2010年1月17日日曜日

伊勢原 大山歩き 石仏たち 大山寺 大山阿夫利神社 二重滝 浄発願寺 石雲寺

昨日、同期のお仲間と伊勢原市の大山を歩いた。
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大山は江戸時代から民衆の山岳信仰の対象とされ、神奈川県には各地から大山に通じる「大山道」の跡が残っている。
昨年ご紹介した横浜市戸塚区にある「従是大山道」の碑はコチラ。
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丁度いいタイミングで、大山寺のご本尊開帳の日であったので拝ませて戴いた。
金300円。
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小田急「伊勢原」駅から神奈中バスで最寄りのバス停まで約20分ほど。
そこからケーブルカーの駅まで、土産物屋さんが立ち並ぶ階段を約15分。結構キツイ。
まずは、ケーブルカーには乗らずに歩き始める。
途中、男坂(急な傾斜の階段)、女坂(やや緩やかな傾斜)に分かれる。
われわれは女坂を選択した。それでも下の写真の通りの山道である。
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石仏たち
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大山寺の前にある階段。
この辺りは「もみじの絶景」だそうだ。
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大山寺。
勝宝7年(755)、良弁僧正(東大寺を開いた)により開山という。
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大山寺からは、ケーブルカーで終点の大山阿夫利神社(下社)へ。
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遠くに江の島が見える。
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ここからは、徒歩で一路「見晴らし台」と呼ばれるところまで歩く。
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途中にある二重滝、二重社。
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クマに注意
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見晴らし台ではこんな風景も。
ここは日のあたる場所なんだけど。
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ここから下山
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山腹に先ほど参詣した大山阿夫利神社が見える。
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尾根伝いに下る。
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浄発願寺奥の院。
山津波に呑みこまれたために、お寺はもう少し下の方に移転し、古いほうは「奥の院」と称して残された物を保存している。
詳しく紹介したHPはコチラ
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石雲寺
「奈良時代、霊峰大山の中腹に華厳法師が紫雲に導かれて開いたと伝わる古刹」とHPに書かれていた。
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下は先ほど紹介した、移転後の浄発願寺。
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全行程18,000歩であったそうだ。
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2010年1月15日金曜日

アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド映画「カティンの森」

今日は休みをとって映画観賞。
アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド映画「カティンの森」
上映開始から既に1ヶ月以上(12月5日~)でウィークデイでもあり、そんなに混まないだろうと思っていたが、上映直前には満員札止め状況だったようだ。
幸い余裕をもって出かけたので、問題なくいい席に座れた。
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映画冒頭の字幕(概要)。
「1939年8月独ソ不可侵条約締結。9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻。17日ソ連軍もポーランドに侵攻。・・・」
(第四次ポーランド分割の序章だ)
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次に、
9月17日の東部ポーランドにある川に架かる橋でのシーン。
ドイツ軍から逃れてきた民衆とソ連軍から逃れてきた民衆が遭遇する。
どちらがより安全なのか?
・・・・・・・?
