2024年5月29日水曜日

大杉栄とその時代年表(145) 1895(明治28)年4月11日~13日 子規、遼東半島に上陸、金州に入る 「たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや」(「我が病」)   

 

大杉栄とその時代年表(144) 1895(明治28)年4月8日~10日 ロシアなどの対日干渉の予兆 漱石、松山に赴任 子規、宇品出航 より続く

1895(明治28)年

4月11日

漱石、帝国大学の事務方に、在学中の貸与金(奨学金)の返済猶予を依頼する手紙を書く。在学中に月15円の貸与金を受けており、それを月7円50銭ずつ返すことになっていたが、その金がないという。松山赴任に際しても旅費・支度金が足らず友人に50円借りている。

この頃すでに、養家塩原家からの金銭上の要求があったのかも知れない。

この日夕方、漱石は中学校の歴史教師中村宗太郎の紹介により、旅館城戸屋から、松山地方裁判所裏手、城山中腹にある骨董商(いか銀)津田安吉の持家の愛松亭(後に久松伯爵別邸、現在愛媛県所有の万翠荘 松山市一番町三丁目二番地)に移る。6月下旬までいる。愛媛県尋常中学校へは徒歩20分である。(金子元太郎・山木孝太郎(数学)も住んでいた)に移る。


4月11日、漱石の清水彦五郎に宛て手紙を送り、

「小生在学中の貸費本月より早速御返済可申上筈の処始めて赴任の折色々の都合にて手元不如意につき両三月間御猶予相願度」と奨学金返還猶予を願う。清水からは猶予承諾の返事があった。

しかし、毎月7円の返済が3ケ月たっても返せず、清水から督促がきた。

6月25日、「申し出候期限も既に経過致候に付ては其中何とか致す心得に有之候処忽ち貴書を拝受し慚愧の至に不堪仰の通り追々両三月中より月賦にて御返済可致候」と返信(2、3ケ月中に月賦で返済すると約束)。

4月11日

一葉のもとに大橋乙羽来訪。雑誌「太陽」への原稿の催促をされる。

4月11日

ロシア、極東問題に関する第3回特別会議。ウィッテ蔵相の見解が採用され、日本に南満州占領地域の放棄を勧告する決定。日本の南満州占領は黒竜江州への脅威とみなし、かつ列強の中国分割の引き金になることをおそれ干渉に乗出す。16日、御前会議で決定。17日、ロシアはドイツに正式に干渉を提議。

4月12日

伊藤首相、西駐露公使より電報うける。ロシア陸海軍協同委員会が日本軍の北京侵入阻止の手段を検討、露仏連合艦隊により阻止できるとの結論に達した。

4月12日

漱石、教え子真鍋嘉一郎が書生として同宿させて欲しいと言ってきたが、図画教師高橋半哉と同宿することになったとその申し出を断わる。生徒が教員の居候になるのは当時の慣行で、漱石も熊本五高に移ってからは複数の五高生を置いている。


■愛媛県尋常中学の生徒

当時の愛媛県尋常中学の生徒は441人、1学年だいたい90人で、それぞれ2クラスあった。生徒中にはのちのちまで漱石に親しんだ真鍋嘉一郎、松根豊次郎(東洋城)のほか、桜井忠温、片上伸がいた。

片上伸は後年早稲田大学の教授となった。同性愛者で、学生であった井伏鱒二に迫ったことで知られる。桜井忠温は尋常中学から陸軍士官学校13期に進む。明治37年、25歳で旅順攻城戦に参加して負傷、後送される。明治39年、その体験を『肉弾』の題名で出版しベストセラーとなった。

桜井忠温は、道後温泉でたびたび漱石を見た。漱石が温泉に行くのはおもに日曜日だが、明治28年8月に一番町から道後へ、城山の北側を通って古町へ至る軽便鉄道が開通すると、より繁く通うようになった。

松根東洋城は、漱石の出勤姿 - まだ自動車も走らない時代で、二番町の大通りは広々としているのに、わざわざ道の端の溝ぎりぎりを、飛ぶように歩いて行く、なにかしら奇異な歩きかた - 記憶している。

