田安門前千鳥ヶ淵 2013-11-20
*マンデラの拘束中、世界は激変したが、彼にはそれを検証する時間の余裕がなかった
1962年、マンデラの逮捕当時、アフリカ大陸には第三世界ナショナリズムの波が押し寄せていたが、今や戦争によってズタズタに引き裂かれていた。
彼が獄中にいた間に、世界では社会主義革命に火がつき、そして消されていった。
チェ・ゲバラは1967年、ボリビアで殺害され、サルバドール・アジェンデは1973年の軍事クーデターで死亡した。
モザンビークの解放闘争の英雄で、1975年の独立後、初代大統領に就任したサモラ・マシェルは1986年、原因不明の飛行機事故で死亡した。
80年代末から90年代初めにかけては、ベルリンの壁崩壊、天安門事件、共産主義崩壊が立て続けに起きた。
マンデラには、これらの大きな変化をじっくり検証している時間はなかった。釈放から間もなく、南ア国民を自由へと導き、内戦や経済破綻(その可能性は十分にあった)に至らないための方策を探らなければならなかった。
反アパルトヘイト闘争の手段である企業ボイコットの道徳的側面
共産主義と資本主義の間の「第三の道」(民主化と富の再分配を同時に行なう方法)があるとすれば、ANCが統治する南アこそその夢を現実にする状況にあると思われた。
それは、世界中がマンデラに称賛と支持を向けていたというだけでなく、それまでに反アパルトヘイト闘争が辿った固有の道筋ゆえのことでもあった。
80年代、反アパルトヘイト闘争は国際的な広がりを見せ、南ア国外で活動家たちが用いたもっとも有効な手段は、企業ボイコット(南ア製品及び南アと取引している国際企業の製品)だった。
こうしたボイコット戦略は、企業部門に十分な圧力をかけ、非妥協的な南ア政府にアパルトヘイトを終わらせるようロビー活動を行なわせることを目的にしていた。
だがこの運動には、道徳的な側面もあった。
少なからぬ消費者が、白人至上主義的な法律によって利益を得ている企業は、経済的打撃を受けるに値すると考えていた。
同じく道徳的見地から、マンデラが自由主義市場導入を拒否し、経済の国有化への道とっても、それは支持されたかもしれない
ANCに、当時の正統理論である自由市場主義導入を拒否するまたとない貴重な機会を与えたのも、この道徳的見地であった。
アパルトヘイト犯罪の責任の一端は企業にあるという考え方はすでに広く行き渡っており、なぜ南ア経済の主要部門を(自由憲章に謳われているように)国有化する必要があるのか、マンデラが説明するためのお膳立ては整っていた。
彼はまた同じ論理を使って、アパルトヘイト体制下で蓄積した債務を、新たに民衆によって選ばれた政府に負わせるのは不当であると説明することもできたはずだ。
もしそう主張すれば、国際通貨基金(IMF)やアメリカ財務省、欧州連合(EU)の逆鱗に触れ、大いに怒りを買っただろうが、マンデラはなんと言っても生きた聖人である。世界中の人々から大きな支持が寄せられたにちがいない。
しかし・・・、南アは世界最大の経済的格差の国になってしまった
しかし、現実には、マンデラが獄中で覚書を書いてから、ANCが選挙で圧勝し、彼が大統領に選出される1994年までの数年間に何かが起こり、ANC幹部は収奪された国の財産を取り戻し再分配するという、草の根からの信望に基つく当初の方針を撒回してしまった。
ANCはカリフォルニアとコンゴの中間を目指すのではなく、不平等と犯罪率の両方を急増させるような政策を取る。
その結果、南ア国内の格差はビバリーヒルズとバグダッドほどにまで拡大してしまった。
今日の南アは、経済改革が政治改革と切り離されたときに何が起こるかを示す、生きた証となっている。
政治的には、国民は選挙権と市民的自由、多数決原理を与えられているが、経済的にはブラジルをしのぐ世界最大の経済格差が存在している。
マンデラ自身が「考えも及ばない」と表現した道を進んだのは何故か
私は2005五年に南アを訪れ、1990年から1994年の重要な体制移行期にいったい何が起きたのか(マンデラ自身が「考えも及ばない」と明確に表現した道を進んだのはなぜなのか)を探った。
モザンビークのような悪夢を回避するための平和的交渉
ANCは、1975年にポルトガルから独立した隣国モザンビークのような悪夢をくり返してはならないとの決意のもと、支配政党である国民党との話し合いに臨んだ。
モザンビークでは、ポルトガル人たちが引き揚げる際に報復としてエレベーター・シャフトにセメントを流し込んだり、トラクターを叩き潰すなどの乱暴を働き、持ち出せるものは全て持ち去った。
ANCが比較的平和的に政権移譲交渉を行なったことは大いに評価できるが、それでもアパルトヘイト時代の支配者たちが引き際に大暴れするのを止めることはできなかった。
モザンビークのような派手なことはしなかったものの、彼らは同じくらい大きな打撃を与える妨害工作を、はるかに巧妙なやり方で行なった。
しかも歴史的な政権移譲の陰で、それらの事件は見過ごされそうな小さな活字でしか報じられなかった。
ネルソン・マンデラとF・W・デクラーク国民党党首との政治的な首脳会談
