2009年1月11日日曜日

横浜 山手ゲーテ座


日本最初の本格的劇場「ゲーテ座」(Gaiety Theater)跡。
撮影08/11/22。
もともとは、1870(明治3)年12月6日、オランダ人ノールトフーク・ヘフトが横浜居留地68番地(現、谷戸橋北、テレビ神奈川裏辺)に建築。1872年11月パブリックホールと改称され利用されるが、より広い建物が求められ、1885(明治18)年4月18日現在地に350人収容のホールが完成。1908年12月から、ゲーテ座と呼ばれ、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用される。
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 観客は、外国人主体であったが、滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大佛次郎らも観劇した記録あり、明治・大正期の文化に大きな影響を与える。松本克平「日本新劇史」によると、上演演目はオペレッタのような娯楽作品が主流であったとのこと。
ゲーテ座は日本で初めて「ハムレット」を上演した劇場である、というのをどこかで読んだ記憶があるが、それがどの本であったか思い出せない。多分、川上音次郎・貞奴を扱った本だったような・・・?
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以上が前回エントリ。
以下、松本克平「日本新劇史」による追加情報。但し、松本著書によると、由来については諸説あるとのことで、私見では、上記の方がより新しい情報を含むという点で真実に近いと思う。
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■明治初年におけるゲーテ座の位置
「・・・幕末から日露戦争後までの四十数年間の外人劇団や演芸が演じられた場所はもっぱら横浜のゲーテ座であった。この劇場は居留地の外人を対象にしたもので、一般の日本人はほとんど関心を示していなかった。明治四十年前後になって日本にも新劇へめ腐心が目覚めるに及んで心ある人々はようやく横浜まで出向いて、このゲーテ座の外人劇を見物するようになっていた。明治末期にゲーテ座に来演していた外人劇団の中ではバンドマン一座(Bandman's Opera Company)とアラン・ウイルキー喜歌劇団(Allan Wilkie Company)の二つが日本人の問では最も馴染みが深かった。帝劇と有楽座が竣工するに及んで、今まで東京へ足を踏み入れなかったこれらの外人劇団も、丸之内の舞台に登場するに至ったのである。殊にバンドマン一座は数年間続けて六月頃に帝劇に現われ、やがて東京の年中行事の一つに数えられるようになった。
バンドマン座はロンドンに本社があり、東洋ではインドのカルカッタに支社を置き、香港、上海、マニラ、横浜、東京、神戸などを巡演していた。・・・
バンドマンの方はロンドンで当りを取っている現代劇とミュジカルコメディを見せ、アラン・ウイルキーの方は古典劇も混ぜて上演していた。・・・」
「バンドマンについて小山内薫の書いた、「喜劇ゼ・アドミラブル・クライトンを観る」及び「バンドマンの追憶と印象」という二文がある。前文は明治四十年五月十八日に横浜の山手公会堂(注、ゲーテ座のこと)において上演された時の観劇記である。ジェイムス・バリイ作のこの戯曲を留学中の島村抱月がロンドンで見ており、その詳細な観劇記を博文館の「新小説」に寄せたところ(後に抱月は「滞欧文談」に収録した)、これにヒントを得て花房柳外という人が喜劇「平民主義」を書いて「新小説」に発表した。それはとうていバリイの原作には及びもつかないものであったが、英国式デモクラシーに関する注目をひいたのであった。それ故、心ある演劇人はわざわざ横浜まで出向いて、夜八時に開演して深夜の一時に及んだこの舞台を見物したのであった。小山内薫もその易の中の熱心なー人であった。」
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■大仏次郎の回想
「海岸通り伝いにフランス山に登ると、そこにゲーテ産があって外人相手の芝居を専門にやっていた。香港あたりから来た(バンドマン)というオペラの劇団がよく実演していたのをおぼえているが、あるとき、英国の劇団が来てハムレットやサロメを上演していた際、学生時代だったぼくは意気揚々と出かけたものですよ。セルの着物にハカマはきといういでたちだったんですがね。当時はみなイブニングの礼服で芝居見物としゃれこんでいた。その中でぼくひとりがいかめしい服装だったのでちょっと恥ずかしかった。なにしろ戦前は英国人が圧倒的に多く、ハマを牛耳っていたから戦後ハマに住む外人たちの気楽な格好に比べて常に威厳ある服装できちんとしていたものでしたよ。」