安倍能成は明治29年4月入学なので熊本に去った漱石とは入れ違いになった。しかし、松山の繁華街大街道の芝居小屋で、子規と共に照葉狂言を見る漱石を目撃したという。安倍能成のような少年まで帝国大学出の学士である漱石を知っていた。本人は、ただ人々に意味もなく注視される、見張られていると認識していた。

4月12日頃

一葉「ゆく雲」完成

4月13日

子規、大連湾入り

4月15日 柳樹屯から遼東半島に上陸し、金州に入る。

この日、子規は一般民家に宿泊し、「支那の一老翁」と同じ部屋に寝るが、その匂いに辟易する。

子親が最初に目にした中国。海域丸が大連湾に入り、停留している間に船のうえから見たはげ山が連なる大連の自然風景、小さな船に乗って海域丸の周囲に集まり、敵国である日本の軍隊を運ぶ船に物乞いをする現地民の姿。


「行先遥かに山を見る漸く近づくに幾多の邱陵兀(は)げ並びて姿のけはしからぬさすがに大国の風あり。砲台に昨日の戦を忍びつゝ○○湾に碇を技ずれば乞食にも劣りたる支那のあやしき小舟を漕ぎつけて船を仰ぎ物を乞ふ。飯の残り筵の切れ迄投げやる程の者は皆かい集めて嬉しげに笑ひたる亡国の恨は知らぬ様なり。舟の形は画に見つる如く中部低く両端に高くして雅致多きものから不潔言はん方なければ悪疫の恐れありとて近づけざるもあはれなり。」(陣中日記)


現地人を「乞食にも劣りたる」とさげすみの者としてのまなざしは、森鴎外や夏目漱石のまなざしとも基本的に共通するもの。

たとえば、明治33(1900)年9月8日、ドイツ船プロイセン号に乗って横浜を出港した夏目漱石は、9月25日:シンガポールに寄港したさい、船のうえから見た光景を、「土人丸木ヲクリタル舟二乗リテ、船側ヲ徘徊ス。船客銭ヲ海中二投ズレバ海中二躍り入ツテ之ヲ拾フ」と記している。

漱石はさらに、10月1日、セイロン(現スリランカ)のコロンボ港に着き、上陸して仏教寺院を見学したときのこととして、「路上ノ土人花ヲ車中二投シテ銭ヲ乞フ且Japan、Japan叫ンデ銭ヲ求ム甚ダ煩ハシ仏ノ寺内尤モ烈シ一少女銭ハ入ラヌカラ是非此花ヲ取レト強乞シテ已マズ不得已之ヲ取レバ後ヨリ直グニ金ヲ呉レト逼ル亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」とも記している。ここでの「亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」という漱石のさげすみの意識は、子規が、大連湾に着いた船のうえから現地人を見下ろして、「亡国の恨は知らぬ様なり」と記した意識と通じるものである。

子規たち従軍記者は、柳樹屯に上陸したその日、金州まで進み、金州城内で一泊している。柳樹屯から金川までおよそ三里(約十二キロ)、途中目にした風景や人々の生活風俗を、子規は、上陸して初めて異国の現実に触れたことで新鮮に感じたのであろう、かなり微細に観察の目を働かせ、「陣中日記」に記述している。


「左に折れて金州へと志し戦後の破屋を見つゝ一町許りにしてはや村を外れたり。家も壁も皆石もて積み屋根は多く瓦にて葺き或は藁めきたるを用ゐたるもあり。郊外に凹凸形の壁あり兵営なりとぞ。門側の壁二三問許り白壁にて塗り其の上に獅子めきたる動物を画き色彩を施したり。山も畑も道も家も皆赭赤色を現はしたる中に独り此画の調子外れて色漉きを異なりと許しながら行けば大道一路多少の高低あれど眼に障る者なければ行先は五町も十町も見え渡りて織るが如き往来は七分通り日本人なり。靴痕車轍路かと見れば麦畑の中を横ぎり平野と見れば田圃皆山腹にあり。山巓低くして山脚長きがためなり。」