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「カティンの森」というのは、この森その他数ヶ所でソ連軍(スターリン指揮)がポーランド人将校1万数千人を虐殺した犯罪を象徴する言葉。
しかも、ソ連は第二次大戦後もこの犯罪をドイツ軍によるものとキャンペーン。
ポーランドの親ソ政権もそれに追随し、真実を語る人々を弾圧する。
ゴルバチョフになってようやくソ連は犯罪を認めた。
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虐殺されたのは将校とはいえ、大多数が生え抜きの軍人ではなく知識人や職業人。
これで、ポーランドの戦後は骨抜きにできる、と考えたのだろう。
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戦後、
パルチザン系の人々への弾圧、
権力にすり寄る人々、とその苦悩
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映画のラスト。
虐殺シーンが続く。
・・・・
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ワタシはナンキンを連想した。
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完璧に音を消した状態で長いエンドロール。
父をカティンで虐殺された監督の無言の主張、抗議が長く続いているように感じた。
(ここで席を立つオジサマ、オバサマには閉口する。映画はまだ終わってないのだ)
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同じ監督作品でワルシャワ蜂起を題材にした「地下水道」を観たことがある。
ロンドン亡命政府と繋がるポーランド国内パルチザンがワルシャワで蜂起する。
ソ連運はワルシャワのすぐ近くまで迫っていながら前進を止める。
パルチザン壊滅を待つのだ。
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「カティンの森虐殺事件資料を巡る最近のニュース」はコチラ
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天文20(1551)年 蠣崎氏とアイヌと講和 京都町組の自検断の終末 幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に内応し帰京 [信長18歳]

天文20(1551)年 [信長18歳]
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この年(日付けなし)
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・宇喜多直家、上道郡沼(岡山市沼)亀山城主中山備中守信正の娘を妻に迎える。
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・北条氏康、武蔵市宿新田に移住する者の諸役を免除し、新田開発に務めさせる。
戦国大名による宿駅設定の代表的例。
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・春、木下藤吉郎(15)、亡父の形見、永楽銭1貫文を持ち、清洲で木綿針を買い遠州へ向う。曳馬(浜松)で松下加兵衛尉之綱に仕える(太閤素生記)。
この間、草かり、炭焼、草履売、蔵まわり、鍛冶、研、魚屋など38種類の職業を転々とする。
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・この年、三国湊に明の船が入津と伝える(「朝倉始末記」)。
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・蝦夷地、蠣崎氏とアイヌと講和、夷役(いやく)や領土を確定
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この年、蠣崎季広と東西のアイヌ酋長と講和。
蠣崎氏は、勢田内(瀬棚)酋長ハシタインを上ノ国において西部の酋長、志利内(知内)酋長チコモタインを東部の酋長とし、「夷狄の商舶往還の法度を定め」て、諸国から往来の商船から役銭を徴し、その一部を「夷役(いやく)」と称し両酋長に与え、また、東西蝦夷地から来るアイヌ船の停泊地を一定し、それによってアイヌ産物を自家の手に独占する方策をとる。
同時に、このことにより和人の自由な蝦夷地侵略に歯止めをかけ、渡島半島知内川の以西天ノ川までの境域を、正式に和人地と定め、アイヌ人側もこれを承認。
明確なかたちで「和人地」が確立。
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蠣崎氏は各館主を臣下につけ、アイヌと地域協定を結び「和人地」を確定、渡島半島西部の一角を領土とし、その政治権力を掌握するが、身分は東北(出羽)の豪族安東氏の1代官に過ぎない。
しかも、権力は和人地における和人に限定されたもので、アイヌ民族にはその商品流通機構の一部を把握しただけで、蝦夷地の土地・人民支配には遠く及ばず。
