2009年2月5日木曜日

鎌倉 亀ヶ谷坂 岩船地蔵堂








4人の仲間のうち1人が腰痛のため一番楽な切通しと言われている亀ヶ谷坂を選びました。・・・が、これは坂というほどの坂ではありませんでした。
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岩船地蔵堂は看板にもあるように、頼朝の娘大姫を弔うためのものとか。
大姫は、人質となっている義仲の息子と恋におちるが、義仲追討後、この息子も殺され、心痛の余り衰弱し没するとの説話の主人公になってます。
また、その間には、大姫を入内させて清盛同様に天皇の外孫になろうと目論む父母と共に上洛したりもします。この頼朝一家上洛には、九条兼実を追い落とそうとする源通親+丹後局の政争も絡んだり・・・(建久7年の政変)。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「黙翁年表」より
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1183(寿永2)3月
・頼朝(37)、義仲追討の為に兵10万余を率い信濃へ向かう。
義仲(30)、越後境の熊坂山に布陣。
頼朝、善光寺へ進軍。
義仲、今井四郎兼平を使者に和議申し入れ、頼朝に敵対心を抱いていないと宣言。
頼朝は、義仲が嫡子義高(11)を人質として送り、頼朝の長女大姫と結婚させることを約束させ、和睦。25日、義高を送る。
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甲斐源氏武田信光が頼朝に、源義仲と平家が結ぶ動きありと讒言。また、義仲が頼朝と仲違いした源行家・志太義広を匿ったため、義仲・頼朝は不和になる。
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清水冠者(しみずのかんじゃ、「平家物語」巻7):
義仲、嫡子の清水冠者義重(よししげ)に海野・望月・諏方・藤沢ら有名な武将をつけ頼朝に送る。頼朝は、未だ成人した子を持っていず、この子を自分の子としようと、鎌倉へ連れて帰る。
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1184(寿永3)4月22日
・義仲嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔。
26日、頼朝家臣堀親家の郎党、義高を捕らえ、武蔵入間河原で斬る。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
大姫、実父が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
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「去る夜より、殿中聊か物騒す。これ志水の冠者武衛の御聟たりと雖も、亡父すでに勅勘を蒙り戮せらるるの間、その子として、その意趣尤も度り難きに依って誅せらるべきの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出しをはんぬ。馬を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄を裹むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出すと。日闌て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志水双六の勝負を好み、朝暮これを翫ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡露顕す。武衛太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。」(「吾妻鏡」同21日条)。
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「堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」(「吾妻鏡」6月27日条)。
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義高関連はコチラ
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亀ヶ谷
岩船地蔵堂

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2 件のコメント:

花園祐 さんのコメント...

 このくだりは私も鎌倉時代史の中で特に好きな場面です。それにしても、人質になって許婚する人たちでも、この義高と大姫、浅井長政と市姫みたいに後々面倒になる連中ばかり仲良くなっちゃって、逆に仲良くなってもらわないと困る同士だと仲が悪くなるのが多い気がしますね。

黙翁 さんのコメント...

そうなんですよ。でも実際とは異なるとは思うんですが、そのストーリーが脈々と人々に受け入れられてきているというところが私はすきですね。恋愛沙汰だけでなく、例えば、義経、竜馬とかが好きな国民と云うのか人民というのか、そういう人々の受容の心象に興味があります。吾妻鏡なんて、これが幕府の公式歴史書かと思うくらい人間臭くて。