「先づ途上眼に触れたる地理風俗の一斑を示さんに気候は稍々暖く外套を要せず。路傍の畑は皆麦を種ゑて葉の長さ猶一寸許りそれさへも有るか無きかに痩せたり。耕作は総て牛馬の力を借りて人自ら鍬を把りたる者を見ず。柳樹屯全州間を往来する荷車の幾輛と無く続きたるを見るに多くは一事に驢馬四頭を用う。一頭前に在りて車を牽けば他の三頭は其の前に頭を並べて牽く腕車の綱引に似たり。車はさしたる変りもなけれど車輪の中は「キ」の字の如く木を組み立てたるを支那人一人車の前に坐し一間余の長鞭を取りで之を御す。をッをッをッあたあたあたと呼ぶ鴃舌(げきぜつ)解すべからず。」


子規は、「陣中日記」では「路傍の畑は皆麦を種ゑて葉の長さ猶一寸許りそれさへも有るか無きかに痩せたり」と記しただけの麦畑が広がる田園風景を、「我が病」では次のように丁寧に描写している。


「街道は極めてなだらかな禿山の半腹を繞つてついて居て両側には麦畑がある。実は麦畑の中へ勝手に街道をつけたのである。山といふも勾配が非常に緩い故に平地と同じやうな処もあつてそこには麦畑があるのであるが、その麦畑といふも日本のやうに畦や畝の高低が無いから何処でも踏む処が道になる訳なのだ。麦は今僅に芽が出て居るばかりで遠く見れば矢張禿山と同じ色だ。右の方に見える大和尚山の麓に少しばかり家のある村があるのを見下す外は殆ど家は無い。たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや

子規が金州に入った日(15日)、子規たちは第二軍付従軍記者用の宿舎に一泊するが、子規は、中国人の家屋の居室が手狭で、就眠用のスペースがないということで、中国人の老人と同じ部屋に寝ることを余儀なくされている。


「支那の家は六畳敷位の一間が半分は土間で半分が床になって居るから寝る場所が少い。

「誰か一人隣のチャンの室へ往て一処に寐てもらはねばならぬ。

と二軍附の人がいふから

余「僕が徒かう。

といへば

「君、チャンは臭いよ。それでもかまはなけりやさうしてくれ給へ、気の毒だけれど。

余は臭い位は橘はないから往て寝た。支那語の分る人が来てチャンに余と同宿するやうに命じたのでチャン(は)恐れ入った様で横の方へよって小くなって寝て居る。チャンは五十ばかりの男で蒲団も何も著て居らぬ。成種思ふたよりも臭いのでしばしは寝られなんだが、昼の疲れでいつの間にやら眠ってしまふた。」


その後、子規は、日数を経るにつれて、その臭気にも次第に慣れ「にんにく臭き土人の臭気もやうやうに鼻に馴れたり」と受け入れ、サソリやノミ、シラミに悩まされる現地の家屋での寝泊りを苦にしなくなっている。

4月13日

李鴻章、直隷作戦部隊の遠征を本国に伝える。14日、「日本の要求をいれれば京師なお保つべきも、しからざれば事意想の外に出づべし」と発電。清国の主戦論者は沈黙。総理衙門は日本の修正案を無条件で承諾する決定。

4月13日

竹越三叉「世界の日本乎、アジアの日本乎」(「国民之友」)。「世界の日本」を縮めて「亜細亜の日本」にするなと強調。

4月13日

愛媛県尋常中学校で送別会。橋本好蔵(習字・漢学)・石川一男(博物。帝国大学理科大学卒)・山木孝太郎(数学)・石川桓年(図画)の4人の送別会を梅の舎で催す。

4月13日

一葉に大橋乙羽より、「ゆく雲」原稿受領の礼状。また、雑誌掲載の慣例に基づき、一葉の略歴を送るよう求められる。


つづく


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