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■日本における外国人劇の始めとゲーテ座
「日本最初の外人劇がどんなものであったかを探るとすれば、・・・どうやら二つの系統があるようである。一つは日本に早くから来ていた長崎出島のオランダ人によるむのと、もう一つはベルリ提督がもたらしたアメリカ系のものである。
まず、オランダ人によるものから。これははっきりした記録が残っている。文政三年庚申九月の二十四日(一八二〇)、長崎出島のオランダ人によって上演されたオペレッタとコメディである。・・・
・・・。では次にもう一つベルリの部下たちが演じたミュジカルスを見てみよう。
安政元年五月(一八五四)ベルリの率いるアメリカ艦隊は下田でいろいろの交渉をすませたあと、函館に向って出発した。函館湾停泊中に種々の科学調査を行なうと同時に、松前奉行との交渉中、ミシシッピー号上で役人たちと交歓し「食事と歓待とを喜んだ」と言っている。その時、アメリカ水兵たちは「アメリカン・ミンストレルス」という黒人歌のショオを演じて見せ、幕府の役人たちを大いに喜ばせたという。音楽を演奏しながらその合間合間にいろいろの扮装をした人物が出て来て、グロテスクにユーモアたっぷりにコミカルに歌い且つ踊ったという。西洋仁輪加の如きものらしい。船に積みこんできた小印刷機で刷ったプログラムまで配られた。見物は腹をかかえて笑いころげた。もちろん日本人も大いに感興を催したらしいが、ベルリがその著『日本支那遠征紀事』に「沈黙せる日本の聴衆」と記しているところから察するに、日本人の多くはただ然々と聴き、見物するのみであったらしい。女形をやったのは船中のボーイたちであった。これが日本最初の外人のショオであり、それはミュジカルスであったのである(昭和九年五月「テアトロ」創刊号所載、玉城肇筆「ぺルリ遠征隊員の芝居」及び「ベルリ提督遠征記」による)。
続いて文久二年九月、下田文吉によって子供手踊りの名儀で来航外人目当てに建てられた下田座が、開港場でのショオと劇場の元祖であるという。
横浜にこういう劇場が生れたのは下田座におくれること二年の元治元年(一八六四)のことであった。当時は元治元年条約締結の前後で、開港場附近では日本浪士による外人殺傷事件が相ついで起っていた。・・・・・・この殺伐と無柳に苦しんだ外国兵の中で、フランス兵の将卒と英国の一部が協力して屯所に舞台をつくり、有り合わせの衣裳道具類を使って演じた芝居が、横浜における外人劇の走りになったのであった。その後も折々、無骨な兵隊劇が演じられたが、慶応三年(一八六七)の春、在留フランス人の組織したアマチュア劇団が新居留地(旧居留地は今の子安町)の空店で第一回の催しを行なった。この頃はもう赤隊青隊が駐屯していた時代で、この時の公演には英国の赤隊のストリングバンドが応援した。これが居留外人の満足を買い、これが動機となって同年十一月の第二回公演には、谷戸川を挟んで元町薬師と相対した本町通りの外れに坐席百三十人の小さい劇場がつくられ、これにゲーテ座の名がつけられたのが、ゲーテ座発生の由来である。明治四十二年の火災で板屋敷(ハマ言葉で機械で板を挽き箱を作る外人工場のこと)の一部となっていたゲーテ座名残りの建物は焼失したという。その後山手公会堂と呼ばれ、極東公会堂株式会社によって経営されていたが、明治四十四年にはマニラの興行師フリーを招いて経営に当らせたという(明治四十四年十月号「歌舞伎」第百三十六号所載、山野芋作筆「日本最初の外人劇-横浜のゲーテ座」による。因に筆者の山野芋作とは若き日の長谷川伸のペンネームである由)。
このゲーテ座の僅か百三十の客席を通じて外人劇やミュジカルスは、明治、大正の新しい演劇の胎動を刺戟していたのであった。」
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下記もご参照下さい。
「山手洋館」
「ホテルニューグランド」
「フランス山」
「ヘボン博士邸宅跡」
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山手地区を含む横浜散策は「★横浜インデックス」をご参照下さい。
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