大船フラワーセンター
*明治31年
熊本に帰って、すぐに出した明治31年1月6日付け高浜虚子宛の手紙に、「小生旧冬より肥後小天と申す温泉に入浴、同所にて越年致候」として4つの句を書いている。妻を置いて出かけたことへの後ろめたい思いが、多少にんじでいる。
かんてらや師走の宿に寝つかれず
酒を呼んで酔わず明けけり今朝の春
甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
うき除夜を壁に向へば影法師
その後の漱石と前田卓の交流のい可能性
上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」に、卓が晩年共に暮らした弟九二四郎の息子の妻花枝さんが伝える卓の言葉「一生のあいだ、ロクな男には出会わなかったが、夏目さんだけは大好きだったよ」を紹介している。また花枝さんは、漱石と卓の二人だけの写真も見ていると上村に証言したという。傘をさした浴衣姿の夏の写真だとか。熊本で写したのだろうか。
漱石と山川が小天を訪れたあと、彼らと卓は親しく交流したらしい。「月報」の森田草平のインタビューで卓は、ときどき熊本の山川の下宿を訪ねたことや、狩野の下宿の世話をしたことを話している。
「わたくしは故郷におります時分に、山川さんとは極くご懇意に願いまして、ちょくちょく熊本のお宿元へも伺いました」。いつも襖を開け放ち、あくまで友人としての訪問だったと断っている。また、「その外狩野さんが初めて赴任していらしった時も、わざわざ三里の山越えをして、熊本まで出掛けて下宿のお世話までいたしたような次第ですが、夏目先生のお宅へは、奥様もありましたし、何となく気兼ねで一度もお伺いしたことがありませんでした」。
狩野が熊本に到着したのは、漱石と山川が小天から帰った明治31年正月、漱石は1月7日に狩野を旅館に訪ねている。下宿探しはそれからのことだろう。山川とは友人としてのつきあいだったと強調し、漱石の家に対する気兼ねというこの言葉のニュアンスに、卓の秘めた思いがあるようにも思える。
早春の頃の漱石の小天再訪の可能性について
『草枕』の季節と二つの漢詩
『草枕』は、ひばりが鳴き、菜の花が咲く、早春の季節を舞台にしている。年末年始の最初の訪問とも、初夏のころの2回目の訪問とも違っている。その設定は、漱石の想像力のたまものだろうか。
「青春二三月」で始まる詩
花嫁衣装を目撃する直前に、画工が作った五言十四行の詩で、大意次のようになる。「春たけなわのころ、若草の伸びるにつれてわが愁いも深まる。花は音もなくひっそりした庭に散り、琴は人影のない部屋に横たわる。蜘蛛は巣にこもって動かず、篆書のような形にたちのぼる香煙が、ひさしのあたりにたゆたっている。この静かな世界に独り黙然として座っていると、心の奥底にかすかな光明が感じられる。思えば人の世はあまりに多事煩雑であるが、この閑静な境地も忘れがたい。たまたま一日の静安を得て、人生がいかに多忙であるかを知った。このはるかな思いをどこに寄せたらよいであろうか。ただ悠久な大空のみがそれにふさわしい」(『草枕』新潮文庫、注・三好行雄)。
「出門多所思」で始まる詩(五言一八行)
朝食を食べ終えた画工が、「滅多にこの辺で見ることが出来ないほど好い色が充ちている」のを見て、「折角来て、あれを逃すのは惜しいものだ」と、写生に出かけ、木瓜の木陰にごろりと横になっているうちに詩興が浮かび、作ったというもの。
「わが家の門を出て歩めば春の物思いがあふれ、春風は衣に吹きいってくる。轍のあとにかぐわしい若草が萌え、通る人もない廃道ははるか霞のかなたへと続いている。足をとどめてあたりを眺めると、すべての物象は晴やかに光り輝いて、鶯のさえずりがきこえ、桜の花の乱れ散るのが見える。道の尽きるところに平原がひらけ、とある古寺の扉に詩をかきつけてみる。孤り歩きの寂しさは果てしない空にひろがり、群れを離れた孤雁が北へ帰ってゆく。心というものはなんと奥ぶかいものであろうか、今はただ恍惚としで俗世間のわずらわしい是非善悪などは忘れてしまった。自分ももう三十歳を過ぎて、老境に入ろうとしているが、春景色はやはり依々(いい)とやわらかくしたわしい。そぞろ歩きつつ万物の変化に随順し、悠然としてかんばしい春の草花に身をまかせている(のは何にたとえようもない)」という内容。
どちらも春の日に、世間から離れた部屋あるいは自然の中で、静かな境地に一人うっとりとただよい、人生を思う様をうたっている。この二作の漢詩は、も漱石の明治31年3月の作である。「青春二三月」で始まる詩は「春日静座」と題する五言古詩、「出門多所思」は「春興」という題の五言古詩である。古詩というのは、行数など比較的自由なスタイルをさす。
同じとき、漱石は、「菜花黄朝暾」で始まる十二行の「菜花黄」と題する漢詩と、「吾心若有苦」で始まる十六行の「失題」と題する漢詩も作っている。
つまり漱石は、「明治三一年三月」と明記して4つの詩を作っている。
「菜花黄」は、朝な夕なに黄色に咲く菜の花の中にいる喜びは気も狂わんばかりで、自由な心はヒバリにしたがい、うつらうつらと天にも昇る気持ちだと歌っている。俗界を離れて、そのはるかな境地に入っていくが、残念なことにまだ鳥自体に成り変わり、黄色の菜の花の中で鳴きつくすことができないという内容だ。