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・ロベール・エティエンヌ、ギリシア語新約聖書出版、今日の区分を始めて導入。
ロベール・エティエンヌ(48):
1503~1559、フランスの出版業者、ギリシア、ラテン、ヘブライ、フランス各語の聖書を出版、後、プロテスタントに改宗。
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1月
・三好長逸(長慶の祖父長秀の甥、のち三好三人衆)、禁苑の観覧を願出て許される。長慶は参内せず、宝剣下賜などもない。
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長慶(畿内近国を押えた)の場合、遠国大名の様に綸旨・受領・官途による天皇利用よりも、幕府・朝廷・興福寺の権威自体が克服の対象(信長が後に格闘する同じ課題を先駆けて背負う)。
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1月1日
・神谷宗湛、筑前に誕生。
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1月24日
・京都、禁裏六町と室町との間で喧嘩。中分に入った小幡入道と六町側町人1人が討死(「言継卿記」24日条)。
小幡入道は山科家雑掌大沢掃部の伯父婿にあたる人で、言継は、安禅寺殿、広橋・鳥丸・中御門・一条等近隣の諸公家を来訪して善処方を相談、夜になって上京中の宿老の仲裁で落着。
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町衆が仲裁した最後の紛争(京都町組の自検断=在地裁判権の終末)。
以後、洛中における紛争は全て幕府か三好氏が干与したもの。
信長入京のはるか以前に町衆自治の伝統は殆ど圧縮されている。
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1月30日
・幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に内応し足利義輝の帰京を企てるが発覚、近江より帰京(「言継卿記」)。
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井勢貞孝は、義輝を見限り、京都に帰って、長慶との和睦を考える。
政所の業務は、京中の商工業者に対するものが殆どで、堅田・坂本では遂行できる仕事ではなく、貞孝は長慶と協力して京都市民の利害をある程度弁護しようという考える。
この計画は、堅田で未然に発覚し、幕府にいたたまれなくなった貞孝は、僅かの雑掌・吏僚を率い、京都に逃れる。
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長慶は、京都支配と諸権門宣撫の為に、幕府政所執事伊勢貞孝一行の復帰を歓迎。
以降、長慶の帷幄では、軍事は松永長頼、公事(訴訟)は伊勢貞孝、とおおよその分担がなされる。
貞孝の行政は、急激な変革を恐れる荘園領主や公家社会、大社寺等に安心感を与える。
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2月3日
・三好長慶、竹内季治へ、洛中の春日西洞院~久我家旧跡にかけての4町の件で泉原将監の申請を却下して久我家に安堵する旨通達(「久我家文書」)。
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2月7日
・三好長慶、山城石原城(南区吉祥院石原町の西光寺西方)に陣を進め松永甚介長頼・久秀に出陣命ず。
松永勢、湖東進出。
足利義輝・細川晴元、琵琶湖対岸観音寺城へ逃亡。
観音寺城からは六角義賢の大軍が上陸、志賀里(大津市)付近で交戦し、近江軍が勝利。松永勢は退却。
10日、足利義輝ら、堅田より竜華・葛川谷を越え、奉公衆朽木氏を頼り、朽木館(滋賀県高島郡朽木村)に移る。
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「三好(長慶)江州へ打ち入るべきの由治定す。諸勢悉く罷り上る。三好は石原城まで罷り上ると云々」(「厳助往年記」2月7日条)。
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2月23日
・ロシア、第3回宗教会議。質問状と提案「ストグラーフ」(100章)起草。
僧侶・修道僧の勢力拡張に歯止め。⇒次に貴族階級の再組織。ツァーリ親衛隊「千人隊」結成。

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2月28日
・細川晴元・六角義賢連合軍、京都鹿ヶ谷に放火して三好長慶軍と交戦(「言継卿記」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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昭和13年(1938)3月16日 社会大衆党西尾末広、総動員法賛成演説「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、・・・」で除名処分  イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃

