2024年5月19日日曜日

大杉栄とその時代年表(135) 1895(明治28)年1月11日~20日 『文藝倶楽部』創刊(博文館) 清軍、海城に対し逆襲(海城の難戦) 孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗 漱石、『ジャパン・メール』記者になろうとして失敗     

 

甲午農民戦争

大杉栄とその時代年表(134) 1895(明治28)年1月1日~10日 『少年世界』『太陽』創刊(博文館) 長興の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃) 漱石、円覚寺より空しく下山 乃木混成旅団の蓋平城攻略 『帝国文学』発刊 より続く

1895(明治28)年

1月11日

議政府を内閣と改める

1月13日

「順天府及光陽県の東徒(人民悉く帰順す)」(『日本』1月13日付)

軍艦筑波が,1月4日光陽沖に回航し,光陽城に分遣隊を派遣したことを報じる。

同日付の「忠清道の東党益猖獗」は,大邱から茂矢付近に朝鮮兵2〜300名が派遣されたことを伝える。歩兵第1 大隊などの東学殲滅作戦への専従部隊ではなく,軍艦の分遣隊が東学鎮定に従事している。より詳しい報告は,『日本』1月14日号の第一面に掲載された。

『日本』1月14日付の「順天附近東徒討滅の報告(掲第二六二号)」も軍艦筑波の報告で,1月5日光陽県下浦に分遣隊を上陸させ,光陽城に入れたこと,その後100人の朝鮮兵が光陽城に来るはずだったが未着など順天方面の状況を伝えている。同時に,光陽城で「梟首」された東学の指導者2 名の「首級及び屍体」を実検したこと,「光陽県方向接主朴興西其他凡そ四十名は砲殺し」たことも報じた。

1月14日

黒竜江将軍依克唐阿・吉林将軍長順、鞍山站・福来屯を出発し海城に向う。

17日、海城攻撃。

1月15日

西南戦争征討総督の有栖川宮熾仁親王(59)、没。

1月15日

一葉日記より。今年新しく我が家に来た人が2,3人いる。残念ながら、顔が良いのは学問の才能がさほどでもなく、才能がありそうに見える者は姿がさほどでもない。

1月15日頃

一葉、些か疎遠になった男からの手紙への返事を書いてくれと女が乞うてきたので書いてやる。

1月15日

博文館から『文藝倶楽部』創刊。

1月17日

清軍、第3師団(師団長桂)が占領の海城に対し第1回逆襲(海城の難戦、~2月21日、4回)。午後4時、退却。22日、第2回逆襲。失敗。2月16日、第3回逆襲、失敗。21日、第4回逆襲、失敗。

1月17日

孫乗熙の東学軍北接主力部隊、忠州で完敗。孫は第3世教主につき、のち、「天道教」を興し3・1独立運動に指導的役割を果たす。

1月17日

「忠清道の東徒解散」(『日本』1月17日付の)、「忠清道青山,報恩附近に在る東徒」「三百余名を殺し解散せしめた」旨を伝える。「報恩」は,この1月の激戦地。

『日本』1月19日付「忠清道の東徒」と「東徒征討別報」は,1月12日夜と13日払暁に東学を攻撃し,「東徒の死傷数百,分捕牛馬武器夥多」で撃退したと報じる。"

1月19日

後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、筑波艦長へ沿岸、珍島、済州島等の賊徒殲滅方の命令を下す。

同日、石黒支隊へ沿岸各地の捜索、賊徒捕縛の命令を下す。

同21日 、統衛営兵大隊長へ捕虜は必ず羅州本部へ送付すべきと命令を下す。

同22日、松木支隊へ珍島付近の残賊を速やかに殲滅すべきと命令を下す。(経歴書)

1月19日

漱石、夜、菅虎雄とともに狩野亨吉を訪ねる。

1月1月中旬~下旬(推定)

漱石、横浜の英語新聞『ジャパン・メール』の記者になろうとして失敗


「菅虎雄の仲介で、The Japan Mail 「ジャパン・メール」の記者を志望する。禅について英語の論文(大判約十枚)を送ったが採用されぬ。提出した論文は黙って突き返される。その態度に腹を立て、菅虎雄の面前で破り捨てる。(松岡譲)」(荒正人、前掲書)


