2016年6月28日火曜日

詩人茨木のり子の年譜(9) 1982(昭和57)56歳 第六詩集『寸志』 1983年 『現代の詩人7 茨木のり子』 ~ 1986(昭61)60歳 『ハングルへの旅』(朝日新聞社) ~ 1989(平1)63歳

鎌倉 明月院 2016-06-28
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(その8)より

1980(昭55)54歳
11月、吉岡しげ美音楽詩集「女の詩(うた)・そして現在(いま)」(キングレコード)に「わたしが一番きれいだったとき」「女の子マーサ」「怒るときと許すとき」「生きているもの・死んでいるもの」「小さな娘が思ったこと」が収録される。

1982(昭57)56歳
12月、第六詩集『寸志』花神社刊。
(収録作品)
問い
この失敗にもかかわらず
隣国語の森

1983(昭58)56歳
7月、『現代の詩人7 茨木のり子』中央公論社から刊行"

1985(昭60)59歳
6月、花神ブックスⅠ『茨木のり子』花神社から刊行"

1986(昭61)60歳
6月、エッセイ集『ハングルへの旅』朝日新聞社から刊行。
6月、韓国人作家・金善慶(キムソンキョン)の童話集の翻訳『うかれがらす』筑摩書房より刊行

■韓国語を学ぶ
 金裕鴻(キムユホン)が留学生として来日したのはソウルの国民大学生であったころ、一九五五(昭和三十)年であるから、在日の月日は半世紀を優に超える。長い在日歴をもつ韓国人は少なくないが、金に特記すべきは、韓国語を教えることを通して、千人を超える”日本人門下生”を得たことであろう。その一人に茨木のり子がいる。

 金が明治大学大学院に在籍していた一九六〇(昭和三十五)年から六一年にかけて、韓国では学生革命が引き金となって李承晩政権が崩壊する。・・・

 一九六一(昭和三十六)年、NHKの国際放送(ラジオ)の朝鮮語番組がはじまっている。二年後、新たなアナウンサー募集のオーディションがあり、金が採用された。・・・

 NHKの仕事は以降三十六年間続いていくが、もうひとつ、金が情熱を傾けたものに韓国・朝鮮語(ハングル)の講座がある。
 日韓親和会の主催する韓国語講座の初級クラスを担当したのか皮切りであったが、アナウンサー体験も加味していたのだろう、言葉を教えることが金は好きだった。その後、早稲田大学語学教育研究所、朝日カルチャーセンター、NHK「ハングル講座」などで韓国語を教えていく。

 朝日カルチャーセンターで講座がはじまったのは一九七四(昭和四十九)年のこと。・・・

 朝日カルチャーセンターの講座は三ヵ年で修了したが、茨木など熱心な生徒はさらに金のもとで勉強することを欲した。金が教えている他の講座に顔を出し、さらに間借りした会場や喫茶店で”自主講座”の勉強会は続いた。帰り道、メンバーは居酒屋や韓国料理店などに立ち寄る夜もあった。
 そんな席でも、茨木は「生徒の一人」というスタンスを変えることはなかった。目立つことなく、静かに談笑の輪に加わっている。概してシャイであり、有名人面することは一度もなかった。・・・

 自主講座が終わってからもさらに二人の付き合いは続いた。韓国語の不明な点を茨木が手紙で問い合わせ、それに金が答える  - 。

■尹東柱のこと
 茨木が出会った詩人に尹東柱(ユンドンジユ)がいる。韓国でもっとも人気のある、若くして獄中死した詩人である。
 旧満洲の生まれ。戦時中、来日して立教大学へ、さら同志社大学文学部英文科に在学中、朝鮮の独立運動に関与したという容疑で逮捕され、京都地方裁判所で懲役二年の判決を言い渡される。日本の敗戦の半年前、福岡刑務所で収監中に亡くなる。二十七歳。顔写真を見ると、知的な眼差しをもつ、美青年である。
 詩は、当時使うことを禁じられていたハングルで記されていた。詩編は友人のもとに送った手紙に同封されていて、友人が隠し持っていたことにより後世に伝わることとなった。
遺された尹の詩は、伊吹郷の訳によって読むことができる。『空と風と星と詩 - 尹東柱全詩集』(記録社、一九八四年)であるが、この過酷な時代の、この世代の若者にのみ詠むことができたであろう清音高き調べに満ちている。