昭和13年(1938)
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この月の
スペイン戦線の状況についてはコチラ、
ドイツのオーストリア侵略過程はコチラ、
をご参照下さい。
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3月16日
・香港、フィッチ「南京に残留した米人の目撃談」(「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」)。
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3月16日
・国家総動員法案、法案委員会で可決。
衆議院本会議に緊急上程、小川委員長の報告、各派6名の討議の後、付帯決議を付して無修正可決、貴族院に送付。4月1日公布。5月5日施行。
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近衛は、「一朝有事の際に、或は緊急勅令とか、或は非常大権の発動に依りまして、総動員の実施を行うというよりは、予めその大綱だけでも議会の御協賛を得て、法律として制定しておく方が、むしろ立憲の精神に適う」という論法で成立を急ぐ。
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当初、近衛首相が欠席し、激しい反発があり、答弁に立つ塩野季彦法務大臣らはシドロモドロで立ち往生。3月2日、病気をおして登院した近衛首相が「協力と理解」を率直に求め、議会の空気も和らぐが、翌3日には「黙れ事件」で混乱。
結局、近衛が「支那事変に直接これを用いるものではない」と言明し、13日、政友会・民政党は折れて同意する方向に傾く。
3ヶ月でこの約束は反故に。
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付帯決議
「一、本法のごとき広汎なる委任立法は全く異例に属す。本法を濫用して人心の安定を脅威し、産業の発達を阻害せざるよう厳に戒心すべし 
二、本法の制定とともに政府は進んで世界の平和を実現し、文運の進歩に貢献するため速かに外交機能を刷新し新たに対外国策を確立すべし」。
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立案した企画院総裁(第2次近衛内閣)星野直樹、
「統制法規として、世界に類例のない徹底したものだ。この法律で何と何が統制できるかと考えるよりも、この法律で統制できないものがあるなら、それをさがした方がはるかに早いだろう」(高梨正樹編「目撃者が語る昭和史(第5巻)日中戦争」「国家総動員法の製作者」)。
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▽「総動員法」の新聞統制
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1月26日「読売新聞」がスクープした「発売、頒布禁止の行政処分を二回以上受けた新聞や出版物は発行停止処分にする」という項目は、国会に提出された法案からは削除されており、新聞界はホッとする。
提出法案第20条は、
「政府は戦時に際し国家総動員上必要ある時は勅令の定むる所により、新聞紙その他の出版物の掲載につき制限、又は禁止を為すことを得。又政府は前項の制限又は禁止に達反したる新聞紙その他の出版物にして国家総動員上支障あるものの発売および頒布を禁止し、これを差押うることを得」とある。
政府は、この第20条について新聞側から批判され、「これは単に法案を作っただけで必要のない限り実施をさけたい」と弁明し、「抜かざる伝家の宝刀」と申し開きをする。ここに大きな落とし穴があった。
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「【第一六条の三】政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは・・・事業の開始、委託、共同経常、譲渡、廃止もしくは休止又は法人の目的変更、合併もしくは解散に関し必要なる命令をなすことを得」
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「【第一八条】政府は・・・同種もしくは異種の事業の事業主又はその団体に対し、当該事業の統制又は統制のためにする経営を目的とする団体又は会社の設立を命ずることを得」。
「新聞連盟」や「一県一紙」による新聞の統廃合に導かれる。
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・衆議院本会議、社会大衆党幹事西尾末広、国家総動員法案の賛成演説。
「ヒトラーの如く、スターリンの如く大胆に」と近衛首相を激励、政民両党がこれを問題とする。
