2009年2月7日土曜日

明治17(1884)年10月 秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 一斉蜂起決定

■明治17(1884)年秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月12日
[一斉蜂起決定]
秩父困民党、下吉田村井上伝蔵宅。最高幹部(田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・井上善作・落合寅市・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・小柏常次郎・門平惣平の10名)、一斉蜂起決定(高利貸しを打毀し証拠書類を焼き捨てる)。
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栄助は宗作の迎えを受け、午後4時頃、伝蔵の家に行き、現場幹部から、請願も借主との交渉もいずれも行き詰まったと報告を受ける。
幹部たちは、「此上ハ無是非次第ニ付、我一命ヲ抛テ腕力ニ訴へ」、高利貸打毀し、証書類焼き捨てを決行するより打開の道なし、と話合いをつけたので、ご同意頂きたいと提議。栄助が同意せざるを得ないほどに、事態は急迫。
高利貸の召喚状や強硬督促を受け、逃げ回る農民の数が増加し、困民党参加の農民の家で、夫婦喧嘩から子供を惨殺する惨劇も起こる。
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10月13日
・秩父困民党田代栄助、伝蔵・周三郎・常次郎と共に石間村加藤織平を訪問。軍資金・弾薬調達協議
14日、田代栄助・栄助の片腕柴岡熊吉(46)・新井周三郎・坂本宗作ら、軍資金調達の為、横瀬村富田源之助・柳儀作方襲撃、現金等強奪。15日、宮川寅五郎ら、男衾郡西ノ入村五ノ坪の豪農加藤勘一郎より現金など強奪。
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柴岡熊吉の自供に基づき事件は明らかになる。熊吉判決文。
「被告人は田代栄助より貧民救助の目的をもって党与を集め暴挙を企てたること、その費途に苦しみ準備金を強敵せんとの協議にあずかり現金員を有するものは富田源之助ならんと答え、十月十四日夜、約のごとく横瀬村字姿ノ堤において栄助、新井周三郎、坂本宗作他数名と出会し、栄助の教令により大野茂吉とともに周三郎らと同村富田源之助宅を指示し持凶器強盗の所為を幇助した。・・・」
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新井周三郎、戦闘的人間に脱皮し、軍事面での指導部中枢におしあがる
「十月十三日夜織平宅ニ於テ準備金強借セントノ議ニ与り翌十四日堀口幸助、宮川寅五郎、女部田梅吉、坂本宗作、新井甚作等卜共ニ栄助ノモトニ至り、同人ノ教令ニヨリ大野茂吉、柴岡熊吉ヲ先導トシ、或ハ兇器ヲ携へ秩父郡横瀬村富田源之助方ニ至り、栄助ハ途ニトドマリ甚吉、茂吉等ハ戸外ニ在テ瞭望シ、被告及ビ寅五郎ホカ数名ハ家内ニ押入り家人ヲ縛シ脅迫ヲ加へ、金八拾円刀槍衣類等十五点ヲ強取スルノミナラズ源之助父富田滝次郎ニ負傷セシメ・・・」。
更に、同夜その足で周三郎らは同じ横瀬村柳儀作方に押入り、翌15日、山を越えて自宅に帰り西ノ入村の富豪加藤勘一郎宅を襲う。加藤邸侵入に周三郎は加わらず、実兄輝蔵をひき入れ、宮川寅五郎、吉沢庄左衛門、門松庄右衛門らを「教令」する。(新井周三郎判決文)。この為、周三郎の実兄新井輝蔵は懲役6年を宣告される。
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柴岡熊吉
田代栄助の第1の子分。大宮郷の荒川に近い近戸に居住。この年8月、借金のため身代限りとなり、近戸の家を追われて、横瀬村に近い坂氷の実姉の家に同居。その後も生活に困り、田代栄助を頼り、同人と連名で高利貸高野嘉代吉から5円を借りるなど、24~25円の借金がある。
「自分ハ暴徒ニ加入シ、負債廿四、五円ヲ踏ミ倒ス鎖々タル見込ハ無之、・・・昨今諸物価ハ下落シ、秩父郡中ノ人民高利貸ノ為メ非常ニ困難、貧者ハ益極貧ニナリ、高利貸ハ益利慾ヲ逞クシ、其惨状見ルニ忍ビズ、因テ身命ヲ捨テ困民ヲ救フニ尽力スルモノト決シ・・・望ヲ遠シテ高利貸ヲ斃シ、貧民ヲ救助シテ後御処分ヲ蒙ムルハ覚悟ノ筈ナリ・・・唯高利貸ヲ斃シ、秩父郡一円正規之利息ヲ以テ貸借スレバ、困難来ラズト相聞へタル次第ナリ」(「柴岡熊吉訊問調書」)。
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13日
