2022年9月26日月曜日

〈藤原定家の時代130〉養和2/寿永元(1182)年1月1日~28日 定家(21)『堀河院題百首』 深刻な飢餓・治安悪化 「近日。嬰児を道路に捨て、死骸街衢に満つ。夜々強盗、所々放火、諸院蔵人と称するの輩、多く以て餓死す。それ以下数を知らず。飢饉前代を超ゆ。」(「百錬抄」)  

 


〈藤原定家の時代129〉治承5/養和元(1181)年 〈養和元年末の諸勢力の勢力分布〉 〈深刻な問題は養和の飢饉〉 〈膠着した内乱〉 より続く

養和2/寿永元(1182)年

この年

・藤原俊成、子の定家(21)に『堀河院題百首』を作らせる。

定家は、『堀河百首』 について、〈今コレヲ見ルニ一首採用スベキノ歌ナシ〉と記す。しかし、俊成も加賀も感涙を落し、隆信・寂蓮からも賞翫の詞がとどき、兼実も称美の消息を贈った。俊恵も来訪して感泣の涙を拭ったという。〈時ノ人望コレヲ以テ始メトナス〉 

『堀河百首』;

堀河院代に詠まれた16人による大規模な百首歌(計1600首)で、その後の百首歌の範とされ、習作のために、そこで用いられた歌題で百首を詠むことが試みられていた。

定家が父の命に従って百首を詠み上げたところ、父母(俊威・加賀)は忽ち感涙を落とし、将来きっとこの道で大成するだろうとの「返抄」(保証書)まで出したのをはじめ、異父兄の藤原隆信や寂蓮(俗名藤原定長、歌に優れ一時期叔父俊戌の猶子になっていた)などの人々も「賞翫の詞」を吐き、右大臣(兼実)からは「称美」の消息があり、俊恵(歌林苑の主)は饗応の席で涙を拭った。これが自分の歌が人から誉められた最初である、とは、定家自身がその百首歌に付した文言である。


・寿永元年(1182)から文治4年(1188)まで『明月記』は欠けている。


1月

・京都、深刻な飢餓状態。

「近日。嬰児を道路に捨て、死骸街衢に満つ。夜々強盗、所々放火、諸院蔵人と称するの輩、多く以て餓死す。それ以下数を知らず。飢饉前代を超ゆ。」(「百錬抄」)。

蔵人;平安末期には、院、女院、東宮、摂関家、大臣家にも置かれていた。

「よろしき姿したる物、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く」(「方丈記」)も同様の有様を描いている。

〈「方丈記」と養和2年の飢饉〉

「方丈記」について

鴨長明「方丈記」は鎌倉前期の建暦2年(1212)に成立した作品。序の部分で、無常の世における人と栖(すみか)のはかなさを述べ、前半で若い頃に体験した五大災厄について書いている。五大災厄とは、安元3年(1177)の京都の大火、治承4年(1180)の京都を襲った辻風(竜巻)、同年の福原遷都、養和年間(1181~82)の飢饉、元暦2年(1185)の京都大地震。


「又養和のころとか、久くなりておぼえず。二年があひだ、世中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀事々くならず。むなしく、春かへし夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。是によりて、国々の民、或は地を棄てゝ境を出で、或は家を忘れて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更に其しるしなし。京のならひ、なにわざにつけてもみなもとは田舎をこそ頼めるに、たへて上るものなければ、さのみやはみさをもつくりあへん。念じわびつゝ、さまざまの財物かたはしより捨つるが事くすれども、更に目見立つる人なし。たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、うれへ悲しむ声耳に満てり。

前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。あくる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさゞまに、あとかたなし。・・・はてには、笠うち着、足ひきつゝみ、よろしき姿したる物、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる物のたぐひ、数も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満て、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。・・・

仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつゝ数も不知死る事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる物(者)多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。」(「方丈記」)。

1月1日

「卯の刻、武衛鶴岡宮に御参り、神馬一疋を奉らる。佐野の太郎忠家これを引く。」(「吾妻鏡」同日条)。

「武衛御行初め。籐九郎盛長が甘縄の家に渡御す。佐々木の四郎高綱御調度を懸き、御駕の傍らに在り。足利の冠者・北條殿・畠山の次郎重忠・三浦の介義澄・和田の小太郎義盛以下、御後に列すと。」 (「吾妻鏡」同3日条)。

1月23日

・平時家(時忠2男)、頼朝と対面、鎌倉に仕官。時忠後妻頌子の讒言で治承3(1179)年11月解官、上総へ追放。上総権介平広常の娘を娶る。

「伯耆の守時家初めて武衛に参る。これ時忠卿息なり。継母の結構に依って、上総の国に配せらる。司馬これを賞翫せしめ聟君と為す。而るに廣常去年以来御気色聊か不快の間、その事を贖わんが為これを挙し申す。武衛京洛の容を愛するの間、殊に憐愍すと」 (「吾妻鏡」同日条)。

1月24日

「昏(こん)の戌剋(いぬのこく、黄昏時)、木(もく)・火(か)二尺五寸計(ばか)り〈熒惑(けいわく、火星)西、歳星(さいせい、木星)東〉、その体治承三年〈己亥(つちのとい)〉十一月の変のごとし、尤も御慎み有るべきか」(安倍泰忠「養和二年記」同日条)。

火星と木星が接近しているのを不吉の前兆とみて、慎みあるべきと書く。また、その天体の運行が治承3年11月のクーデターに類似しているという。

2月17日、大外記清原頼業が兼実を訪れた時もこの火星・木星の異常接近を語り、「これ治承三年逆乱の時の変なり」という(「玉葉」)。

また、23日にも安倍泰親が天変を告げ、「治承三年の大乱の時の変なり」という(「玉葉」)。

1月25日

「去年〈養和元年辛丑(かのとうし)〉冬の比より、北国謀反の輩発起して路を塞ぐの間、京中の貴賤上下衣食に乏しき者なり、東国と云ひ北国と云ひ、一切の人ならび消息通はず、おほよそ四夷(しい)起(た)ちて運上絶え了んぬ」(「養和二年記」同日条)。

戦乱によって運送が困難になっただけでなく、乱を口実に上納をサボタージュする国衙・荘園が増加した。

1月25日

「この間天下飢饉以後、路頭を過ぐる人々伏せ死す。また天下強盗毎夜の事なり。すでに長承の飢饉にあひ同じ、(略)上品の白綾一巻、僅かに三斗と相博(交換)するのみ」(「養和二年記」同日条)

「長承の飢饉にあひ同じ」は、「方丈記」の「近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど」と同じ。

「上品の白綾一巻、僅かに三斗と相博」(高級な絹織物が穀物三斗と交換)は、「方丈記」の「たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす」と同じ。

1月28日

・「太神宮に奉らるべきの神馬・砂金等の事、日者その沙汰有り。・・・

先ず金百両、千葉の介常胤・小山の四郎朝政等これを進す。次いで神馬十疋、庭上に引き立つ。・・・江戸の太郎進す・・・下河邊の四郎進す・・・武田の太郎進す・・・吾妻の八郎進す・・・高場の次郎進す・・・豊田の太郎進す・・・小栗の十郎進す・・・葛西の三郎進す・・・河越の太郎進す・・・中村庄司進す・・・」(「吾妻鏡」同日条)。  


つづく


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