「国家総力戦に備えるため」、「戦時社会政策の徹底、労働政策の確立」を、とくに要望。懲罰委員会に付され、23日、除名(翌年、補欠選で復帰)。除名に反対したのは尾崎行雄のみ。
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「私は、社会大衆党を代表して、本法案に五個条の希望条項を付して、賛成の意を表したいと思うのであります。・・・
いまや世界は、個人主義より相互主義へ、自由主義より統制主義へと進展しつつあるが、各個人の自由をある程度制限することによって、全体の発展をはかり、その部分としての個人的自由を合理化し、かつ増大せんとする方向に向かいつつあることは、われわれのハッキリ認識するところであります。
・・・数年前よりわが国には、われわれが現実に見るごとき、大多数の有色人種が、白色人種の優越感によって支配されている現状に顧みまして、また東洋の平和確立のために、実力的に戦い得るのは、わが日本を措いては他にないという信念にもとづきまして、この日本の歴史的使命達成のために、敢然立って邁進すべしとの意見が、たかまり来たったのであります。われわれはこの歴史的使命をはっきりと認識しなければならぬ。・・・
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・・・それは去る三月十四日は、五個条の御誓文の七十年目に当るのであります。”わが国未曾有の変革をなさんとし″と御誓文の冒頭に仰せられているのであります。まことにしかり、今日においても、わが国は未曾有の変革をなさんとしている。・・・この精神を近衛首相はじっかりと把握いたされまして、もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろうと思うのであります。今日わが国のもとめているものは、確信に満ちた政治の指導者であります」
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西尾の声は、「近衛首相に共産主義をやれというのか」「スターリンはそんなに偉い政治寓なのか」などの怒号と机を叩く音で聞こえなくなったという。
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西尾は席に戻ってようやく周囲の騒ぎで自分の演説が大問題になっていることに気付く。そこで弁明のために再登壇し、「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく」のくだりをすべて削除すると申し出るが、政友会・民政党が承服せず、議長が西尾を懲罰することで収拾。
この時、尾崎行雄が西尾の後で登壇し、「そこで私も言おう。近衛首相は自信をもって、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を国民に示して指導せられたい。・・・西尾君はこの言葉を取り消したが、私は取り消さない。西尾君を除名する前に、私を除名せよ」と応援演説。結果的には西尾だけが除名。
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桐生悠々「西尾氏の除名」(「他山の石」4月5日号)。
「無理が通れば道理が引込む、単に日本のみならず、世界を挙げて、今ファッショ的なる暴力横行の時代に、西尾氏が揚足を取られて、我衆議院から除名されたのは決して驚くに足らず、寧ろ必至的の結果であるが、さりとは余りに子供らしく唯噴飯を禁じ得ない」。
「朝・毎・読」は、この間題も真正面から取り上げず沈黙。
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3月16日
・スペイン、イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃。
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サラマンカ駐在ドイツ大使シュトーラーは、爆撃の効果は「恐るべきもの」で、「市内のあらゆる地域が影響をうけ、軍事目標をねらったという証拠は全くなかった」と述べる。
夜10時頃の第1回目空襲は、ハインケル水上飛行機6機が、上空400mを時速80マイルで横断。
その後、18日午後3時まで、3時間間隔で17回の空襲があり、約1,300が死亡、2千人が負傷。
チアノは、空襲指令はムッソリーニから直接与えられ、「フランコはそれについて何も知っていない」という。
19日、フランコは、「海外での紛糾」を恐れ空襲停止を要求。しかし、ムッソリーニは、かつての彼の将軍ドウエットと同様、飛行機のもたらす恐怖によって戦争に勝てるとの考えを変えないでいた。
ロンドンでは、いくつか抗議集会が開かれ、ジョージ・パーカーは詩「スぺインのためのエレジー」を発表。
コーデル・ハルは、「合衆国の全国民を代表して」嫌悪の念を表明。
しかし、共和国各都市に対する無差別爆撃は、戦争終結まで続く。
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「★昭和13年記インデックス」をご参照下さい
