2018年9月20日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その7)「私の知っている朝鮮人で、朱某という早稲田へ通っている男があった。〔略〕その男はあの騒ぎの最中に、友人6名とともに巣鴨方面へ避難する途中で民衆警察のために捕えられ、6人の友人はすべて殺され、彼1人は辛くも付近の交番へ駆け込んで、危うく一命を助けられた。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その6)「鮮人襲来はいうまでもなく根も葉もない流言に過ぎなかったが、当時不逞鮮人の嫌疑を受け、各地自警団の手で非業の最後を遂げた人の数は決して少なくないものであったと思う。現に私たちの町内でも或る洋食屋の主人が、猟銃で不逞鮮人の疑いある一青年を射殺、それが長野県出身の大学生と判明して大問題を惹起した。」
からつづく
 
大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉
吉村藤舟〔郷土史家、角筈新町の下宿で被災〕
〔2日〕今一つ凄い光景と申しますのは、その伊勢屋の前を通って市ヶ谷に出ようとした時に見た事でその時はもう時刻も余程暮近い頃でした。それに空も朝からの曇りで、そうでなくとも暗い間暮を一層暗くしていました。未だ焼跡にはちょろちょろと火が見えていましたし、四谷見付に寄った方面では黒い煙も盛んに立っていました。それ等を見、見、私がやって来る前の方、即ち見付の方から一口坂を騎馬兵が3、4人で馬足を揃えて走って来ました。それでびっくらして見ると、どれも付剣のまま銃を右の腋の下にかい込んで走っていました。が、中の1人が、私の前まで来ると、「それ、その路次だ・・・」と叫びました。その時には私が殺されたかのようにびっくらしました。騎馬兵は私の前まで来ると、革細具屋とパン屋との間の細路次へ駆け込みました。何事だろうと覗いて見ましたが、そこにはこの3人の騎馬兵以外には何者もいませんでした。けれども私の胸の動悸は暫時の間は止みませんでした。不安の中に私が見付の駅の所まで来ますと、そこには沢山の人が、皆私の方を向いて立っていました。そして口々に何か喋っていました。
「きっと奴等はサイダ壜か何にか持ってるから気をつけろ」
「奴等だって悪い奴ばかりはいないから、調べた上でしなければかわいそうだ」
こう言っているのは、この群衆の中でも一番きわ立って見られる知識階級の人物でした。背も高いし、立派な髯髭も持ってた。身姿はこうした時であるからか名仙縞の古い単衣物を着ていたが、群衆はその男を取囲むようにしていた。中には「なに、構うか、奴等の為に同胞が苦しめられているのだ、見つけ次第にやっつけろ」などとも言っていた。
それで私は始めて鮮人の暴黨(ママ)を知った。そこには駅の石段の下に銃剣の組合わせたのが幾組かあって、又、駅の横手の樹木に乗馬が2頭繋いでありました。こうした騒ぎは、今うさんらしい奴が行ったと言うので、騎馬で迫っ駆けたのである。私がさっき一口坂上で遭った騎馬兵は、この屯(たむろ)から出て来た者であるのだ。
「さっきも神楽坂でおかしな風体の奴等がいた。そやつの懐がふくれていたので、憲兵が止まれ、何者か、と言って羊刀の鞘尻でその腹を突いた時、懐中のふくらみが爆弾であったから堪らない、そやつが爆発して奴め倒れたが、それで今は大騒ぎをやっている。だから構うことはない見付け次第やっつけるがよい」
と、若い男が口を尖らして喋っていた。その時又も兵隊が付剣で、これは騎馬でなしに新見付の方へ走って行った。
「確かだよ、奴に相違ない。ひょっとすると、そこらに主義者の窃伏している家でもないかな。それで知れなくなったのかも知れないぜ」
「そうだよ、きっと」
兵隊が走って行ってから、後で群衆が又も盛んにわいわい騒ぎ立てた。
〔略。5日〕わいわいと騒ぐ声が必ずしています。それからとろりとしたと思うと、どんどんどん、「起きてくれ起きて」と云う声で私はハッととび起きました。そして早速ずぽんを穿き靴で出ようとしましたが、事柄が何か判かっていないので、もし突然出ても、何にしろ夜警の連中に多く顔を知られてない私だから、どんな嫌疑の掛らないものでもない。つまらないと思って、私は出る事を中止して昵(じっ)と聞耳を立てていました。すると、「それっ・・・そこへ入ったぞ!」という声がした。ハハハ又鮮人騒ぎかな、と、思ったがもう動悸は治まらない程打って来ました。そのうち「ここへ来たが。ああここが開くぞ」などいう声が私の聞耳立てている直き向いの横手の方で聞えました。それは強震の際、垣根を壊した所です。そのうちに夜警の足音は近くなった。
「どこへ行ったろう。確にここに入ったと思うが・・・」こういって来るのは確かに3人以上の足音でした。私はそれを聞くとズボンのまま突然寝床へ倒れ込みました。なんだか私が当の犯人かの様な気がして、急に寝た真似をしました。
(吉村藤舟『幻滅 - 関東震災記』泰山書房仮事務所、1923年)
牛込神楽坂警察署
9月2日午前10時、士官学校前に「午後1時強震あり、不逞鮮人襲来すべし」との貼紙ありて人心の動揺を来たし、鮮人に対して自衛の道を講じ、更に進みてこれを逮捕するもの多く、午後5時頃までに青年団員の手によりて当署に同行せるもの20名に達す。かくて3日に至りては、自警団の行動漸く過激となり、戎・兇器を携えて所在を横行するに至る、これに於て同4日その取締に着手し、警部補1名・巡査40名をして管内を巡察せしめ、以て戎・兇器の押収領置を励行せり。
しかるにその日更に「鮮人等新宿方面巡査派出所を襲撃して官服を掠奪着用して、暴行を為せり」との流言行わるるや更に警察官に対しても疑懼(ぎく)の情を懐き、制服巡査を道に要して身体の検索を為すものあり、事態容易ならざるを以て、署長は署員の軽挙を戒め、官民の衝突を未然に防ぐと共に、自警団の取締を厳にしたる結果、幸にして事なきを得たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

