2009年2月12日木曜日

1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(9)

前回(3月29日)の追加
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
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3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
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未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
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「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
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・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
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・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
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日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
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・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
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・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
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・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
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○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
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○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
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・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
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・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
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・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued

2009年2月11日水曜日

横浜 日本郵船歴史博物館



所在地:神奈川県横浜市中区海岸通3-9
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海運会社・日本郵船(明治18=1885年創立)の歴史博物館。昭和11=1936年竣工。海岸通りに面し、16本のギリシャ・コリント式円柱列を持つ。
1993 年から横浜市内に「日本郵船歴史資料館」を開設していたが、2003 年(開設10 周年)、郵船ビル内に移転し、「日本郵船歴史博物館」としてリニューアルオープンしたもの。
この会社、山下公園内の氷川丸保存にも貢献されているとのこと。
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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明治17(1884)年10月16日~23日 秩父(12)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 佐久の由党員菊池貫平・井出為吉、秩父蜂起に同調決意 自由党本部の鎮撫使、秩父入り

■明治17(1884)年秩父(12)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月16日
・「朝野新聞」雑報「年賦無利息請願党」。困民党を「無類ニケチナル党派」と揶揄。
この頃、「自由新聞」社説もまた、困民党は「国家心腹の病」「誠に恐るべき1大痼疾の開端」と突き放す。
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10月18日
・石坂公歴ら神奈川県出身の在京民権青年たちの読書会、始まる。~18年1月17日(9回)。神奈川県自由党系青年を結集。若林美之輔・堀江荘太郎・北村門太郎(透谷)・水島丑之助ら第1線民権家など20名。
北村門太郎(透谷、早稲田大政治科)は11月15日に1回出席のみ(透谷の心境は公歴から離れ始める)。
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10月19日
・「自由党中有名ノ弁士」を招いて大宮で演説会。
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19日
・露木殺し被告加藤民五郎ら8人全員死刑判決。横浜重罪裁判所。
農民や指導者(須長ら)の抱く先の「松木騒動」同等の処分との甘い期待は裏切られ、権力の強い意思を示す。
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10月20日
・秩父、新井周三郎宅で会合。
「周三郎宅ニ寄り集合シタル折、周三郎ガ延期願立御取上ゲニナラザレバ、債主ヲ打毀チタル上、警察署ヲモ破壊スルヨリ外ナシト云フニ同意致シヲリタリ。」
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・佐久。秩父郡三沢村の小野派一刀流剣士(田代栄助の子分)荻原勘次郎(23、のち三沢村小隊長、懲役8年)、南佐久郡相木村菊池恒之助(40)方を訪問。
自由党員菊池貫平・井出為吉に秩父蜂起の際の同調求め賛意得る。荻原が戻るとき井出代吉を視察のために同道させる(佐久の第1陣)。
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勘次郎、「今回大宮の田代栄助を首領と仰ぎ以て政府顚覆の革正軍を起すぺく、既に檄を四方に飛ばし、秩父一度蹶起せば四隣忽ち響応の策略である。就ては当地諸君に於ても是非参加を仰ぎたい。・・・来る二十六日には秩父郡石間村あのう山(莱野山)に大会を催するから様子見旁々有志両三輩の御臨場を仰ぎたい・・・」と言う。
北相木村の自由党員・有志は協議のうえ、菊池貫平、井出為吉、菊池市三郎、高見沢仙松の4人をまず派遣し、「篤と形勢を視察の上、模様によっては全部引揚げる事、又充分見込みがある様なら誰か一人帰還報告を待ち夫れより一同出発仕ようといふことにした」と云う。
また、「公然到着を報じ一旦同盟をなせし上、又其模様が面白からじとあって其処を立退くと云ふ事は、場合に依って或は出来兼ねるやも知れず。是は夜に入って、群集に交り、篤と様子を見極めた上にて充分見込みが相立つ様なら、其処で公然申込むも決して遅い話でない」と菊地貫平が主張。
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佐久からは、第1陣(21日)井出代吉、第2陣(25日)北相木村菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第3陣(27日)北相木村菊池貫平(37)・井出為吉(25)が、秩父へ出発。
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□秩父と佐久の関係。
萩原勘次郎を宿泊させた菊池恒之助(40)の判決文(罰金15円)に、「被告人ハ明治十七年九月頃萩原勘次郎外壱名ヲ剣道指南ノタメ自村ニ招待シテ宿泊セシメタリシ際、埼玉県武蔵国秩父郡ニオイテ困民団結ノ模様アルヲ聞知シ居タルトコロ同年十月二十日サラニ勘次郎来宅、同郡ニオイテイヨイヨ困民党ヲ結ビ債主ニ対シ年賦据置ノ談判ヲナシソノ急ヲ救ハント計画中ナレバ当地方ニオイテモソノ党ヲ結ビ彼我通牒シテ談判セバ困民ノタメナラント勧誘セラレ同意ヲ表シ」とある。
これを見るだけでも勘次郎は、既に9月に「剣道指南」の名目でこの村を訪問しており、秩父からのオルグのアプローチは以前よりあったと推測できる。
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10月20日
・この頃(20日頃)、群馬・山中谷の乙父村の鶴吉、上州自由党の拠点・南甘楽郡坂原村の党員新井省三に秩父の様子を尋ねる。石間の新井繁太郎に聞けとのことで、彼を訪問し11月1日蜂起を知る。
新井愧三郎の南甘楽郡坂原村には自由党員29名で2/3が明治15年以降入党者。しかし、秩父事件参加者は新井省三含む2名のみ。また、群馬側の秩父事件被告261名中、この村からは雇われた代人2名のみ。
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10月22日
・この頃(22日頃)、群馬・日野村の新井貞吉(小板橋禎吉)、恩田宇市のオルグを受ける。
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宇市は、「何レ当年之内ニハ秩父郡ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルニ付、其時ニハ自由党ハ出ル様ニ」と内々聞かされ、その後も、「式ヲ挙ル事モ荒増極マリ、今一度秩父へ往テ来レバ時日モ定マルニ付、村方ノ自由党へ能ク咄シヲシテ置イテ貰ヒタシ」と聞かされる。このとき宇市らは貞吉の家に泊る。
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10月23日
・この頃、大井憲太郎派遣の自重促す「鎮撫」使氏家直国、井上伝蔵宅入り。
「東京ノ本部カラ軽率ナキ様致セト申越シタル」(常次郎尋問)。先に秩父自由党(井上伝蔵か)が獄中の村上泰治の妻ハンを大井憲太郎の許に派遣。
ハンは、大井を竹川町の邸に訪ね、「兵を挙ぐる、まさに三日の中に在る」と告げる。大井は驚き軽挙妄動がことを誤ると戒め、氏家直国を秩父へ急派し説得させる。しかし、困民たちの堅い決意を翻意させることはできない。
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□「而して一方に於ては、村上の妻を遣はして大井憲太郎の所に到らしめ、兵を拳ぐるまさに三日の中に在るを報ず。大井大に驚き、其軽挙事を誤るを慮り、特に部下氏家直国を遣はして之を鎮撫せしむ・・・。」(「自由党史」)。
「東京ノ本部カラ軽卒ナキ様致セト申越シタルコト」
「問 東京本部ヨリ、何日、誰レカ伝蔵方ニ来リシカ、且ツ汝ハ本部ノ使ニ面会セシヤ。 
答 使ノ来リシハ本年十月二十三日ノ夜ニ有之候、而シテ其使ノ氏名ハ自分知ラザルハ勿論、巳ニ面会モ致サザルナリ、尤モ暴発ノ事ニ決シタルガ為メ、使モ力ヲ落シ帰京シタリト伝蔵ヨリ承知セリ。」(常次郎訊問調書)。
村上泰治の妻ハンを本部に派遣したのは前後の文脈から井上伝蔵と推測できる。
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□常次郎供述に、「自由党本部ヨリ下吉田村井上伝蔵方ニ騒挙ノ事ナキ様ニ致セト申越シタル事モアレバ、自分外ニ井上伝蔵ハ強ヒテ平和説ヲ唱へクレドモ・・・」とあり、秩父国民党内で自由党中央に名の知られる正式党員伝蔵・常次郎は、本部指令の平和説をとったと推測できる。
この平和説は本部指令への盲従と日和見主義と見られ、常次郎は即時決起派加藤織吉・柏木太郎吉からと、関東一斉蜂起・蜂起延期説の栄助と、から挟撃される。
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23日
・ドイツ留学中森鴎外、衛生学者ホフマン訪問。
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to be continued