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2010年1月13日水曜日

両山堂さん、ドラマの舞台だったんだ

昨年、不忍池~根津~団子坂まで歩いた際、池之端で「両山堂」さんというレトロな建物のレッテルの印刷会社を見付けた。
ただ、ヒトサマのお宅(会社)を無断で写真をとって掲載するのは、少し憚れたので、タイトルにはせずに写真だけご紹介しました。
「湯島・根津・本郷・千駄木(4)」です。
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昨日(1月12日)「朝日新聞」夕刊に、「「ふるさと」香る石造り」のタイトルで、この「両山堂印刷所」さんが取り上げられていました。
記事によると、この石造りの建物は、2007年のテレビドラマ「ハケンの品格」で主人公が通うフラメンコカフェの外観に使われたそうです。
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両山堂印刷所さんは、創業1915年(大正4年)。
この建物は、紙を扱うので、もし火が出ても近所に迷惑をかけないようにと、1954年(昭和29年)に大谷石で建てられたそうです。
「両山」の名は、初代社長(現社長の祖父)の故郷が、男体山と筑波山の間の鹿沼市だったことから名付けられたとのこと。
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すみません、新聞の写真を無断で使います。
やはりワタクシよりは格段に上手だ。
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「★東京インデックス」をご参照下さい。
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2010年1月12日火曜日

京都 京都最古の禅宗の古刹、建仁寺

京都、祇園の花見小路を真っ直ぐ南下すると、そこには京都最古の禅宗の古刹、建仁寺がある。
しかし、実はそこは建仁寺の裏手なんです。
そして、俗世界祇園からこの裏門をくぐり聖世界建仁寺を通り抜けると、魔界の入口、六道珍皇寺に通じます。
この六道珍皇寺と六波羅密寺は、この次にご紹介します。
更に、六道珍皇寺を過ぎると、先にご紹介した八坂の塔に至ります。
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建仁寺。
建仁2年(1202)、栄西が源頼家の帰依により創建。
元久2年(1205)、伽藍が竣工。同時に官寺として認可される。
のち、足利義満により五山の三位とされる。
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栄西は二度入宋し、帰国にあたり茶種を持ちかえり、茶の栽培方法と効用を説き、茶祖となる。著作に「喫茶養生記」がある。
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邪道ですが、花見小路側の裏門から八坂通りにある勅使門まで、逆の順路でご紹介。
(多分、参拝者の9割はこの順路で参拝されているのではないでしょうか)
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本坊
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法堂。
明和2年(1765年)上棟。
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三門。
「望闕(ボウケツ)楼」(「御所を望む楼閣」という意味)と名付けられる。
空門・無相門・無作(ムサ)門の三解脱門という。
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道元修業の遺蹟
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楽神廟
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浴室
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茶碑
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勅使門のすぐ裏の放生池越しに山門を見る。
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正面の勅使門。
この南の六波羅一帯は平氏一門の邸宅が並ぶ地域で、この門は重盛邸の門を移したといわれる。
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美術品がたくさんある「方丈」は、あいにく12月31日のため参拝できませんでした。
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「★京都インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2010年1月9日土曜日