四谷警察署
9月2日午前、士官学校の墻塀(しょうへい)に、「午後1時強震あり」「不逞鮮人来襲すべし」との貼紙を為すものありしが、強震の事に関しては、署員その虚報なるを宣伝し、幸に事なきを得たれども、鮮人の件に至りては、甚く人心の動揺を来し、その後更に「不逞鮮人等横浜方面より製来し、或は爆弾を以て放火し、或は毒薬を井戸に投じて殺害を図れり」との流言の伝わるに及びては、鮮人に対する迫害、到る所に起り、この日、午後4時30分頃、伝馬町1丁目の某は鮮人なりとの誤解の下に、同2丁目に於て某の為に狙撃せられ、重傷を負うに至れり。かくて流言益々甚しく、疑心暗鬼を生じて、便所の掃除人夫が備忘の為に、各路次内等に描ける記号をも、その形状に依りて、爆弾の装置、毒薬の撒布、放火、殺人等に関する符牒なるべしとの宣伝に依り、人心は倍々恐怖を懐けり。而してこれが調査の結果は、中央清潔社の営業上に於ける慣行の符徴なるを知り、管内一般に公表宣伝せり。この日、霞ヶ丘の某は、自宅の警戒中、通行者に銃創を負わしめたる事実あり。その6日午後10時頃、赤坂の某所に鮮人3人侵入したりとの報告に接し、署長躬(みずか)ら署員を率いて現場に臨みしが、何等の事なかりき。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉
井伏鱒二〔作家、下戸塚の下宿で被災〕
〔1日夕〕鳶職たちの話では、ある人たちが群をつくって暴動を起し、この地震騒ぎを汐に町家の井戸に毒を入れようとしているそうであった。私は容易ならぬことだと思って、カンカン帽を被り野球グラウンド〔早稲田大学下戸塚球場〕へ急いで行った。
小島君〔小島徳弥〕は一塁側の席の細君のところにいた。私が井戸のことを言う前に、小島君が先に言った。スタンドにいる人たちも、みんな暴動の噂を知っているようであった。彼等が井戸に毒を入れる家の便所の汲取口には、白いチョークで記号が書いてあるからすぐわかると言う人がいた。その秘密は軍部が発表したと言う人もいた。
〔略。2日夕、スタンドで小島に〕暴動のことを訊くと、大川端の方で彼等と日本兵との間に、鉄砲の撃ちあいがあったそうだと言った。もし下戸塚方面で撃ちあいが始まったら、我々はどうなるかという不安が強くなった。
(井伏鱒二『荻窪風土記』新潮社、1982年)