2009年2月9日月曜日

横浜 ヘボン博士邸跡



山下公園の前の道を海に向かって一番右端、フランス山の麓の川べりにあります。
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前に一度引用した一文です。
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「慶応二年には、幕府が一般に海外渡航を許した。この年岸田吟香が、ヘボンとともに上海に渡っている。ヘボン、米国長老教会の宣教師で医師、安政六年(一八五九)来日、のち明治学院最初の総理となる。ヘボン式ローマ字の創始者である。このヘボンの和英辞書編纂の助手となったのが岸田吟香で、稿が完成した一八六六年、その印刷のため上海に渡ったのである。このときは約九ヵ月で帰国するが、のち『東京日日』の主筆として、福地桜痴、成島柳北らとともに活躍、一八七七年(明治十)東京日日を辞すると、銀座に楽善堂という薬店を開業、ヘボンから処方を教わった眼薬精綺水の販売を始め、一八八〇年、英租界河南路に葦堂支店を開設した。上海の楽善堂は、薬・雑貨のほか、中国の古典の小型活字版を出版して好評を博し、年に三万冊の売り上げをみたという。
いっぽう岸田はこれによって得た資金で、多くの「支那浪人」や軍人を食客として養い、漢口・長沙など各地には、これらによる楽善堂支店・出張所が開設され、日本の中国進出の触角あるいは尖兵ともなった。岸田は東亜同文会、東亜同文書院の創設にも関わっている。画家の岸田劉生の父としても知られる。」(丸山昇「上海物語」(講談社学術文庫)。
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ヘボンの律義さが印象的。
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確か、内山完造さんも、初め上海に渡った時は、目薬の販売だったような記憶が・・・。
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ヘボン邸跡
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下記もご参照下さい。
「フランス山」
「ホテルニューグランド」
「山手洋館」
「山手ゲーテ座」