・埼玉県男衾郡畠山村の負債騒擾 [秩父困民党とは別の動き]。
負債取り立ての厳しい債主(飯野道徳)と村内の負債者(28名)の対抗。小前総代人・旧戸長など村内指導者層は、負債者側の要求を代弁。
13日午前10時、困民ら、小前総代人5名に対し借金返済に関し掛合を行う債主(飯野道徳)へ「負債返済期限の延期」交渉を依頼。小前総代人は債主へ取継ぐが失敗。
14日、困民たち、寄居警察署へ届けでた上で村内の満福寺に集会、連合戸長役場(連合戸長本田親徳)宛の御説諭願書を作成、提出。戸長役場は書面を却下。
20~21日頃、前年明治16年3月の質地紛擾に際して取り決められた約定(「金穀其他貸借等都テ村内振合ニ基キ、自己仕間敷候」)を根拠に連合戸長役場へ再歎願(約定は、飯野道徳が親戚・組合・立ち入り中と連署で畠山戸長役場へ提出)。連合戸長は、約定書取り結びの手続が有効性を調べるが、飯野道徳の「脅迫之上成立候」との返答もあり、その効力を否定。
22日、約定取り結びの扱い人14名(中山重作ら)が、約定履行を飯野道徳の属する組合(5人組)を通じて申し入れる。
26日正午、満福寺へ集会せよとの回状。集会計画を知った飯野道徳は、松山警察署小川分署今市交番所へ通報、小川分署員は畠山村へ出張し、戸長役場で「巨魁ト思料スル者五名」(実際は小前総代人)を説諭、また債主に面会し説諭。
27日、飯野道徳は、説諭を入れ、松山警察署長・警部吉峰清宛てに「御請書」を提出。貸借関係を、人民相互の義務と規程し村内の治安確保と良好な人間関係(道徳的な共同体的関係)樹立のため、貸金請求にある程度の配慮を示すことで問題の解決を図る。
飯野道徳は、村役人の家柄ではなく、新興富裕層であり、富の集積の強引さにより村内で孤立。質地受戻の村方騒動と類似するが、小前総代・旧戸長などの介入に加えて、警察が解決の為の具体的方策にむけて積極的に係る。他地域の困民党事件の多くが、村内対抗ではなく、地域経済圏内の債主層との対抗(債主層の質的転換を意味する)であることと比較して、大きく異なる。
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13日
・植木枝盛・奥宮健之、広島(14日)・岡山(18日)へオルグ。~22日。
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奥宮健之は8月11日名古屋事件平田橋巡査古殺事件を犯したばかり。年末、遊説から東京に戻り逮捕、無期徒刑。明治30年7月特赦出獄。奥宮は土佐出身で枝盛と同年。枝盛は、1882(明治15)年奥宮が中心になって組織した車会党(人力車夫の懇親会)にも協力し、83~84年の枝盛の関東一円遊説では、奥宮が一緒だったこともある。
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10月14日
・北多摩郡長砂川源五右衛門、八王子警察署長原田東馬に対し、「本部内暴民」が「末ダ両三人ヅツ山野ニ宿シ」ているが、尚捕縛する見込か知らせて欲しいと書簡。
原田は、鎮着就業の者はこれ以上求索しない故、心得違いのないように、尚、「津久井郡西多摩郡各地ノ景状モ漸ク自悔静謐・・・幸ノ事ニ御坐候」と回答。こうした内密の遣り取りは須長ら指導者にキャッチされている(須長文書在)。
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14日
・「自由徒九名、当郡日野沢村、皆野村、野上郷下中、薄村、飯田、三山、河原沢、日尾、藤倉其外五ヶ村総代罷越一泊願候事」(三峯神社社務所日記)。翌日、祈祷下山とあり。
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10月15日
・秩父困民党田代栄助、荒川本流地帯・困民党の手の及ばない地域(本野上村・白久村・小森村・大淵村・贄川村・大宮郷・影森村・横瀬村等)を1週間ほどオルグ。
このうち蜂起に参加した者は白久村坂本伊三郎・影森村塩谷長吉2名のみ(子分200余と豪語する栄助にしては少ない。栄助自身の主体の内的状況を表す?。栄助関連での参加者は血盟の子分柴岡熊吉、弟大河原三吉、甥磯田左馬吉ら血縁者)。
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中旬
・利根川中流水田地帯・幡羅、北埼玉両群17ヶ村農民、小作料減免・負債返済延期の大集会。解散させられる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

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