今村明恒〔埋蔵学者〕
〔2日夜12時頃、東大久保48番地の自宅付近で自警団に尋問される。かぶっていたヘルメットを怪しまれた〕帰宅してその話をすると、自宅にも昼間、着剣した兵隊が来て「朝鮮人が井戸に毒を入れるので注意せよ」と言って帰った、町中に触れ回っている、とのことであった。
(山下文男『地震予知の先駆者・今村明恒の生涯』青磁社、1989年)

小野ヲコウ〔当時13歳。早稲田で被災〕
2日たち、3日たち生活の不自由が増して、疲れが出はじめた頃、今度は流言ひ語である。××が井戸へ毒を入れに来ると言う。大人達は町内の水を守る為夜警に狩り出され、町の要所には自警団が組織され、誰何して返事が出来ずまごまごしている者は、即座に処分との事、そんな恐ろしい話がひそひそと耳に入ってくる。
(『東京に生きる 第1回』東京都社会福祉総合センター、1985年)

佐藤昌〔造園家、都市計画家〕
2、3日経った頃、西大久保には流言が流れてきた。朝鮮人が井戸の中に毒を入れたとか、日本人の家を襲って食糧などを奪い、暴行を働いているとかいうのである。
(佐藤昌『百歳譜 - I佐藤昌自伝』東京農業大学出版会、2004年)

橘満作〔当時29歳〕
〔2日、戸塚方面で〕表通りを4人連れの中国人学生が通る。逆上した青年団のある者は、闇にも光る閃々たる一刀をスラリと抜いて、その切っ先を学生の面前に突きつけながら、「貴様たちなどは生かしておけぬ」と大声に怒鳴りたてる。何も知らない中国人学生は、恐ろしさにブルブル慄えながら、叩頭百舞ひたすらに助命を乞うている。
早稲田大学に通う朝鮮人学生が、私どもの近くに3、4人して一戸を借りていた。たしか3日の晩であった。見知りの、土地の自警団一群が腰に一本プチ込んだり、棍棒を持ったりして、多勢で屋内の様子をうかがっている。どうしたのかと聞くと、もしも不穏な挙動があれば、たちどころに切り捨てるのだと、恐ろしい権幕である。家の中を見ると、4、5人の朝鮮人学生は怖しそうに、ローソクの光に固まっている。私どもはその学生たちの顔は常々見知っているので、そんな不穏なことをする人たちではないから、と証明しても、いっこうに聞かない。それならこの朝鮮人に対する万一の責任を負うかと言う。こんな、一杯機嫌から逆上している人びとと話をしても致し方がない。間違って脇腹あたり、竹槍がブスッと来ないものでもない。仕方がないので、土地生え抜きの老人を頼んで来て、ようやくなだめて帰ってもらうという始末で、実に利害相伴う民衆警察であった。私の知っている朝鮮人で、朱某という早稲田へ通っている男があった。〔略〕その男はあの騒ぎの最中に、友人6名とともに巣鴨方面へ避難する途中で民衆警察のために捕えられ、6人の友人はすべて殺され、彼1人は辛くも付近の交番へ駆け込んで、危うく一命を助けられた。(「焦髪(くろかみ)日記(抄)」大正13年9月稿)
(関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)
遠山啓〔数学者。当時14歳〕
〔戸山原練兵場近くの家で〕2日の晩あたりから、いわゆるデマがとびはじめた。「朝鮮人が井戸に毒薬をなげこむから注意しろ」というのである。このころから、焼けた下町から逃げてきた人を近所のものがつかまえて、「朝鮮人ではないか」と尋問するような光景がみられるようになった。私がみたのは、夜になってひとりの男をつかまえて、かきねのところへ押しつけてこづいている光景だった。殺されはしなかったが、ひどく殴られてぶっ倒れていた。
〔略〕同級生から聞いたことであるが、彼は外堀の土手で、何か毛皮のようなものをかぶっている人がピストルで射殺されるのをみたという。
(銀林浩・小沢健一・榊忠男編『遠山啓エッセンス・第7巻 - 数学・文化・人間』日本評論社、2009年)

つづく


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