2025年1月28日火曜日

大杉栄とその時代年表(389) 1902(明治35)年1月27日~31日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍③完〉 青森第5連隊の生存者は11名(全員が凍傷により手や足を切断) 「天災」による遭難と見做され第5連隊長軽謹慎7日処分のみで終わる

 

遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の像

大杉栄とその時代年表(388) 1902(明治35)年1月25日~27日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍②〉 青森第5連隊第3日目 方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていたため、前進・反転を繰返す。神成大尉「天は我を見捨てた」と叫ぶ より続く

1902(明治35)年

〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍③完〉

1月27日

〔救援隊による捜索と後藤伍長発見〕

救援隊は捜索活動を再開。田代まで行き、行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して出発した。

午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中にたたずむ後藤房之助伍長を発見。後藤はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救護隊の為めに救助せられたるものなり」と述べている。

発見時の様子については種々あるが、同年7月23日発行の『遭難始末』によれば、目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救命処置を施して約10分後に蘇生した。この説により、以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』などと喧伝され、後に銅像が建立された。


〔神成大尉らの遺体発見〕

意識を取り戻した後藤伍長が「神成大尉」と言葉を発したため、付近を捜索すると約100m先に神成が倒れていた。神成は帽子や手袋も着けぬまま首まで雪に埋まっており、全身が凍結していた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。やむなく口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま死亡した。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されたが、2名の遺体を運ぶことはできず、目印を付けて後日収容することとし、後藤と重度の凍傷で倒れた救援隊員の計2名の生存者を救護して田茂木野へたどりついた。

午後7時40分、三神少尉が連隊長官舎(青森歩兵第5連隊長津川謙光中佐)に駆け込み、大滝平での後藤伍長発見の報に加え、雪中行軍隊が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを報告した。

1月28日

〔第5連隊第6日目〕

倉石隊の佐藤特務曹長が発狂、下士兵卒を連れて川に飛び込み、岩に引っ掛かり凍死。倉石は数名を連れて崖穴に入ったが、山口少佐ら数名は川岸にいた。倉石のいる所の方が場所的には良かったので、倉石は山口に崖穴に来るよう勧めたが、山口は「吾は此処にて死せん」として拒んだ。比較的動けた山本徳次郎一等卒が山口に水を与えた。

1月28日

この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢~大峠経由で田茂木野を目指した。この行軍で青森隊の遭難地を通過する際に遭難者を見たとする説がある。

1月29日

〔第5連隊第7日目〕

救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容。

1月29日

午前2時過ぎ、弘前隊は前日からの強行軍の末、田茂木野に到着。

民家で食事したのち午前4時20分に再び出発し、午前7時20分に青森駅前に到着。

1月30日

〔第5連隊第8日目〕

後藤惣助一等卒が倉石大尉らと合流。

救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に下りていった道である。「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来するといわれる。

1月31日

〔第5連隊第9日目〕

午前9時頃、鳴沢付近で捜索に加わっていた人夫が、炭小屋を発見し、中にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出。朝まで生きていたというもう1名の遺体も発見した。三浦、阿部の両名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は記憶がなく、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体を発見した。なお、三浦は3月14日に入院先で死亡した。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。1902年2月6日付萬朝報に「故に某将校は鈴木少尉の死体を発見せし時、『是れ死後二十時間以上を経しものに非ず。捜索今一日早かりせば』とて深く捜索の緩慢なるを遺憾とす」という記述が残っている。

午前9時頃から倉石大尉らが崖を登り始め、午後3時頃、250mほど進んだ所で倉石、伊藤中尉ら4名が救援隊に発見された。生存者計9名が救助されたが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。同時に救出された山口少佐も入院先にて2月2日に死亡した。

1月31日

この日、弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。数千人の市民が沿道で出迎え。


〈その後の動き〉

〔第5連隊第10日目〕

2月1日、賽の河原付近にて数名、按ノ木森から中ノ森にかけては十数名の遺体を発見。


〔第5連隊第11日目〕

2月2日、捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見出した炭小屋において、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4名の生存が確認された(佐々木、小野寺の両名は救出後死亡)。当初小屋には8名の生存者がいたが、うち比較的元気な3名は屯営を目指して出発したのち全員凍死し、永井軍医は助けを求める声を聞いて外出したきり戻らなかったという。

午後3時頃、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯付近の小屋で発見された。村松は四肢切断し一時危篤となったが、かろうじて回復した。25日朝の遭難当時、村松は古館らと共に隊からはぐれ、青森を目指したが道を誤り、26日午後にこの小屋を見出した。中には茅が積まれていたがマッチが無かったため火をおこせず、翌日古館が死亡した。村松は付近で発見した温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後は寝たまま雪を食べていたという。


最終的な生存者は、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)の11名のみ。

この他、山口鋠少佐、三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の6名は救出後に斐なく死亡した。

生還者は、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長を除き、その全員が凍傷により足や手の切断した。比較的軽症者のうち、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。他の者は四肢切断(一部は両下肢と手指部のみ)であった。また、最も健常だった倉石は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤、長谷川も重傷を負った。


2月1日、陸軍省は調査委員会設置(委員長陸軍省人事局長中岡黙少将)。

4月10日、報告書。陸相寺内正毅中将が意見を求めた参謀総長大山巌元帥は「人災」とみなし、教育総監野津道貫大将は「天災」とみなす。

天皇は、報告書の立場をとり、第8師団長立見尚文中将・第4旅団長友安治延少将の責任には触れず。第5連隊長津川中佐は軽謹慎7日の処分


つづく


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