天文3(1534)年 信長1歳

天文3(1534)年 [信長1歳]
1月10日

・三条西実隆、若狭武田氏の在京雑掌吉田四郎兵衛光慶から旧冬の書状と海鼠腸五桶を受け取り、22日扇子と共に四郎兵衛へ書状を遣わす(「実隆公記」)。
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24日
・山科言継、山科郷還付安堵の礼に将軍義晴の仮幕府のある桑実寺へ下向。~閏正月4日。この頃の将軍義晴と山城守護晴元の状況。
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山科家は山科東庄の農民の半済闘争による年貢難渋に悩まされ、天文2年8月、将軍足利義晴の滞在する近江の桑実寺に雑掌を派遣して安堵の奉書を要請、同月15日付で幕府の奉行人奉書発給を受ける。
「山科内蔵頭雑掌申す城州山科大宅郷地頭職・同諸散在椥辻等の事、去年御下知を成さると雖ども、違乱の族未だ休まずと号し、事を左右に寄せ年貢難渋せしむと云々。以ての外の次第なり。早く先々の如く厳密に彼の雑掌に沙汰し渡すべきの由、仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文二 八月十五日 (飯尾)尭連判 (松田)晴秀判 当所名主沙汰人中」
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しかし、幕府奉書のみでは実効なく、同年9月5日、言継は雑掌沢路隼人佐を摂津芥川城に下向させ、山城守護細川晴元の遵行状の交付を仰ぐ。
「山科内蔵頭家雑掌申す禁裏御料所城州東庄大宅郷地頭職・同諸散在地椥辻等の事、公方の御下知を対せられ相違無きの処、繹を左右に寄せ年賀以下難渋すと云々。言語道断の次第なり。所詮、他の妨を退け厳密に其の沙汰を彼の雑掌に致すべきの由状件の如し。天文二 九日七日 (茨城)長隆 当所名主百姓中」。
茨木長隆は細川晴元の奉行人。この頃は、芥川城(高槻市)で細川氏による訴訟手続・審理が実行されており、京都の荘園領主その他種々の権益を権力によって保障されることを望む人々は、近江桑実寺と摂津芥川城の双方へ足を運ぶ必要がある。
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[行程] 
24日、局務(太政官外記局の事務を掌る家)押小路師象・雑掌沢路隼人佐・小者与三郎と共に京都発。
25日五ツ時分(午前8時前後)桑実寺着。姻戚の高倉家の宿へ落ち着き、翌26日九ツ過ぎ(正午過ぎ)、将軍義時の居所へ出向く。言継には特に対面が許され、持参した太刀を義晴に献上。その後、子局(コノツボネ)・今局(イマノツボネ)などに土産の薫物をことづけ、近習の朽木民部少輔の居館を訪ね、次いで内談衆大館常興・同高信・同兵庫頭・近習三淵弥二郎・上野与三郎・細川伊豆守・奉行人清四郎らを訪問、それぞれ土産として馬具の手綱・腹帯等をつかわす。夜は高倉永家の居館で宴会、前記の近習、海老名備中守・小林民部少輔・安東平次郎等の奉公衆が招請され、深夜大飲に及ぶ。
このように桑実寺には将軍側近はじめ内談衆・申次・奉公衆・奉行人(右筆衆)など、幕府家臣団の殆どが各宿坊や近辺民家等に分宿し、幕府の機構がそっくり湖東の一寺院に移動した観がある。
桑実寺は近江守護六角定頼の本城(守護所)観音寺城の西南の山すそに位置する要害の地にある。
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2月(日付なし)
・越前敦賀郡司下代の前波吉長下知状によると、これより先、川舟衆と河野屋衆の間に紛争。
裁決は越前諸浦の入買(塩・四十物などの買い付け)は川舟衆のみに認められ、入舟(荷物の敦賀湊への運送)は川舟・河野屋両座にのみ許されるとし、他が入舟を行なったときは荷物など押さえて注進せよとする。
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敦賀湊を含む敦賀郡は、朝倉氏支配下では敦賀郡司が置かれて支配される。
敦賀湊では室町中期頃には船仲間として川舟座・河野屋座が成立。
川舟座は嶋郷内の舟人により構成され、廻船業の主力となる。河野屋座もやがて廻船業に加わるが、天正年間(1573~92)には川東へ移り、川東御所辻子町・川東唐人橋町ができたといわれる。
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2日
・日向、米良一揆衆、新納高城を攻め落とす。5日、伊東祐清、伊東左兵衛佐派をほぼ制圧。28日、新納高城の米良一揆衆を鎮圧するが、重臣荒武三省ら多数を失う。
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29日
・荘園領主山科言継、禁裏「六町」町組の執行機関「月行事」(ガツギョウジ)に宛てて、禁裏の周囲に防禦用堀を構えるため朝廷より人夫動員命令が下ると伝達(「言継卿記」3月1日条)。
但し、この六町は禁裏堀人夫賦課の為に編成された特殊な組町で、この段階では荘園体制に組込まれている。町衆による町の自発的防衛は未成立。
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山科家の折紙。
「禁裏様東南の堀の事、近日御用心の間、御警固を致されんが為、六町の輩普請せられ候はば神妙たるべきの由、堅く申すべきの旨、山科殿御奉行候所なり。仍て状件の如し。 天文三年二月廿九日 沢路隼人佐重清判 坂田民郡少輔頼家判 六町月行事」。
自治的組織としての町組「六町」の存在を示す初見史料。町組の執行機関「月行事」が置かれており、厳蔵主(ゾウス)がその月行事である事などが判明する。
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この「月行事」は、農村における自治組織「惣」の執行機関、乙名(オトナ)・沙汰人等に相当。文明17(1485)年末の山城上3郡国一揆にも「惣国月行事」として史料に現れている(「大乗院寺社雑事記」文明18年5月9日条)。また、近世都市の下級町役人として江戸・大坂・博多等にその名称が残る。このような自治組織町組「六町」(一条二町・正親町二町・鳥丸・橘辻子)は京都の町組の個別名称として初めて現れるもので、六町結成の直接的契機は、禁裏堀普請人夫の賦課とされる。
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山科言継の邸宅は、禁裏御所に近い一条烏丸下ル東側、烏丸通りに面する場所にある(現、京都御苑内の乾御門・中立売御門の中間、宮内庁京都事務所の南側付近)。この言継の居住した一条鳥丸の周辺に禁裏六丁町が形勢される。
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3月(日付なし)
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・越後守護上杉定実の一族上条定憲と守護代長尾為景、上条・柏崎周辺で合戦。
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・仏、エチエンヌ・ドレ、トゥールーズで逮捕。3日間下獄。釈放。5月下旬、逃亡。9月リヨンへ。
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18日
・朝廷、将軍足利義晴へ法華宗徒の京都山科郷違乱を停止させる(「言継卿記」)。
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法華一揆は天文2年末以降、反細川晴元党・一向一揆の拠点となるうる郊外農村を焼払うが、この頃には更に進んで郷村の下地支配を行おうと、洛外農村の代官請(徴税請負)を諸領主に申請するに至る。山科言継の山科七郷もその対象となる。
町一揆を疑惑の目で眺めていた言継は、ここに至り明確に警戒・不快の念を持つ。「広橋(兼秀)より使いこれあり。山科七郷の儀に就(ツ)いて申し度きこと有るの由申され候。番の間明日罷るべきの由申し候い了んぬ。」。翌日広橋兼秀の邸へ赴く。「四ツ時分広橋へ罷り向かうの処、江州椿阿より、大和内山の中院僧正を以て言伝てすと云々。日蓮衆、木沢(長政)に付きて六角(定頼)を以て、宇治郡十一ケ郷・山科七郷・東山十郷散在一円申し請うと云々。山科の儀相支えらるべきの由申し候と云々。言語道断の儀なり。則ち披露すべきものなり。」(「言継卿記」3月15日条)。
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この町一揆の要請は、木沢長政・六角定頼が絡んでおり、天文元(1532)年の山科本願寺焼打ちとその後の一向一揆弾圧に関する法華一揆への恩賞を意味することは明らか。
言継は、政所被官の下笠又次郎を細川晴元被官の内藤・波々伯部(ハウカベ)両氏の許へ遣わし、雑草の沢路隼人佐を山科庄の現地に下向させ情勢を探らせ、翌日朝廷に参内しこのことを内奏(「言継卿記」同年3月16、17日条)。3月18日、朝廷は、山科七郷郷民が禁裏門役を勤仕していることを理由に、法華一揆の代官請を拒否し、将軍に対してこれを施行すべきを命じた頭弁宛ての女房奉書を発給(「同」3月18日条)。このように山科七郷の代官請は停止されるが、その他地域の状況は判明しない。
* 
4月(日付なし)
・大内軍、豊後勢場原(セイバガハラ、大分県山香町山浦)で大友軍に大勝。24日、大内義隆、禁裏に即位料を献上。
