養和2/寿永元(1182)年
4月5日
・源頼朝、江ノ島遊覧。
足利義兼・新田義重等が供奉。これは、高雄山神護寺文覚上人が、頼朝の請願する神事(大弁財天の勧請)を行うためであるが、実は鎮守府将軍藤原秀衡調伏の密議(「吾妻鏡」)。文覚は21日間祈祷。
「武衛腰越に出しめ江島に赴き給う。足利の冠者・北條殿・新田の冠者・畠山の次郎・下河邊庄司・同四郎・結城の七郎・上総権の介・足立右馬の允・土肥の次郎・宇佐美の平次・佐々木の太郎・同三郎・和田の小太郎・三浦の十郎・佐野の太郎等御共に候す。これ高尾の文學上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。供養法を始行するの間、故に以て監臨せしめ給う。密かにこの事を議す。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月11日
・平貞能、鎮西を追討。原田種直の助力で、菊池隆直は降服。
4月15日
・後白河法皇が日吉社に赴いたとき、叡山の僧徒たちが法皇を擁して不穏な動きをはじめたとの噂が都に流れ、驚愕した平宗盛が、直ちに平重衡に命じ、兵を率いて法皇を迎え取らせた。この頃の法皇と平氏との関係、法皇の京都政界内での立場を物語る。平氏としては、法皇をその掌中に置くことが、その存立のための最大の要件であった。
「早旦、天下騒動の事出来す。以ての外謬事の故、この事出来有るか。昨日、法皇御登山の間、山僧等法皇を盗み取り奉るべきの由、今日その告げを得て、洛中の武士騒動す。忽ち数多の騎を率い、坂下に向かう。僻事に依って空しく帰りをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
4月21日
・賀茂祭にて平有盛が祭使を務める(「玉葉」)。
5月11日
・兼実、九州の菊池隆直が貞能に投降したとの情報を得る(「玉葉」)。
「吾妻鏡」4月11日条は、貞能が京から派遣の官吏に自分の家人数人を副え、国郡を巡回、兵粮米と称して「水火の責め(水責め火責め)を成す、庶民悉くもつてこれがために費(つい)ゆ」と記す。それで、隆直は「当時(現在)の難」を避けるため貞能に降伏したと記す。
追討使の兵粮米徴収は水責め火責めといわれる仮借ないもので、「その積り(累計)十万石に及」(盛衰記)ぶとされている。
5月19日
・「十郎蔵人行家三河の国に在り。平家を追討せんが為、上洛せしむべきの由内儀す。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月27日
・「壽永」に改元。「養和の飢饉」のため。
5月27日
・中宮平徳子(28)に建礼門院の院号宣下。
6月1日
・「武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。御中通の際、外聞の憚り有るに依って、居を遠境に構えらると。且つはこの所御浜出便宜の地なりと。この妾、良橋の太郎入道が息女なり。豆州の御旅居より昵近し奉る。顔貌の細やかなるのみならず、心操せ殊に柔和なり。去る春の比より御密通、日を追って御寵甚だしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月5日
・頼朝、佐竹討伐での軍功に、熊谷次郎直実に、実留守中の叔父久下直光の押領を止めさせ、熊谷次郎直実を地頭職とする(吾妻鏡」同日条。
6月7日
・「武衛由比浦に出しめ給う。壮士等各々弓馬の芸を施す。
先ず牛追物等有り。下河邊庄司(御合手たり)・榛谷の四郎・和田の太郎・同次郎・三浦の十郎・愛甲の三郎射手たり。次いで股解沓を以て、長八尺の串に差し、愛甲の三郎を召し射さしめ給う。五度これを射る。皆中たらずと云うこと莫し。而るを武衛彼の馬の跡と的下とを打たしめ給うの処、その中間八杖たるなり。仍ってこの杖数を積もり、これを相廣め馬場を定むべきの由仰せ出さる。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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