁を開く。

3月20日

下関講和会議。全権伊藤首相・陸奥外相、李鴻章・李経方らと第1回談判。下関・旅館藤野の「春帆楼」。冒頭、李鴻章が、停戦を申入れ。翌21日、日本側は、大沽・天津・山海関の占領など想定を超えた要求を停戦条件に持出す。李は3日間に猶予申入れ。

3月20日

一葉、「たけくらべ」(七)~(八)脱稿、『文学界』第27号に掲載。以降、金策を優先したため、8月の「文学界」第32号まで休載。

3月21日

子規に軍当局から正式の従軍許可が下りる。

3月23日

文相西園寺公望、東京盲唖学校卒業式で演説。26日、女子高等師範学校(第2次大戦後、お茶の水女子大に昇格)卒業式で演説。

西園寺は女子教育の重要性を「文明の基礎を固くするには女子智徳の進歩」が必要と主張。また、眼や耳の不自由な人々への教育について、「先天の不幸に打勝ち、人世の幸福を得しむるものなれば、文明の極美とも」いうべきであると評価。

3月23日

ドイツのマルシャル外相、日本の中国進出に対して、ロシアに共同行動を提案。三国干渉の端緒。

3月24日

李鴻章、休戦協議を後回しにして講和談判入りしたいと回答。この夕方、顔面を狙撃され重傷。犯人は慶應義塾中退の壮士・小山豊太郎(六之助)。日清両国から多くの同情。

「朝日」の西村天囚は全国有力新聞30紙の連名慰問文「李伯を慰す」を書き、「大阪朝日」はこれを社説とする。「閣下(李鴻章)異域に在りて奇禍に罹れるをや挙国驚痛固より怪むに足らず我輩草莽に在りと雖も筆政を司り世道を理する者此変を聞きてより眠食安んぜず」。暗殺未遂事件で、政府や新聞は、列強の対日感情が悪化して日清会談に割って入る事を恐れる。

3月24日

米国務長官、栗野公使に駐露アメリカ公使の本国宛報告を漏らす。ロシア軍3万が中国北部にあり増加中など。伊藤首相の休戦決意はこの情報が念頭にあったため。

3月25日

一葉に宛てて久佐賀義孝より久しぶりに、交際を求める手紙が来る

3月25日

イタリア・エチオピア戦争開始。

3月26日

朝,東学農民軍が銀波を襲い,2時間後「敵の死傷四百五十」を出して敗走した(『東朝』・『日本』3 月29日)

3月28日

「大刀会」の成立

劉士端、大刀会の「祖師爺」の誕生日に山東省曹県城の西にある火神廟で「唱戯」を開催。この頃より、劉士端の集団は「大刀会」と呼ばれる(幾つかの村(荘)が連合した地主・農民を母体とする郷土防衛の武力団体)。

4月~6月、付近を荒らす岳二米子・段二瞎子率いる盗賊団を平定。大刀会は曹州知府(毓賢人)の別働隊としてこれを助ける。しかし、中央政府は、大刀会を不逞の輩を集める反体制的運動と見做し、現地の知府・知県に討伐を命じるようになる。

劉士端:

1862年頃曹県の焼餅劉荘の小地主の家に生まれる。7歳より科挙になるための勉強を始め15~16歳で武術も学ぶ。故郷を追われ劉荘に流れて来た河北省河間村出身の白蓮教武術家趙金環を老師と仰ぎ文武両道を鍛える。武術は学び尽くすが科挙には合格せず、20歳半ば父が国子監の監生の地位を買い与える(「捐監」:県試合格の資格(秀才)を与えられ、次の段階の郷試を受ける資格を持つ)。

この年(1895年)2月、日本軍の山東上陸以降、山東一帯の秩序が乱れ地主達は武装自衛始める。劉士端も、焼餅劉荘に道場(「廠」)を設け、村民に武術を教える。

3月29日

一葉に宛てて、博文館支配人大橋乙羽から、1月創刊の文学雑誌『文芸倶楽部』の為の原稿依頼。かねてから半井桃水・藤本藤陰から紹介を受けていたと依頼の手紙に書かれてあった。「ゆく雲」を執筆し、4月半ばに原稿を渡す。予定を変更して、5月5日発行の総合雑誌「太陽」第5号に掲載。

3月30日

日本銀行・朝鮮政府間に300万円の借款成立。年利6分、租税抵当、3年据置後2年で償還、銀貨と紙幣半額ずつ。朝鮮の財政は破綻。官吏俸給3ヶ月不払い、軍政改革で解雇した軍卒退職金も未払い。

3月30日

日清休戦条約調印。台湾・澎湖島以外では無条件で停戦。日本側戦死・戦病死8,388人。

伊藤・陸奥の間で無条件休戦合意し、25日、伊藤は広島に向かい川上参謀次長・樺山軍令部長を説得。27日夜、勅許出る。28日、陸奥全権大臣が病床の李全権大臣にこれを伝える。半日で纏まる。

3月30日

大本営、占領地総督部編成発布、第2師団司令官佐久間左馬太中将を総督に任命。

3月30日

学士会で漱石の送別会

3月30日

大杉栄(10)、新潟県北蒲原郡新発田本村尋常小学校卒業(修業年限4ヶ年)

4月、新発田高等小学校卒入学

3月30日

一葉、『文学界』第27号に「たけくらべ」(七)~(八)発表。

奥田栄から、借金の3月分の返済要求

3月31日

後2時10分 21日間の休戦命令が全軍に布告。

しかし休戦条約第3条によって、子規の属する近衛師団は予定通り4月上旬に宇品港を進発することになっていた。

3月下旬

一葉、「軒もる月」完成


つづく


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