* 
・フランス、ジャック・カルティエ、セント・ローレンス湾とそのその周辺を調査
・スペイン、無名征服者による「ペルー征服記」刊行
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5月(日付なし)
・大内軍、豊後薄野浦(大分県真玉町)で、7月、豊後玖珠軍で、大内軍と戦う。大内軍、大友義鑑を豊後の一角に封じ込める体制をとりつつある。
* 
・後奈良天皇、大内義隆他に即位費用進献を命じる女房奉書を下す。1536年迄に2500貫近くが納入される(太宰大弐を狙う大内義隆が1535年正月2140貫を、1535年11月朝倉義景が100貫を納入。
* 
4日
・ジャン・カルヴァン、ノワイヨンにおける聖職禄の受領をやめてカトリック教会と絶縁。逃避生活続ける。パリ→ポワチエ→オルレアン→ロレーヌ→ストラスブール→バーゼル(晩秋)
* 
12日
・織田信長、誕生。
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6月(日付なし)
・越前今立郡水落の代官小島景重、近間藤四郎(武士)が当地で紙を販売する権利を認める。この販売権は「正金与大郎紙之座」と呼ばれ府中住人の正金与大郎が持っていたもので、一部が近間に譲渡さる。この際、近間は水落神明社に参物を沙汰することを命じられる。狭い範囲で在地有力寺社が紙販売の座に関与している。
* 
・アイルランド総督キルデア伯トーマス、ダブリン城包囲。陥落出来ず。
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29日
・将軍義晴、近江湖東の桑実寺を引き払い坂本に到着。
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30日
・備前守護代浦上政宗(天神山城)の将島村豊後守盛実(高取山城主)、宇喜多能家を備前砥石城に攻め、殺害。子(興家)、孫の八郎(直家)、郎党らは鞆の浦へ逃亡。備前福岡の豪商阿部善定、鞆の浦に逼塞している宇喜多一族を6年間引き取る。
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7月(日付なし)
・毛利元就、備後宮城(殿奥城、芦品郡)の宮直信を攻め落とす
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・真里谷武田恕鑑、病没。後継信隆は小弓公方足利義明の攻撃に対して北条氏綱を頼る。
* 
・スペイン、「ペルー及びクスコ地方征服実録」刊行
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20日
・大内義隆の兵と大友義鑑の兵、豊後国玖珠郡にて戦う。
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24日
・仏、フランソワ1世、免税射手隊を7軍団(6千名/軍団)に編成替え。徴兵制導入。
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・ジャック・カルティエ、フランソワ1世の命を受けセントローレンス河流域を探索。ガスペ半島上陸。北米大陸の北半分をフランス領と宣言。
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8月3日
・木沢長政・三好政長ら、一向宗徒を山城の谷山城(西京区松尾万石町付近)に攻め敗れる。
「谷の城今日の風雨にやぐら壁等吹き破ると云々。仍て今夜落ち候い了んぬ。」(「言継卿記」8月3日条)。
「夜中より今朝に至り谷の城焼くと云々。去り乍ら大井河の水事の外深く候て、諸陣各西岡にこれありと云々。」(「同」4日条)。
天文2年6月、晴元は大坂石山の証如光教と三好千熊丸(のち長慶)の仲介により和睦しているが、一揆の抗戦派と細川晴国らはまだ晴元に抵抗を続け、今やまた京都近郊にその勢力が及ぶ。
* 
11日
・三好伊賀守ら、本願寺証如(光教)に応じて摂津椋橋城に拠る。細川晴元の兵、これを攻めて交戦するが敗れる。
* 
・結城晴朝、下総に誕生(異説1535年)。
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15日
・イエズス会の実質的な創立。
パリ、イグナティウス・デ・ロヨラ(43)、フランシスコ・ザビエル(28)以下7人の同志、モンマルトルの丘に登り聖ディオニソス小聖堂地下で①清貧、②貞潔、③聖地巡礼後、使徒的生活に献身を誓う。(1540年、教皇パウロ3世、正式認可)
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26日
・摂津在の細川晴元、上洛。相国寺泊。近江朽木在の将軍義晴、上洛。両者和解。
* 
9月(日付なし)
・大内氏の豊前守護代杉重俊、大友被官の星野親忠兄弟を筑後大生寺城(福岡県浮羽町)に敗死させる。
* 
3日
・将軍義晴、入京。建仁寺入り。ついで南禅寺に移る。
* 
10月(日付なし)
・三好千熊丸(長慶)、木沢長政の仲介で細川晴元と講和(晴元に帰服)。幕僚(内衆)となる。
* 
・大内軍、肥前勢福寺城を包囲。少弐冬尚は蓮池城(佐賀県蓮池町)に逃亡。一方、大内義隆は龍造寺家兼に和睦を依頼。30日、少弐資元の隠居と冬尚への東肥前半国安堵を条件に、大内義隆・少弐資元講和成立。12月14日、大内義隆が働きかけ、将軍義晴の勧告により、大内・大友講和締結。
* 
・教皇パウルス(パオロ)3世(66)、即位(アレッサンドロ・ファルネーゼ、位1534~1549)。妹ジュリアは教皇アレクサンデル6世の愛人。教皇庁粛清、イエズス会認可(1540年)、アヴィニョンやイタリアの異端審問再編成、トリエント公会議召集(1545~1563) 。
* 
・初旬、リヨン市立病院医師ラブレー(40)、「第一の書(ガルガンチェア)」。
・リヨン、エチエンヌ・ドレ、「演説集」(序文日付34/8/13)。トゥールーズでの演説(トゥールーズ市民攻撃文)。
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17日
・檄文事件(プラカード事件、アンボアーズ事件)。
パリやオルレアンなどの街頭、カトリックのミサを非難するビラが出現。フランソワ1世居室の扉に貼り付ける。国王フランソワ1世、新教徒に対する弾圧を開始(ジャン・オリユー説:弾圧したのはパリ高等法院でフランソワ1世はドイツルター派との同盟を重視、寛大な態度)、翌年5月まで続く。クレマン・マロ、フランソワ・ラブレーなど文学者・思想家、パリ退去。
* 
20日
・三好政長、本願寺証如(光教)の兵三好伊賀守らと摂津国潮江荘に戦うが敗れる。
* 
11月(日付なし)
・小弓公方足利義明、真里谷武田信隆(恕鑑の子)の拠る椎津城を攻撃。信隆は逃亡、西上総の峰上・百首両城及び真里谷新地の天神台城(木更津市)を拠点に、北条氏の援軍を得て対抗。
* 
・武田太郎(晴信、14)の妻・上杉氏(上杉朝興の娘)、難産のため没。
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・イングランド国教会成立
ヘンリ8世、宗教改革議会召集。「国王至上法(国家首長令)」可決・制定。国王を英国宗教界における唯一・最高の首長と定める。英教会制度はローマ・カトリック教会から独立。首長はイングランド国王。
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19日
・幕府、吉田兼永と吉田兼右の唯一神道に関わる相論を裁許。吉田兼右へ管掌させる裁決を下す。
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12月(日付なし)
・大内義隆、後奈良天皇の即位費用2千貫文を献上。太宰大弐任官の狙い。しかし、天皇生母が没し、即位礼は36年に延引。
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・帰京後まもない将軍義晴、大友義鑑に大内義隆との講和を命じる。
* 
5日
・雑務料の関所に対し法華一揆が新立の関所と見なして停廃させている。事実上法華一揆が京都周辺の関所の設立停廃認可権を行使している状況が窺える。
* 
「土御門修理大夫有春朝臣申す雑務料の事、年中二季日数を限り自余に混ぜられず古今相違無きの処、新関の類と号し違犯すと云々。太(ハナハ)だ然るべからず。所詮重ねて御成敗の上は、先々の如く其の沙汰を致すべし。更に遅怠有るべからざるの由仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文三 十二月五日 長俊(花押) 貞兼(花押) 諸法花(華)衆諸壇(檀)方中」(「土御門文書」)。
* 
天文元(1532)年~5(1536)年、細川晴元政権と法華一揆は共存・補完関係にある。
山城郡代の存在にも拘らず、幕府が法華一揆に洛中(梅津等の洛外大社寺門前を含む)の軍事・刑事警察権を付与していた点が推測される。
この時期の細川氏の奉行人、茨木長隆・飯尾元運(モトモチ)・為清らの同地域における発給文書にも、概ね所務・雑務沙汰つまり動産不動産関係の行政執行命令に限定され、洛中には細川氏の検断権が及んでいなかったことがほぼ裏付けられる。
* 
21日
・幕府、土御門亀寿丸に洛中巷所を安堵(「土御門文書」)。
to be continued