京都 大報恩寺(千本釈迦堂) 応仁の乱でも焼けずに残った本堂 快慶作の仏像たち 引接寺(千本閻魔堂)

「千本釈迦堂」の名の方がよく知られる大報恩寺(真言宗智山派、山号瑞応山)。
開創は義空(求法グホウ上人)。
「猫間中納言」として知られる藤原光隆の従者、岸高からこの地の寄進を受け、承久2年(1221)、一仏十弟子像を祀った小堂を設けたことによるとされる。
安貞元年(1227)、本堂が完成。
本堂は、応仁の乱で奇跡的に残った、京都市内に現存する最古の建築物(国宝)。
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山門
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本堂(釈迦堂)
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北野経王堂願成就寺
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これから、釈迦堂の中に入ります。
拝観料500円。
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この霊寶堂には、国宝、重文の仏像がたくさんあります。
下のパンフレットをご参考にして下さい。
拝観料500円はお得。
私は、快慶「十大弟子像 十体」(重文)に感動、一つ一つに釘付けになりました。
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引接寺(インショウジ)。光明山歓喜院と号する古義真言宗高野山金剛峰寺に属する寺院。
「千本閻魔堂」で通じます。
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「★京都インデックス」  「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい
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明治17(1884)年11月4日 群馬県警の進出 栄助の精神的虚脱 自衛始める大宮郷

明治17(1884)年11月4日
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11月4日
・朝鮮、朴泳孝・洪英植・金玉均・徐光範ら開明派、日本公使館で島村書記官と密談。
実力行使詳細(日、場所、暗殺対象など)決定。
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11月4日
・群馬県警の進出。
午前1時頃、群馬県警察山形警部は、警部補2・巡査40名を率い、鬼石町~杉ノ峠~埼玉県警の太駄見張所に進出。
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山県警部は、埼玉県警側に
「我輩ハ皆野村屯集ノ賊ヲ砲撃、接戦セント計画ス、共ニ進撃スルハ如何」
と申し入れると、浜田警部補(八幡山分署長)は、
「縦令警郡長ノ命令ナキモ、戦地ニ於テ進退スルハ我職権ナリ、何ゾ命令ヲ俟ツノ遑(イトマ)アンヤ、群馬県警ノ警官我卜力ヲ戮(アワ)セ、我県内ノ賊ヲ掃攘セント云、是進ムベキノ好機ナリ」
と、応じようとする。
しかし、既に埼玉県側では、5日早朝大宮郷一斉進撃が決っており、浜田警部補は群馬県警の申し入れを謝絶。群馬県警のみでの進撃となる。
その後、哨兵巡査から「賊已ニ金沢村出牛マデ来り、当所ヲ襲フ形勢アリ」の急報が入ると、埼玉県警は態度を一変し群馬県警を追い、出牛から合同して金崎村国神の荒川堤畔に進出。
途中、「道ニシテ賊ノ間諜二人ヲ捕フ、其言ニ曰ク「皆野ノ暴徒ハ約三千人アリ、尚且大渕ニモ屯集セリト」」と判明し、両県警察隊は、衆寡敵せずと判断し、太駄村に引きあげ。
群馬隊は自県に引きあげ、埼玉隊も太駄の見張所を元田村に後退させる(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、久島村聯合戸長肥土三郎平(42)、大淵村の長楽寺前で困民軍甲隊に捕われ、皆野村の本営に連行される。
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秩父郡久長村を中心とする「久島村聯合」は、蜂起根源の阿熊村・上日野沢村・野巻村を管轄地とし、1日の久島村は激しい人足狩りだし、武器徴発を受ける。
「十一月一日正午頃、暴徒等血に染ミタル刀槍又ハ銃砲等ヲ携へ、民家ニ乱入シ、男子タル者ハ兇器ヲ持シテ悉ク出ヅベシト脅迫シ、又同日午後七時頃凡ソ七十名許リ、抜刀又ハ銃砲ニ切火縄ヲ付シテ、戸長ノ宅ヲ始メ近隣ノ民家ニ侵入シ、男子ヲ捜索シテ、必ズ山間等ニ潜伏シ居ルベシ、因ッテ放火セント申威シ、村内ヲ横行セシ事数回ニシテ、銃砲等ヲ掠奪シ去レリ(「秩父暴動被害諸村概況久長村」)とある。
聯合戸長肥土三郎平は、蜂起根源地が自分の管轄であることに責任を感じ、自ら県庁に暴動の実況を報告するため浦和に向うが、途中の児玉町で伊藤警部(本庄警察署長)に会ったので、これに状況を報告して引き返途上での出来事。
