養和2/寿永元(1182)年
3月9日
・北条政子(26)の着帯の儀。
3月12日
・宗盛は自分と父の違いを、「故禅門は遺恨有るの時、直(じか)に報答、宗盛においては尋常を存じ、万事存ぜざるが如し知らざるが如し。よりて事におきて面目を損す(亡き清盛は遺恨があれば、時を移さず報復するような人だったが、自分は人からよく思われたくて、何事も見て見ぬふりをしてきた。だから事態に対処しようとして評判を落とすことがあった)」と語る(『玉葉』養和2年3月12日条)。
宗盛の自己評価は、寛大過ぎて失敗もあったというが、弁解がましく、英雄の条件である父の果断さを持ちあわせていないのを自認している。両者の感情の密度と、それを行為に移す迫力の差は明らかである。
3月15日
・源頼朝、鎌倉由比ヶ浜から鶴岡への新道を作らせる。 後の若宮大路となる参道を改修。
3月17日
・諸国司に、荘園等からの兵糧米徴収の院宣が下る。
「近日諸国の庄々兵粮米重ねて苛責有り。使廰の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。」(「吉記」同日条)。
3月17日
・城太郎助長、木曽追討に進発した直後に頓死(「玉葉」)。
3月19日
・「道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。」(「吉記」同日条)。
3月19日
・地震あり。
3月21日
・敦賀に踏み止まる前筑後守源重貞が、「謀反の源氏等」(義仲与党)の越前入りを報ずる(「吉記」同日条)。重貞は、美濃を本拠とする清和源氏満政流で、平家方についたのは、保元の乱後、為朝を捕らえた功により右衛門尉に任じられ、このため源氏一族から疎外されたため。
越前国内では、反乱を起こした中小武士と白山宮越前馬場を構成する平泉寺・豊原寺及びその堂衆・神人集団の「兵僧」連合が進み、大きな軍事集団が形成されつつあり、義仲を盟主に戴く方向に向かう。
3月21日
・九州の菊池氏はまだ降伏していないが、追討軍は「すでに国を管し、公私物を点定(てんじよう、財産・物品などを調べて没収または徴発すること)するのほか他に営み無し」と、肥後の国衙を占拠し国内の収奪に余念がない。
3月1日の飛脚も「追討使貞能すでに国務を押取り、目代を逐出し了んぬ」と報じる(「吉記」3月30日条)
3月22日
・「従儀師相慶来たり語りて云ふ。宰相阿闍梨忠円一日ころ餓死し了んぬと云々。大略日々の事と為すといへども、有職以上は他に異なる。仍りて之を注す。」(「吉記」同日条)。餓死は毎日の事だが、社会の上層部にも餓死者がでたので、特記された。
3月25日
・「今夜火あり、押小路高倉なり。近日強盗火事、連日連夜の事なり。天下の運已に尽くるか。死骸道路に充満す。悲しむべし、悲しむべし。」(「「吉記」同日条」)。
3月26日
・「戌刻許り新中納言実守亭[大炊御門高倉、半作]焼亡、大宮御同宿有りと云々。然るべき家連々この難あり、まことに、あやしむべき時なり。定めてこれ放火ならんか。」(「「吉記」同日条」)。
つづく
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