2009年2月8日日曜日

東京 千駄木 鴎外観潮楼 漱石旧宅



観潮楼は森鴎外の家。
この前にある小学校の名前も汐見台小学校なので、高台でもあり昔は品川の海が見えたのでしょう。
歌壇の調停者として観潮楼歌会を主宰。啄木も通ったんだ。
雑誌「めさまし草」の「三人冗語」という持ち回りの書評欄で、鴎外は一葉の「たけくらべ」を評価して一葉を世に出す。
「三人冗語」の斎藤緑雨は、一葉を好きになったようで、しょっちゅう一葉を訪ねたという話。
一葉の葬儀に際し、鴎外は騎馬の礼でもってこれを送ろうとするが、うちはそんな立派な葬儀をあげられないとのことで、断られた悲しい話など、確か関川夏央さんの「二葉亭四迷の明治四十一年」という本にあった記憶あり。
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二葉亭四迷の明治四十一年 (文春文庫)

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漱石旧宅跡。
ここは「猫」を書いた時代のもので実物は確か岐阜県の明治村にあります。それと、確か漱石が住む10年以上前に鴎外が住んでいたはずです。
漱石の弟子の森田草平が、例の塩原事件後、この家で謹慎していたそうですが、夜な夜な外出しては「そこの漱石の家の者だ」ということで無銭飲食を重ねていたエピソードは、江口「わが文学半生記」にあり。
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「わが文学半生記」が出たついでに、ワタシ的に印象に残ったくだり。
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漱石の葬儀の時・・・。
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「鴎外は大かたの名刺を私の前においた。「森林太郎」とあるだけで、ほかに何にもない。私は名刺をそっと芥川の前、におきかえた。芥川の眼が名刺と鴎外の扱とを見くらべた。と、思った瞬間、するどいきん張感が顔一めんにあふれ、そのひとみは異常な光をはなって鴎外の顔を見つめた。・・・
「あれが森さんかあ。」
「そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。」
「うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。」
芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかき上げると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。私はそのずっと前から、奥さんをつれて、根津の夜店を歩いては、古本屋をのぞいている鴎外を、ときどき見かけたことがあったのである。」
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この芥川の初々しさが何ともいい。
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そして、そのあとに以下のシーンが続きます。

「近づいて見ると芥川は手巾を顔にあて、うつ向きがちに歩きながらすすり泣きをつづけている。声を出すまいとして、むりにおさえるせいか、いきをする度に肩が苦しそうにゆすり上る。それを久米がなぐさめようとして、手を肩におき、しきりに顔をのぞきこむ。芥川のフロックの黒と久米のこげ茶の背広とが、白い光の中でくっきりと色彩の対照を示した。
芥川のいたいたしい様子を見ると、私ももう少しで涙が出そうになった。私は思った。今日のこの葬儀で一とうふかい悲しみに打たれたのは、弟子の中のだれよりも芥川ではないだろうか。「鼻」いらい、漱石にあれだけ高く評価され、あれだけ推賞された芥川。漱石からあのようないい手紙をあんなに度々もらった芥川。ふるいお弟子の多くに失望すればするほど、いよいよ漱石にとって新しいホープとなった芥川。そして漱石のおかげでこうしてぐんぐん文壇に出ていった芥川。その芥川にとって心のもっとも大きな支柱がこのようにして倒れたのである。これが全身をゆすり上げるほどの悲しみとならないでどうしよう。今日の芥川の悲しみが私にも一つ一つはっきりわかるような気特がした。そして、そばまでいって、よっぽど慰めの言葉をかけて見ようかとさえも思った。だが、下手にそんなことをすればかえって言葉がうそになる。そう考えて、ついにやめた。」
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江口は、漱石は弟子たちに絶望していて、その分芥川に肩入れしたという見解を持っています。
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余談が長くなりますので、この辺で終わります。
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治承4年記(2) 「明月記」の始まり