「失題」の方は、苦しみを抱えた自分の思いをどのように発すればいいのか、これからの人生をどうすればいいのかという、漠然とした苦悩と憂鬱をうたう詩だ。
吉川幸次郎の『漱石詩注』では、「莱花黄」は『草枕』の冒頭部分と重ねて解説されている。
「五言古詩。似た心理は『草枕』首章にも述べられている」とまず書き、「曠懐随雲雀 冲融入彼蒼(曠懐(こうかい)雲雀に随い、冲融(ちゆうゆう)彼の蒼に入る)」の二句についての説明は、「『草枕』の主人公はいう、『雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのた。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない』」と小説の本文そのままの引用である。また、そのあとに続く「迢逓凌塵郷(迢避(しょうてい)として塵郷を凌ぐ)」についても、「『草枕』に、『余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である』」と、やはり解説が『草枕』本文の引用なのだ。つまり、「莱花黄」は、『草枕』冒頭の画工の心境そのままだといっている。
徐前著『漱石と子規の漢詩』は、「春日静座」「春興」「菜花黄」の三編には「作品中の詩情がよくまとめられており、しかも『春日静座』と『春興』という二首はそのまま作中に引用された」とし、「菜花黄」については、詩そのものの引用はないものの、「明らかにその詩境を描いている」と述べ、『草枕』冒頭の情景描写はこの「菜花黄」を文章化したものと断定している。「とにかく、この詩の文章化と『春日静座』と『春興』という二首の押入によって、小説『草枕』の展開のため、一づの詩情・詩趣のあふれる舞台を提供したと言える」と断言している。
四編中の残る「失題」と題したもう一つの詩についてはどう考えるか。
「吾心若有苦(吾が心苦しみ有るが若し)」で始まり、「漠漠愁雲横(漠漠として愁雲横たわる)」で終わるこの詩は、人生を思い、漠然とした苦しみと迷いと憂鬱にとらわれているさまを歌っている。春景色に心を奪われ、それらと一体となった境地を楽しみつつ、やはり深い憂鬱や苦しみからは逃れられない。これら四編の詩は単に桃源郷での悠然とした境地を歌ったのではなく、生きる苦しみや悩みを抱えての思いである。
この「失題」もまた、『草枕』の画工が抱える思いと苦悩と同じものである。
『草枕』はこれらの漢詩をもとに発想され、詩の境地を核にして『草枕』は書かれたように思える。
これらの漢詩は、どこでどのように生まれたのだろうか
3月の早春の頃、漱石は小天を訪れたのではないか。二度の小天行きをはさんだこの時期、漱石が一気に四編の漢詩を作る場所が、小天以外にあったとは考えにくい。小天を舞台に、卓をモデルにした『草枕』の構想と、その核になる詩の境地が一続きのものであると考えるのが合理的である。とりわけ「菜花黄」は、小説の冒頭にそのまま重なるのだから。
漱石は、「僕は度々行ったよ」と白仁三郎に語っている。
『草枕』での春のいきいきとしだ自然描写を思うとき、漱石の作家としての豊かな想像力と表現力のたまものだとしても、実際に小天に行って、見て、体験したことが根底にあったのではないか。
「莱花黄」には、朝な夕なに一面の黄の菜の花の中にいると、喜びに気も狂わんばかりだ、という言葉がある。これらの詩は明治31年3月当時の漱石の心が、激しい振幅に揺れていたことを示している。その蔦藤には、小天で出会った卓のことも含まれていたにちがいない。
では、何故明治31年の詩をもとに、後年、小説が構想されたのだろうか。それは、おそらく卓の上京と関わっているのではないか。『草枕』の1年前、『一夜』を書いた明治38年夏ごろ、卓は上京している。
小宮豊隆の反論
小宮豊隆は、「この『草枕』の場所がどうの、峠の茶屋がなんの、那美さんが誰をモデルにしたのと、余計な詮索に耽るのは、外道に堕する事に外ならなかった」(『漱石全集』第2巻、解説)という。それは、『草枕』が、「芸術至上主義的な非人情の世界」を作ろうとしだ作品で、「『草枕』の画工が、春の『夕暮れの机に向』って感じたような、『窈然(ようぜん)として名状しがたい』楽しさが、漱石の衷(うち)に動いている」ことで生まれたからだという。つまり、『草枕』は、漱石の心の中の楽しいことからのみ発想され、熟成した作品だという。だから、「那美さんに会うのも、髪結床の亭主と話をするのも、観海寺の和尚をたづねるのも - すべて『窈然として名状しがたい』漱石の心の楽しさを表現する為の、単なる道具に過ぎない」と断定する。
しかし、実体験からいかに普遍的な作品を生み出すかが、芸術家の心と表現の飛躍力であり、リアリズム作品であれ、象徴的作品であれ、素材と飛躍の関係性は同じなのではないか。「漱石の心の楽しさ」が、現実に見た風景や出会った人間を核として生まれたにしても、「外道に堕する」とは思えない。現実をなぞるのではなく、現実からさらに「心の楽しさ」が生まれ、詩的世界を喚起したからこそ、漱石の『草枕』は素晴らしいのである。
(つづく)
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