 後年、建築家となり大学教授となった弟・尹芳柱(ユンイルジュ)と茨木は会っている。来日する前、兄の尹東柱(ユンドンジュ)は延世大学の学生であったが、構内に建てられた尹東柱詩碑を設計したのは十歳下の尹一柱であった。茨木は人・尹一柱を「篤実で陰翳深いお人柄、そこはかとない茶目っ気もあり」と記している。『ハングルへの旅』の最終章で尹兄弟の足跡をたどりつつ、ラスト、茨木はこう締め括っている。

 《弟の一柱さんと話していると、そのお人柄にどんどん惹きつけられていった。私の脳裡に「人間の質」という言葉がゆらめき出て、ぴたりと止まった。あまり意識してこなかったけれど、思えば若い頃からずっと「人間の質とは何か?どのように決定されるのか?」ということを折々にずいぶん長く考えつづげてきた、見つづげてきた、という覚醒が不意にきた。
 ふしぎな体験だった。
 それも尹一柱さんというすばらしい「人間の質」に触れ得て、照らしだされてきたことで、いきおい兄である尹東柱もまた、こういう人ではなかったか? と想像された。
 もの静かで、あたたかく、底知れぬ深さを感じさせる人格。
 だが三年間近くの日本留学生時代、伊吹郷氏の丹念な調査にもかかわらず、誰一人、彼を記憶していないということは…‥なんとも言えない情けなさである。
 ともあれ尹東柱・一柱兄弟に出会えたことは、最近の私の大きな喜びである。
 これもハングルを学ぶ道すがら、その途次でのことであった》

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

 尹東柱の代表作ともいわれる「序詩」であるが、茨木は『ハングルへの旅』でこの詩を引用しつつ、尹東柱を論じている。このくだりが日本の高校の教科書「新編現代文」(筑摩書房、一九九〇年)に載せられた。
 すでに「序詩」は韓国の高校の教科書にも使われている。日韓両国の教科書に、戦時中に死んだ若き在日朝鮮人の詩人の詩が掲載されること。小さなことではあるが、ゆるやかに流れる時代の変化を告げているのかもしれない。

■浅川巧のこと
 浅川巧。大正期から昭和のはじめ、朝鮮総督府農商工部山林課、さらに林業試験場に勤務した農林技師である。養苗、植樹の仕事にたずさわり、朝鮮の緑化事業につくした。
 農林技師として半島を歩くなか、ハングルを修得し、朝鮮服を愛用した。日用雑器に親しむうちに古き陶磁器への造詣を深めて『朝鮮陶磁名考』という著も残している。下級官吏ではあったが、生活困窮者の援助や子弟の学費援助にも奔走した。肺炎により四十歳の若さで急死するが、地元の人々の手によって手厚く葬られ、この地の土となった -。
 一九八四(昭和五十九)年、茨木はソウルの東、忘憂里という地にある浅川の墓に詣でている。憂いを忘れる里 - 忘憂里。『ハングルへの旅』において、一度耳にしたら忘れられない地名と記し、この地への紀行を綴っている。
 浅川の碑にはハングルでこう記されていた。

韓国が好きで 韓国人を愛し
韓国の山と民芸に
捧げた日本人
ここに 韓国の
土と なる

 浅川の短い生涯を紹介しつつ、茨木はこう書いている。
《浅川巧は、朝鮮における皇民化の激しくなる前、一九三一(昭和六)年に逝ったが、健在であればその後どう生きたか。またさかのぼって一九一九年の三・一独立運動をどう見たか。結局のところは山林一つをとってみても猛烈な収奪をやってのけた朝鮮総督府に属した一官吏にすぎないという観かたもあるだろう。
 だが、明晰な論文や弾劾文を発表すること、政治運動をすることだけがすべてではない。その時々の現象的な運動にかかわるだけがすべてではないだろう。言葉少なに、自分のできる範囲内でまわりに尽くし、黙って死んでいったその生きかたには、なぜか私は強く惹かれる》
 自身もかくありたい -。そう語っているようでもある。浅川と茨木が成したことは違うが、その精神において同列に連なるものを感じるのである。

 『ハングルへの旅』において、茨木はこうも書いている。
《今までの人生をぶりかえってみて、この十年間ほど一心不乱に勉強した歳月はなかった》

(以上、引用は『清冽』より)

1989(平1)63歳
3月、文庫『ハングルへの旅』朝日文庫から刊行

(その10)につづく




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