1月20日
・言仁親王(3、ときひと、安徳)著袴の儀。
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□「来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり。」(九条兼実「玉葉」)。
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□「とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれども、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。」(「平家物語」)。
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○安徳天皇(1178~85)。
81代天皇。在位1180~85。父高倉天皇。母清盛娘徳子(建礼門院)。諱は言仁。外祖父清盛が溺愛する様子は「山槐記」に見える。清盛は、治承元年(1177)の鹿ヶ谷の謀議以降、白河院を幽閉し、この年2月21日、3歳の親王を皇位につける。しかし反平氏政権活動は開始され、養和元年(1181)清盛没後は本格化。寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に迫り、天皇は平氏一門と共に西方へ下る。太宰府、宇佐八幡宮、屋島などへ在所を遷し、長門国壇ノ浦の戦で入水。「二品禅尼宝剣を持し、接察使(アゼチ)局先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す」(「吾妻鏡」元暦2年3月24日条)。「平家物語」は祖母二位尼に抱かれて入水と伝える。
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○建礼門院(1155~1213):
平徳子。父は平清盛。母は乎時子。承安元年(1171)高倉天皇の女御として入内、翌年中宮。治承2年(1178)皇子を産む。4年の安得天皇即位に際し、国母の地位に上る。翌5年正月、高倉上皇(21)は病没し、同年11月、女院号を宣下され建礼門院と号す。寿永2年(1183)、安徳天皇と平氏と共に都落ち、元暦2年(1185)、壇ノ浦では藤重ねの衣を着て入水するも、源氏方の渡辺党の武士に熊手で髪を引っ掛けられ、引き上げられる。その後、都に送還され、文治元年(1185)5月1日、東山長楽寺で出家。大原の寂光院に移り、安徳天皇、夫、平氏一門の菩提を弔って暮らす。阿波内侍(信西の娘)と安徳天皇の乳母大納言佐局(ダイナゴンボスケノツボネ)が生活を共にする。文治3年、頼朝は平家没官領のうち摂津国真井・嶋屋両荘(建礼門院の同母兄の平宗盛の所領)を与える。「吾妻鏡」では、建礼門院の「かの御幽栖を訪い申さるによってなり」(文治3年2月1日条)とあり、頼朝は人を遣わして女院の閑居の様を見させた上で措置する。「平家物語」灌頂巻は、大原寂光院の有り様を、「甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑(カカ)ぐとも、かやうの所をや申すべき」と描く。「平家物語」は、この山深い大原の女院のもとを後白河院が訪ね、往時を語り合い、やがて「寂光院の鐘の声」に送られて帰る場面で終る。
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○九条兼実(1149~1207):
藤原忠通の3男、母は藤原仲光の女加賀。九条家を創設。通称、月輪関白殿、後法性寺殿。文治元年(1185)内覧、翌2年摂政ならびに氏長者。この間の人事は、頼朝の意向が大きく反映。「吾妻鏡」では、文治元年行家・義経の反逆に対し、兼実が「すこぶる関東を扶持せらるる」と頼朝を支持し、「頼朝欣悦したまふ」(文治元年11月7日条)とある。また、摂政就任にあたっては、「和漢の才智すこぶる人に越えしめたまふ」との人物評を記す(文治2年2月27日条)。兼実と近衛基通との摂関家領を巡る紛争では、頼朝が兼実を支援(「吾妻鏡」文治2年3月24日条)、後白河上皇は基通の主張を擁護し基通の勝利となる(「同」4月13日条)。文治3年(1187)記録所設置。文治5年太政大臣就任。建久元年(1190)娘任子が後鳥羽天皇に入内。建久2年関白。建久3年後白河法皇没後、頼朝征夷大将軍就任に奔走。建久6年(1195)東大寺落慶供養のため上洛した頼朝としばしば会談。建久7年11月1日、源(土御門)通親の養女在子の皇子出産を機に宮廷内の勢力が変転。11月24日兼実の娘中宮任子が内裏より退出させられ、25日兼実は事実上関白を罷免される。この建久7年の政変により兼実は失脚、連座して弟慈円も天台座主を辞す。背景には源通親の讒言、大姫入内を図る頼朝の意向があったと推測される。建仁2年(1202)1月28日、法性寺で出家。承元元年(1207)4月5日没(59)。「選択本願念仏集」は兼実の要請を受けて著されたものとされる。長寛2年~正治2年の約40年間の日記「玉葉」は「吾妻鏡」とならび、鎌倉期の重要史料とされる。
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1月28日
・源(久我)通親、参議・左近衛権中将に就任。2月6日、拝賀(「明月記」)。24日、高倉院庁別当になって高倉上皇の院近臣となる。
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□「参内、新宰相中将(通親)束帯にて渡殿に候ぜらる、招寄せ言談せくる、新頭(重衡)又参入す、中宮(高倉中宮徳子)御方に参る、大原野祭の御幣算儲く、退出、八条院に参る」(「明月記」2月9日条)。
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28日
・平重衡(25)、蔵人頭(天皇の側近)に任命。
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○平重衡(1157~1185):
清盛の5男、母は平時子、宗盛・知盛の同母弟。本三位中将と称す。軍略にすぐれ、この年治承4年(1180)、兄知盛と共に以仁王・源頼政を宇治川に討ち、同年暮れ、反平家の拠点南都を攻撃、東大寺・興福寺が灰燼に帰す。養和元年(1181)の墨俣川の戦い、寿永2年(1183)の水島合戦に勝利するが、寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで捕虜となり、三種神器との交換による源平間の講和を斡旋するが、実現できず。その後鎌倉に下向、鎌倉では丁重にもてなされるが、南都の要求に応じて幕府は身柄を引渡し、文治元年(1185)6月に泉木津で斬首。「平家物語」では関東での虜囚の身となった重衛の世話をした千手前の恋が印象的に描かれ、「吾妻鏡」では、重衛処刑の3年後、「恋慕の思い、朝夕に休まず」病いとなった千手前が24歳で没するとしている(「吾妻鏡」文治4年4月25日条)。
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2月5日
現存する定家(19)「明月記」の始まり
実際は、前年治承3(1179)年3月11日、内の昇殿(内裏の殿上に昇る資格)を得た時からと推測される。
□「五日。右宰相中将(束帯)参入す、若しくは釈奠(セキテン)の次いでか、」(「明月記」)。
宰相(参議)右中将藤原実守が内裏(高倉天皇)に参入してきたが、それは釈奠の次いでに来たのだろうか)。「釈奠」は、孔子らの儒教の聖人を祭る朝廷の儀式。
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2月9日
・定家(19)、内(天皇)に仕え、高倉天皇近臣で宰相中条の源通親や蔵人頭の平重衝と交流があり、高倉の中宮徳子や八条院にも仕えている。この日、大原野祭の御幣等準備のため、中宮平徳子に参る。
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2月11日
・定家(19)、姉高松院新大納言の夫藤原家通より布衣騎馬の故実を教えられる。
□「二月十一日。晴天。夜、雨下ル。関白ノ御弟元服ト云々。其ノ年十七。名、忠良(正五位下)。六角ニ向ヒ武衛ニ謁シ申ス。布衣騎馬ノ時、薄色ノ指貫ヲ着セバ、随身ヲ具スベン。浅黄ヲ着セバ、随身無力ルベキ由、先達ノ説有ル由、語り給フ。」。
関白藤原基通の弟忠良の元服。ついで、有職服飾の事を記す。儀式、服飾の精細な記録は、定家生涯の執心。