皆野では田代栄助が、「汝等が聯合内ヨリ加盟ヲ出サザルハ不屈至極ナリ、近来国政紊乱、四民塗炭ニ苦ム、依テ貧民ノ救助ニ努メツツアルニ拘ラズ、汝等ハ微職ニ甘ジ、却テ我輩ニ反対スルハ愈々其罪大ナリ、誅伐スルノ外ナシ」と問詰。
肥土は、「此如キ壮挙ナルヲ知ラザルガ故ニ、生等ニ加盟セザル而己ナラズ、村人ヲ制止セリ、今后努メテ賛同スベシ」と巧言を用いるが、栄助は肥土を抑留して人質とする。
その後、午後には栄助らが逃亡し、肥土は隙を見て逃げ帰る(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、田代栄助、菊池貫平に迎えられ、大野原から皆野の本陣に出向く。胸痛のため「栄屋」という安宿で横になる。
午前10時頃、柴岡熊吉・高岸善吉・落合寅市・小柏常次郎ら12~13人が来て、親鼻の渡しでの憲兵隊撃退の報を伝える。
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「昨日総理ノ出発後、荒川ヲ隔テ憲兵隊卜聊(イササカ)戦闘ヲ為シタル処、憲兵隊ハ本野上村マデ引揚ゲタリ、同村ニハ道々兵士繰込ミタル様子ニ有之、且矢納峠ニモ兵隊繰込ミタル模様ニモ有之ニ付、是非本陣角屋マデ来り呉レ」と言うので、栄助は「角屋」に戻る。
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・田代栄助、本陣「角屋」に移り作戦を練る。
憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み情勢は悲観的。
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「本陣ニ至り兵ノ配置ヲ尋ネタル処、皆野村渡船場近傍ハ銃砲二挺、其他竹槍ヲ携ヘタル者合セテ十二、三人ニテ固メ居タルモ、菊池貫平、井出為吉、堀口幸助等ハ何レへカ遁逃所在詳ナラズ、竹槍ヲ携へタル者ハ大勢アリト雖モ、恃(タノ)ムベキ鉄砲方ハ僅力七、八人ニテ久ク難支(ササエガタキ)ヲ歎キ居ル所へ、只今井戸村・藤谷淵村ニ於テ両三人ノ敵ヲ見受ケタリ、用心可致トノ注進アリ、尋(ツイ)デ坂本村ヨリノ注進ニハ、憲兵及ビ巡査百五十人許り繰込ミタリト、為メニ軍中大二勇気砕ケタリ、時ニ三男八作来り告テ云フ、大宮郷モ昨夜来大ニ味方ヲ失ヒタル故用心専一ナリト、言終ラザルニ大淵村ノ報ニハ、赤旗ヲ樹テ警部巡査四十人許り繰込ミ来ル、為ニ降ル者多シト、斯ク八方敵ヲ受ケタル上ハ討死スルノ外ナシ、併シ一時寺尾村へ引揚ゲ、山中ニ潜ミ、運命ヲ俟ント述べタレバ、何レモ同意ニ付」(「田代栄助訊問調書」)と言う。
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栄助が兵の配置を尋ねる。皆野の渡船場には銃2挺・竹槍12~13人、本陣の周りには竹槍隊は多いが銃砲隊は僅か7~8人、と頼りない限り。
整備された県警・軍隊の作戦配置は、郡内部に向けて無言の圧力をかけ、大宮の自衛隊も背後からの圧力となる。
そのうち、寄居口から憲兵・巡査隊150が侵入との報が入り、外秩父の坂本村からは来援を求める使者がくる。
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(この後)
栄助が皆野防備を固める為に呼ぼうとした甲隊では、長楽寺前で出発まぎわに周三郎が負傷。
この日、栄助3男八作が父を訪ねて来て、しばらく親子の対話が続く。この倅の訪問は、栄助の精神的虚脱状態を一層深める。
状況は悲観的で、戦術的には包囲されつつあるが、主軍はまだ一戦も交えていない。
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・東京鎮台第3大隊第3中隊、児玉着。この夜、困民軍と戦闘。
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・自衛を始める大宮郷。
この日午前7時、上影森からの使者2人が大宮郷の重立ちに対し、大宮郷の暴徒に対する弱腰を批判。
大宮郷の重立ちは、これを受けて各町内に相談すると、「暴徒ノ防禦」に異議なく、「先ヅ暴徒ノ攻メ寄セザルウチ、此方ヨリ進撃スベシ」ということになる。
この旨を使者に返答すると、使者は「然ラバ其加勢ニ入方ヨリ鉄砲方ヲ差向クベシ」と言って帰って行く。
この頃になると大宮郷の住民は、下の方から上ってきた困民軍兵士を捕えるようになる。
午前10時、大宮郷は、改めて上・下影森村や浦山など上方の諸村に鉄砲方の出動を要請、諸村はこれを快諾。
正午頃、上方から鉄砲方が駆け付け、大宮郷の者達と合同し自衛隊を組織する。
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山狩りをしながら、
午後4時、大野原村蓼沼の構瀬川べりに進み布陣し、近くの山林に潜伏する残徒6~7名を捕える。
午後5時頃、応援の鉄砲方は、兵食が届かないのを怒って自村へ帰り始め、夜に入ると自衛隊主力も大宮郷に後退し、帰宅する者が多く、自然解散となる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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