「金之助が明治二十八年の早春ごろ、突然当時横浜にあった英字新聞「ジャパン・メイル」の記者を志望し、菅虎雄に仲介を依頼したのは、やはり追跡して来るものからのがれたい衝動が根柢にあったからだと思われる。当時彼は、高等師範学校と東京専門学校に出講するほかに、国民英学会でも教えていたが、教員生活がいやになったというより、むしろ東京を去ることを欲していたにらがいない。追跡して来るものはもちろん「罪」であり、彼はほとんどそれにおびえていた。

彼が採用を求めるために、菅虎雄を通じて「ジャパン・メイル」に提出した英文の論文は、禅に関するものであった。彼がこの主題を選んだのは、参禅の記憶が新しかったことに加えて、明治二十六年の夏、大学を卒業してまだ寄宿舎にいるころ、鈴木大拙に依頼されて鈴木が英訳した釈宗演の講演草稿に補筆したことがあったためと思われる。宗演は明治二十六年九月、シカゴで聞かれた世界宗教会議でこの草稿を読んだと伝えられる。

しかし金之助の論文は、なんの註釈もつけずに菅の手許に送りかえされて来た。それを持参した菅虎雄にむかって金之助は激怒し、「いけないならいけないで、どこがどういけないと、場所と理由を指摘して返すのか礼儀じゃないか。黙って突っ返すとは怪しからん」と叫んで、菅の見ている前で論文を引き裂いてしまったという。・・・・・だがこの挿話については、菅が最初から論文を「ジャパン・メイル」に送らなかったという可能性も考えられぬわけではない。・・・・・菅が金之助の志望を衝動的と感じていたためと考えられる。いずれにしても、発行部数もたかが知れている英字新聞の記者は、前途有為な文学士にふさわしい職場ではなかった。精神状態の不安定な友人が、軽率な行為で一生をあやまるのを坐視するにしのびないと菅が考えたとしても不思議はないのである。

そのためか間もなく菅は、愛媛県尋常中学校英語教論の口を周旋してよこしている。そのころ愛媛県当局は、英語英文学専攻の文学士をひとり尋常中学校に招聘する方針をさだめ、県書記官浅田知定に命じて人選にあたらせていた。浅田はその候補者選定を旧知の菅虎雄に依頼し、菅はさっそくこの口を金之助にまわしたのである。あい前後して山口高等中学校教授になっていた同級生菊池謙二郎からも赴任をうながす手紙が到着した。金之助が愛媛県尋常中学校(松山中学校・現在の松山東高校)を選んだのは、ひとつにはおそらく菅に頼る気特が強かったからであり、さらに愛媛県側が提示した待遇が破格なものだったからである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

1月20日

午前8時頃から、第2軍第1次輸送船、遼東半島から海路山東半島先端栄成湾上陸。威海衛南10km。~26日、第2次輸送の最後の揚陸完了。22日、英国支那艦隊旗艦「センチュリオン」が栄城揚陸を見学。

連合艦隊伊東司令官は、大山第2軍司令官と協議して清国北洋水師丁汝昌への勧降書を司令長官フリーマントル中将に託す。25日、丁汝昌に渡る。26日、威海衛に向け進軍

1月20日

戸川残花、初めて来訪。「毎日新聞」の「日曜附録」へのに執筆依頼。26日締め切りとのこと。「文学界」の締め切りにも追われて、とても慌ただしく感じる。「水沫(みなわ)集」を持参し見せてくれる。この月以降に残花から「罪と罰」を借覧。

*「水沫集」は鴎外著、明治25年7月2日刊行。「うたかたの記」「舞姫」などの自作と翻訳を多数含む。

*戸川残花は「毎日新聞」客員で文学史や評論を載せていた。

*一葉の「毎日新聞」への寄稿は、明治28年4月3、5日掲載の「軒もる月」となる。

1月20日

「東徒追撃巨魁就縛」(『東朝』1月20日付「)

南小四郎少佐からの報告として「金海南,全方淳,孫士文,曽文周等の巨魁ハ已に縛に就く」と指導者たちの捕縛をいち早く報道した。実際、全琫準らは前年12月2日に淳昌で捕縛されている。

1月20日

ロシア、極東艦隊の増強と朝鮮独立保障のための英・仏との協力を決定。


つづく

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