to be continued

2009年2月7日土曜日

京都 一力亭 花見小路





忠臣蔵で有名な「一力亭」と周辺(花見小路といいます)。
お正月だったので休みということもありますが、外見からは、ちょっと古いけどまあ普通の民家のようですね。
こういうところって、自分のところで料理するんではなくて仕出し屋さんから取り寄せて、客に提供するんだそうです。
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明治17(1884)年10月 秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 一斉蜂起決定

■明治17(1884)年秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月12日
[一斉蜂起決定]
秩父困民党、下吉田村井上伝蔵宅。最高幹部(田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・井上善作・落合寅市・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・小柏常次郎・門平惣平の10名)、一斉蜂起決定(高利貸しを打毀し証拠書類を焼き捨てる)。
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栄助は宗作の迎えを受け、午後4時頃、伝蔵の家に行き、現場幹部から、請願も借主との交渉もいずれも行き詰まったと報告を受ける。
幹部たちは、「此上ハ無是非次第ニ付、我一命ヲ抛テ腕力ニ訴へ」、高利貸打毀し、証書類焼き捨てを決行するより打開の道なし、と話合いをつけたので、ご同意頂きたいと提議。栄助が同意せざるを得ないほどに、事態は急迫。
高利貸の召喚状や強硬督促を受け、逃げ回る農民の数が増加し、困民党参加の農民の家で、夫婦喧嘩から子供を惨殺する惨劇も起こる。
*
10月13日
・秩父困民党田代栄助、伝蔵・周三郎・常次郎と共に石間村加藤織平を訪問。軍資金・弾薬調達協議
14日、田代栄助・栄助の片腕柴岡熊吉(46)・新井周三郎・坂本宗作ら、軍資金調達の為、横瀬村富田源之助・柳儀作方襲撃、現金等強奪。15日、宮川寅五郎ら、男衾郡西ノ入村五ノ坪の豪農加藤勘一郎より現金など強奪。
* 
柴岡熊吉の自供に基づき事件は明らかになる。熊吉判決文。
「被告人は田代栄助より貧民救助の目的をもって党与を集め暴挙を企てたること、その費途に苦しみ準備金を強敵せんとの協議にあずかり現金員を有するものは富田源之助ならんと答え、十月十四日夜、約のごとく横瀬村字姿ノ堤において栄助、新井周三郎、坂本宗作他数名と出会し、栄助の教令により大野茂吉とともに周三郎らと同村富田源之助宅を指示し持凶器強盗の所為を幇助した。・・・」
* 
新井周三郎、戦闘的人間に脱皮し、軍事面での指導部中枢におしあがる
「十月十三日夜織平宅ニ於テ準備金強借セントノ議ニ与り翌十四日堀口幸助、宮川寅五郎、女部田梅吉、坂本宗作、新井甚作等卜共ニ栄助ノモトニ至り、同人ノ教令ニヨリ大野茂吉、柴岡熊吉ヲ先導トシ、或ハ兇器ヲ携へ秩父郡横瀬村富田源之助方ニ至り、栄助ハ途ニトドマリ甚吉、茂吉等ハ戸外ニ在テ瞭望シ、被告及ビ寅五郎ホカ数名ハ家内ニ押入り家人ヲ縛シ脅迫ヲ加へ、金八拾円刀槍衣類等十五点ヲ強取スルノミナラズ源之助父富田滝次郎ニ負傷セシメ・・・」。
更に、同夜その足で周三郎らは同じ横瀬村柳儀作方に押入り、翌15日、山を越えて自宅に帰り西ノ入村の富豪加藤勘一郎宅を襲う。加藤邸侵入に周三郎は加わらず、実兄輝蔵をひき入れ、宮川寅五郎、吉沢庄左衛門、門松庄右衛門らを「教令」する。(新井周三郎判決文)。この為、周三郎の実兄新井輝蔵は懲役6年を宣告される。
* 
柴岡熊吉
田代栄助の第1の子分。大宮郷の荒川に近い近戸に居住。この年8月、借金のため身代限りとなり、近戸の家を追われて、横瀬村に近い坂氷の実姉の家に同居。その後も生活に困り、田代栄助を頼り、同人と連名で高利貸高野嘉代吉から5円を借りるなど、24~25円の借金がある。
「自分ハ暴徒ニ加入シ、負債廿四、五円ヲ踏ミ倒ス鎖々タル見込ハ無之、・・・昨今諸物価ハ下落シ、秩父郡中ノ人民高利貸ノ為メ非常ニ困難、貧者ハ益極貧ニナリ、高利貸ハ益利慾ヲ逞クシ、其惨状見ルニ忍ビズ、因テ身命ヲ捨テ困民ヲ救フニ尽力スルモノト決シ・・・望ヲ遠シテ高利貸ヲ斃シ、貧民ヲ救助シテ後御処分ヲ蒙ムルハ覚悟ノ筈ナリ・・・唯高利貸ヲ斃シ、秩父郡一円正規之利息ヲ以テ貸借スレバ、困難来ラズト相聞へタル次第ナリ」(「柴岡熊吉訊問調書」)。
*
13日
・埼玉県男衾郡畠山村の負債騒擾 [秩父困民党とは別の動き]。
負債取り立ての厳しい債主(飯野道徳)と村内の負債者(28名)の対抗。小前総代人・旧戸長など村内指導者層は、負債者側の要求を代弁。
13日午前10時、困民ら、小前総代人5名に対し借金返済に関し掛合を行う債主(飯野道徳)へ「負債返済期限の延期」交渉を依頼。小前総代人は債主へ取継ぐが失敗。
14日、困民たち、寄居警察署へ届けでた上で村内の満福寺に集会、連合戸長役場(連合戸長本田親徳)宛の御説諭願書を作成、提出。戸長役場は書面を却下。
20~21日頃、前年明治16年3月の質地紛擾に際して取り決められた約定(「金穀其他貸借等都テ村内振合ニ基キ、自己仕間敷候」)を根拠に連合戸長役場へ再歎願(約定は、飯野道徳が親戚・組合・立ち入り中と連署で畠山戸長役場へ提出)。連合戸長は、約定書取り結びの手続が有効性を調べるが、飯野道徳の「脅迫之上成立候」との返答もあり、その効力を否定。
22日、約定取り結びの扱い人14名(中山重作ら)が、約定履行を飯野道徳の属する組合(5人組)を通じて申し入れる。
26日正午、満福寺へ集会せよとの回状。集会計画を知った飯野道徳は、松山警察署小川分署今市交番所へ通報、小川分署員は畠山村へ出張し、戸長役場で「巨魁ト思料スル者五名」(実際は小前総代人)を説諭、また債主に面会し説諭。
27日、飯野道徳は、説諭を入れ、松山警察署長・警部吉峰清宛てに「御請書」を提出。貸借関係を、人民相互の義務と規程し村内の治安確保と良好な人間関係(道徳的な共同体的関係)樹立のため、貸金請求にある程度の配慮を示すことで問題の解決を図る。
飯野道徳は、村役人の家柄ではなく、新興富裕層であり、富の集積の強引さにより村内で孤立。質地受戻の村方騒動と類似するが、小前総代・旧戸長などの介入に加えて、警察が解決の為の具体的方策にむけて積極的に係る。他地域の困民党事件の多くが、村内対抗ではなく、地域経済圏内の債主層との対抗(債主層の質的転換を意味する)であることと比較して、大きく異なる。
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13日
・植木枝盛・奥宮健之、広島(14日)・岡山(18日)へオルグ。~22日。
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奥宮健之は8月11日名古屋事件平田橋巡査古殺事件を犯したばかり。年末、遊説から東京に戻り逮捕、無期徒刑。明治30年7月特赦出獄。奥宮は土佐出身で枝盛と同年。枝盛は、1882(明治15)年奥宮が中心になって組織した車会党(人力車夫の懇親会)にも協力し、83~84年の枝盛の関東一円遊説では、奥宮が一緒だったこともある。
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10月14日
・北多摩郡長砂川源五右衛門、八王子警察署長原田東馬に対し、「本部内暴民」が「末ダ両三人ヅツ山野ニ宿シ」ているが、尚捕縛する見込か知らせて欲しいと書簡。
原田は、鎮着就業の者はこれ以上求索しない故、心得違いのないように、尚、「津久井郡西多摩郡各地ノ景状モ漸ク自悔静謐・・・幸ノ事ニ御坐候」と回答。こうした内密の遣り取りは須長ら指導者にキャッチされている(須長文書在)。
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14日
・「自由徒九名、当郡日野沢村、皆野村、野上郷下中、薄村、飯田、三山、河原沢、日尾、藤倉其外五ヶ村総代罷越一泊願候事」(三峯神社社務所日記)。翌日、祈祷下山とあり。
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10月15日
・秩父困民党田代栄助、荒川本流地帯・困民党の手の及ばない地域(本野上村・白久村・小森村・大淵村・贄川村・大宮郷・影森村・横瀬村等)を1週間ほどオルグ。
このうち蜂起に参加した者は白久村坂本伊三郎・影森村塩谷長吉2名のみ(子分200余と豪語する栄助にしては少ない。栄助自身の主体の内的状況を表す?。栄助関連での参加者は血盟の子分柴岡熊吉、弟大河原三吉、甥磯田左馬吉ら血縁者)。
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中旬
・利根川中流水田地帯・幡羅、北埼玉両群17ヶ村農民、小作料減免・負債返済延期の大集会。解散させられる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