アパルトヘイト体制をどのように終わらせるか、その条件についての細部にわたる交渉は、政治と経済という平行する二本の筋道(交差することもしばしばだったが)に沿って行なわれた。
世間の注目はもっぱらネルソン・マンデラとF・W・デクラーク国民党党首との政治的な首脳会談に集まった。"
殆どの事項でマンデラと主要な交渉人シリル・ラマフォサが勝利する
これらの交渉におけるデクラークの戦略は、可能な限り権力を保持することにあった。
デクラークはありとあらゆる提案(連邦制を採用する、少数政党にも拒否権を与える、政府機構の役職のうち一定の割合を少数民族に割り当てるなど)を行なって、多数派支配を阻止しようとした。
もし多数派政権ができれば、大規模な土地収用や企業の国営化が行なわれると確信していたからだ。
のちにマンデラは、「国民党がやろうとしていたのは、われわれの同意のもとで白人優越主義を維持することだった」とふり返っている。
デクラークの後ろには軍と財界がついていたが、マンデラ側には何百万の人々に支えられた運動があった。
結果は、ほとんどすべての事項に関してマンデラと主要な交渉人であるシリル・ラマフォサの勝利に終わった。
政治交渉では黒人側が勝利したが、経済交渉では・・・
目立たない形の経済交渉では、主としてANC側、新星ターボ・ムベキ(1999年~2008八年南ア大統領)の采配で進められた。
政治交渉が進展して、議会が近いうちにANCによって掌握されることが明らかになると、南アのエリート階層を母体とする国民党は経済交渉に精力と独創性を注ぎ始めた。
黒人の政権奪取を阻止できなかったものの、白人層はアパルトヘイト体制下で自分たちが蓄積してきた資産を、そう簡単に手放すつもりはなかった。
経済交渉でのデクラーク政権側の戦略:南アの「バルカン化」戦略
この経済交渉でデクラーク政権側が取った戦略は、二つの部分から成っていた。
まず、当時優勢になりつつあったワシントン・コンセンサスの「経済の運営には今やたったひとつの方法しかない」という考え方に基づき、通商政策や中央銀行といった経済的な意思決定の主要な領域を「専門的」で「管理的」なものだと規定する。
次に、多様な新しい政策ツール(国際通商協定や憲法における革新、構造調整プログラムなど)を使って、そうした権力中枢の管理を、建前上「中立的」とされる専門家や経済学者、IMFや世界銀行、関税および貿易に関する一般協定(GATT)、国民党の当局者(ANCの闘士以外の人間であれば誰でも)に任せようというのだ。
ひとことで言えば、それは南アという国を地理的にではなく(デクラークは当初それを企んだが)、経済的に「バルカン化」する戦略だった。
狡猾な戦略
この計画は、当然ながら議会の支配権をめぐる戦いに勝つことに専心していたANCの指導者たちを尻目に、首尾よく実施された。
しかもその過程で、ANCはこれよりはるかに狡猾な戦略から身を守ることができなかった。
デクラーク側の戦略とは、自由憲章に盛り込まれた経済条項が南アの法律になるのを阻止することだった。
「人民こそが統治すべきである」という要求は間もなく実現することになったものの、統治する領域は急速に狭まりつつあった。
着手もしないうちに、「メイク・デモクラシー・ワーク」は死んでしまった
こうした緊迫した交渉が敵対する陣営同士で進められる一方で、ANCは政権に就く日のために組織内部での準備にも追われていた。
ANCの経済学者と法律家のチームが作業グループを形成し、自由憲章に謳われた住居施設や医療などに関する宣言をどのように具体的な政策にしていくかについて、検討を重ねた。
なかでももっとも野心的だったのは、ハイレベルの交渉が行なわれている間に作成された「メイク・デモクラシー・ワーク(民主主義を機能させよう)」と題された、アパルトヘイト以後の南ア経済の青写真である。
けれどもこうした野心的な計画が練られている間に、交渉チームがその実行を事実上不可能にするような妥協案を次々と受け入れていることを、当の作業グループのメンバーは知らなかった。
「着手もしないうちに、(「メイク・デモクラシー・ワーク」は)死んでしまったのです」と、経済学者のヴィシュヌ・パダヤキーは私に話した。
草案が完成した時点では「状況が一変していた」と彼は言う。
経済学者ヴィシュヌ・パダヤキー
ANCの活動家のなかでは伝統的な経済学を学んだ数少ない経済学者であるパダヤキーは、「メイク・デモクラシー・ワーク」の立案において主要な役割(本人の言葉を借りれば「複雑な計算」)を任せられた。
長時間にわたる会議で彼と一緒に作業したスタッフのなかには、ANC政権の要職に就いた者も少なくないが、彼自身はそうした道は選ばなかった。
彼は、政権ポストへのオファーはすべて断り、ダーバンでの学究生活を続けた。そこで学生を指導し、執筆に励み、南アで初めて非白人として書店を開いたアイク・メイエットにちなんで「アイクス・ブックショップ」と名づけた書店を経営して地元住民に愛されている。
私が彼から南アの政権移譲に関する話を聞いたのは、すでに絶版となったアフリカ史の本が手厚く保存されているこの書店の一角だった。
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