1902(明治35)年
1月20日
英、ベルファストで操業中の紡績工場倒壊。女子工員12人死亡、20~30人負傷。
1月20日
ロンドンの漱石
「一月二十日(月)、鏡から手紙来る。前年九月二十二日(日)に出した手紙の返事である。「それやこれや」で、手紙を出せなかったという弁解に、ひどく憤慨する。川住義謙(推定)の死去を知る。」(荒正人、前掲書)
1月21日
この日の堺利彦の記には、待ちに待った自転車が届いたことが書かれている。堺は初めて会社から自宅まで自転車で帰り、約50分かかったが、「愉快でたまらぬ」と喜んでいる。
1月21日
独アナトリア鉄道会社、オスマン帝国のアブドゥル・ハミト2世によりコニヤ~バスラ間の延長承認。バグダード鉄道敷設権獲得。バグダード鉄道の最終的承認。
1月22日
オーストリア皇女エリーザベト(18)、皇位継承権・法的相続権放棄宣誓式
23日、エリーザベトとオットー・ヴィンディッシュグレーツの結婚式。ホーフブルク宮。
1月24日
代議士竹内正志、「馬蹄銀事件」で質問書提出。
1月24日
アメリカ・デンマーク、西インド諸島デンマーク領3島売買条約締結。デンマーク国会批准拒否。
1月25日
日本の勧告と差異がなければロシアとの満州還付協約に調印することを、清国政府に提言。露清銀行契約は拒否。
1月25日
旭川、零下41度の日本最低気温を記録。
1月25日
中野重治、福井県坂井郡高椋村一本田に平民農藤作の次男として誕生。
高椋村には28の大字があり、うち一本田の戸数は49戸。年貢米が3千数百俵と入る多額納税の貴族院議員・大地主山田家は別格として、中野家は3町5反(3.5ha)程の自作農兼小地主、村の家の格としては「おおやけ」と言う。
父藤作は1866(慶応2)年生まれ、隣の大字一本田中の青池太左衛門の次男で、中野家の家つきの娘、治兵衛の次女とらの入婿となるた。重治は藤作35歳、とら28歳の次男・第2子である。
藤作は向上心のある人で、はじめ福井地方裁判所の雇となり、裁判所長由布武三郎に目をかけられ、由布が福井地方裁判所の所長、判事をしていた1892、93(明治25、26)年、東京で不正規の短い教育を受ける。1897年3月~7月、日本法律学校(日本大学の前身)の聴講券が残っており、聴講料納付の証印がある。藤作は、名古屋鎮台砲兵二等卒として日清戦争に従軍、無事凱旋した時、由布の喜びの手紙を届ける。
1898(明治31)、裁判所の雇を辞め、台湾総督府臨時台湾土地調査局に勤め、ほぼ事業終了の1904(明治37)年まで台湾に在勤。この経験は、1910(明治43)年~1918(大正7)年、朝鮮総督府の土地調査事業に引き継がれ、朝鮮での土地調査事業の当初から終了時まで従事。中野藤作の名が初めて公に見られる1905(明治38)年の「職員録」では、5月1日現在、「大蔵省煙草専売局秦野葉煙草収納所属、七給俸」とある。
1904年、日露戦争の財源確保の為、「煙草専売法」が成立、施行。重治(3)は、両親と3人で、神奈川県中郡平塚町、ついで秦野町に住む。10歳年長の兄耕一は、福井中学校生で一本田の祖父母のもとにいた。重治4歳の時、藤作は秦野から鹿児島煙草収納所へ転勤となり、一本田に戻り祖父母に育てられることになる。
重治が一本田に戻ったこの年1月に上の妹鈴子が一本田で生まれ、重治と入替るように鹿児島で親子3人暮らしをする。1909(明治42)年、藤作は朝鮮に渡り、初め統監府の土地調査局の主事、1910年の韓国併合後、朝鮮総督府臨時土地調査局設置初日からそこに勤める。藤作は、鴨緑江を遡る中国国境辺まで出張している事が、残された手紙からわかる。この年、長男耕一が四高に入学(翌年、名古屋八高を受け直す)、より多い収入を求めての外地勤めと思われる。この後、中の妹はまを、下の妹美代子が生まれ、藤作が勤めを辞めて一本田に戻る迄、父の勤務地と郷里に分かれての変則的な生活を送る。
1908(明治41)年4月、6歳、第三高椋尋常小学校(のち高椋西尋常小学校と改称)入学。
1914年(大正3)年3月(12歳)、高椋西尋常小学校卒業。
4月、福井県立福井中学校入学。6月、祖母みわ没。7月、兄耕一、第八高等学校卒業。
1918(大正7)七年7月、兄耕一、東京帝国大学法科大学法律学科(独逸法兼修)卒業。丸岡町で芸者をしていた松本こよと結婚、朝鮮銀行に就職して京城に行く。11月、松田銀行部の名で営業しているウラジヴォオストーク支店に転じる(翌年8月病没)。
1月26日
帝大生中心に第2回被害地視察計画。文相中止命令。250余単独敢行。東京府知事、視察・義援金募集・路傍演説禁止。
1月26日
徳富廬花「黒潮」発表。
1月29日
啄木(16)、友人等と「岩手日報」号外「青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件」を売り足尾銅山義援金とする。
関連の歌
夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや
1月29日
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、カーネギー研究所設立。
1月30日
第1回日英同盟協約調印。ランスダウン英外相と林董駐英公使、ロンドン。
締約国の一方が他の一国と交戦する場合は中立、2国以上と交戦する場合は参戦することなどを規定。中国・韓国における日英の権益保護、戦時における両国間の協力関係確立を明記。即日実施。公示は2月12日。
英は「光栄ある孤立」政策放棄。
伊藤博文・井上馨らはロシアと妥協して対露戦争を回避する日露協商論。
山縣有朋・桂太郎・小村寿太郎はロシアの極東進出を警戒するイギリスと組むことでロシアを牽制する日英同盟論。
同盟後、日本の背後にはイギリス・アメリカがつき、ロシアはフランスと結び、イギリスとフランスの共同の敵ドイツはロシアの東進を期待する複雑な構図の中で、日露の対立は深まる。
「とにかく提灯に吊鐘、お月さまとすっぽんの縁組ができたようなもので、すっぽんにとってはうれしいことに違いなかった。誰もみな涙をこぼすほどよろこんだ。昨日の仇敵は今日の友、日の丸とユニオンジャックのふらっぐとをぶったがいに、どこの家でも門口に立てて祝った。何だか二十世紀になるそうそう、夜が明けたような気がした」(生方敏郎『明治大正見聞史』)
「無論、これは日本人の大勝利である。これまで主義として同盟を結ばなかった国家が人権を異にする国民とまったく平等の見地に立って結盟したということは。慶應義塾の学生は盛んたる炬火(たいまつ)行列をなし、同時に英国公使館にて万歳を叫んだ」(ベルツの日記)
「これくらいのことに満足致し候様にては甚だ心もとなく存ぜられ候」(漱石)
1月30日
シベリア鉄道ウラジオストク~ハバロフスク開通。
つづく
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