2009年2月5日木曜日

鎌倉 亀ヶ谷坂 岩船地蔵堂








4人の仲間のうち1人が腰痛のため一番楽な切通しと言われている亀ヶ谷坂を選びました。・・・が、これは坂というほどの坂ではありませんでした。
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岩船地蔵堂は看板にもあるように、頼朝の娘大姫を弔うためのものとか。
大姫は、人質となっている義仲の息子と恋におちるが、義仲追討後、この息子も殺され、心痛の余り衰弱し没するとの説話の主人公になってます。
また、その間には、大姫を入内させて清盛同様に天皇の外孫になろうと目論む父母と共に上洛したりもします。この頼朝一家上洛には、九条兼実を追い落とそうとする源通親+丹後局の政争も絡んだり・・・(建久7年の政変)。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「黙翁年表」より
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1183(寿永2)3月
・頼朝(37)、義仲追討の為に兵10万余を率い信濃へ向かう。
義仲(30)、越後境の熊坂山に布陣。
頼朝、善光寺へ進軍。
義仲、今井四郎兼平を使者に和議申し入れ、頼朝に敵対心を抱いていないと宣言。
頼朝は、義仲が嫡子義高(11)を人質として送り、頼朝の長女大姫と結婚させることを約束させ、和睦。25日、義高を送る。
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甲斐源氏武田信光が頼朝に、源義仲と平家が結ぶ動きありと讒言。また、義仲が頼朝と仲違いした源行家・志太義広を匿ったため、義仲・頼朝は不和になる。
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清水冠者(しみずのかんじゃ、「平家物語」巻7):
義仲、嫡子の清水冠者義重(よししげ)に海野・望月・諏方・藤沢ら有名な武将をつけ頼朝に送る。頼朝は、未だ成人した子を持っていず、この子を自分の子としようと、鎌倉へ連れて帰る。
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1184(寿永3)4月22日
・義仲嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔。
26日、頼朝家臣堀親家の郎党、義高を捕らえ、武蔵入間河原で斬る。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
大姫、実父が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
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「去る夜より、殿中聊か物騒す。これ志水の冠者武衛の御聟たりと雖も、亡父すでに勅勘を蒙り戮せらるるの間、その子として、その意趣尤も度り難きに依って誅せらるべきの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出しをはんぬ。馬を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄を裹むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出すと。日闌て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志水双六の勝負を好み、朝暮これを翫ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡露顕す。武衛太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。」(「吾妻鏡」同21日条)。
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「堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」(「吾妻鏡」6月27日条)。
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亀ヶ谷
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