いさましい歌 茨木のり子
お待ち
いまに息の根をとめてあげる
がりがりとたうきびでもかじりたい日だ
だまつて
私の言ふとほりにおなり
お前はけふミケランヂエロの俘虜さ
たくましい肢体をしばりあげられ
馬のやうにけいれんする
心ふるふばかり美しい私の…。
手綱をにぎり
さあ行かうペガススのやうに
蒼窮のはての
あをいあをい透明の世界へ
あたしの髪は煙のやうになびき
お前のたてがみは時空の風を切って飛ぶ
沼の妖気よさようなら
栗色の脾肉よ もつと走れ
捉はれのお前に鞭をあて
まっしぐらにかける
あああたしはアマゾンの女王だ
わたしのアヒレスよ
わたしのアヒレスよ
お前の鼓動が哀れに乱れ
お前の翼が折れさうになればなるほど
わたしの鞭は空中で鳴るのだ
岩石を駆け
雲を飛び
星の光度に射られながら
いとしい人よ
あたしは愛した
めくるめくはむらの照明
喘ぎの音符
夜のしじまのホリゾント
そこで主役になりきった白熱の姿態は
こはくのやうに澄みきって
見えない祭壇に捧げられ
消えやうもなく定着されたと知る。
おおどれ位たつたといふのか……
あたしはお前の背中にゆられて行った…‥
お前は笑ってゐたやうだった……
乳母が子供をあやすやうに……。
(「詩学1950年9月 詩人24歳)
茨木のり子の詩がはじめて活字となったのは、雑誌「詩学」の投稿欄、「詩学研究会」である。
表題は「いさましい歌」。一九五〇(昭和二十五)年である。
「「櫂(かい)」小史」 に、詩を書きはじめた当時のことを回想している。
《昭和二十四年の秋に私は結婚していて、所沢町に住み、翌二十五年くらいから、詩を書こうとしていた。詩を書きたいという欲求もさることながら、言葉を鵜匠のように、自由自在に扱ってみたい、言葉をもっとらくらくと発してみたい、言葉に攫われてもみたいという強い願望があり、そのためには詩を書くことが先決のように直感されたからであった。
詩の師を探す気特はさらさらなく、仲間もなく、ただ自分一人でこつこつ書いていこうと思っていた。その頃、本屋に毎月きちんと出ていた「詩学」という詩誌があり、詩学研究会という投稿欄もあって、選者は村野四郎氏だった。
一人で書いているのは、いくらか心細くなったとみえ、どこの誰ともわからない者の詩として、村野四郎氏に一度見てもらいたくなったらしい》
詩学研究会を足場に成長していた詩人は茨木の他、川崎洋、谷川俊太郎、山本太郎などがいる。のちに『どくとるマンボウ航海記』などで知られる作家の北杜夫も研究会への投稿者だった。
(後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社))
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すばらしい
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