治承5/養和元(1181)年
9月1日
・通盛の軍勢は越前国府(福井県越前市)に入る。追討使派遣を知った木曽義仲は、根井行親を総大将とする軍勢を加賀国から越前国に進出させた。
6日、越前・加賀の国境で平氏の家人平内兵衛尉清家(へいないひょうえのじょうきよいえ)と義仲の部将根井行親の軍勢が衝突。合戦は、越前国在庁官人稲津新介実澄(いなづしんすけさねずみ)と白山従儀師最命(はくさんじゅぎしさいみょう)が追討使に属して進発したにもかかわらず、戦場で根井行親方に渡返ったことで、追討使は退却に追い込まれた。
敗走する追討使の軍勢は越前国府で後詰めをしていた平通盛の本隊も巻き込んで総崩れとなり、敦賀城(敦賀市)まで退く。10日には通盛が敦賀城に籠城しているとの報告が京都に届く。
12日、敦賀城は落城し、通盛は山林に潜んだとの続報が届く(「玉葉」)。
義和元年の北陸道追討は通盛の退却によって終わり、平経正が駐屯している若狭国が平氏政権の勢力圏の東端となった。若狭国を維持しているかぎり、山陰道からの船便による年貢輸送はかろうじて維持された。日本海側の海上輸送は、ぎりぎり確保されている状況になった。
新介実澄は越前斎藤氏の一族、同氏は越前平野に散開し、疋田系と河合系に別れて発展した。在地に強い基盤を築いたのは河合系で、新介実澄は河合系に属する。
白山平泉寺長吏は平泉寺の責任者で、長吏の地位は斎藤一族が世襲していたので、斎明も河合系である。
「伝聞、通盛朝臣、越前・加賀の国人等の為頗る敗られをはんぬ。すでに上洛を企つと。・・・また聞く・・・熊野の湛増、使人に付け書札を院に進す。これ関東に向かうと雖も、全く謀叛の儀に非ず。公の奉為、僻事有るべからずと。」(「玉葉」同9日条)。
「通盛朝臣の軍兵、・・・津留賀城に引き籠もり、軍兵を副うべきの由を申す。仍って武士等を遣わさんと欲すと。」(「玉葉」同10日条)。
「当国住人新介実澄・前従儀師最命検非違使友実弟等、はじめ官軍として発向のところ、たちまち逆徒に同意し、後ろより攻め入るの由、通盛朝臣郎従宗たる者八十余人打ち出され了んぬ、戦い已に敗る、時に通盛朝臣なお国府に在り、無勢により、重ねて寄せ攻むことあたわず、敦賀に引き退き了んぬ」(『吉記』)
9月4日
・藤原定家(20)、後白河院の供花会に参仕
9月6日
・「鎮西の謀反殊に甚だし。菊池と原田と元は怨敵と雖も、すでに和平し、同心し貞能を訪わんと欲す。貞能備中の国に逗留し、兵粮米を望み申すと。」(「玉葉」同日条)。
9月7日
・下野の藤姓足利俊綱追討軍、和田義盛の弟義茂を大将として鎌倉を出発(三浦義連・葛西清重・宇佐美実政)。
13日、足利俊綱、家臣桐生六郎に討たれる。
16日、桐生六郎、俊綱の首を持参するも鎌倉に入れず。藤姓足利七郎有綱、首実検の為に下河辺四郎政義を召すべと進言。
18日、桐生六郎、御家人に加えて欲しいと懇願するが、主人殺しの廉により梶原景時が俊綱の首の傍らに梟する。俊綱所領は没収されるが、妻子の邸宅・家財は安堵。俊綱郎党には、鎌倉に帰順を示す者は罰せずと沙汰。(「吾妻鏡」)
「従五位下藤原俊綱(字足利の太郎)は、武蔵の守秀郷朝臣の後胤、鎮守府将軍兼阿波の守兼光六代の孫、散位家綱が男なり。数千町を領掌し、郡内の棟梁たるなり。而るに去る仁安年中、或る女性の凶害に依って、下野の国足利庄の領主職を得替す。仍って平家小松内府、この所を新田の冠者義重に賜うの間、俊綱上洛せしめ、愁い申すの時返されをはんぬ。爾より以降、その恩に酬いんが為、近年平家に属かしむの上、嫡男又太郎忠綱、三郎先生義廣に同意す。これ等の事に依って、武衛の御方に参らず。武衛また頻りに咎め思し食すの間、和田の次郎義茂に仰せ、俊綱追討の御書を下さる。」(「吾妻鏡」同日記)。
「和田の次郎義茂が飛脚、下野の国より参る。申して云く、義茂未到の以前、俊綱専一の者桐生の六郎、隠れ忠を顕わさんが為、主人を斬りて深山に籠もる。捜し求めるの処、御使いの由を聞き、始めて陣内に入来す。」(「吾妻鏡」同13日記)。
「桐生の六郎俊綱が首を持参す。・・・而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。・・・」(「吾妻鏡」同16日記)。
「桐生の六郎梶原平三を以て申して云く、この賞に依って御家人に列すべしと。而るに譜第の主人を誅すこと、造意の企て尤も不当なり。一旦と雖も賞翫に足らず。早く誅すべきの由仰せらる。景時則ち俊綱が首の傍に梟けをはんぬ。次いで俊綱遺領等の事、その沙汰有り。所領に於いては収公す。妻子等に至りては、本宅・資財の安堵せしむべきの旨これを定めらる。その趣を御下文に載せ、和田の次郎が許に遣わさると。下す・・・俊綱の子息郎従たりと雖も、御方に参向する輩を罰すべからざる事 ・・・」(「吾妻鏡」同18日記)。
9月21日
・源頼政の郎党埴生盛兼と以仁王の側近藤原宗綱が、京都の街に潜んでいるところを発見される。宗盛の派遣した軍兵を見た盛兼は自害し、宗綱は捕縛された。義仲の進撃を知って、平氏政権は洛中の警固を強化していた。
藤原宗綱は相少納言の異名を持ち、観相(人相術)に通じており、かつて以仁王に皇帝になる相が表れていると占ったことのある人物。
「後聞、故頼政法師郎等彌太郎盛兼嫌疑の事有り(故三條宮の間の事と)。前の按察侍家に於いて、前の幕下武士を遣わし、搦めんと欲するの間、件の盛兼自殺死す(喉笛を掻き切る)。また前の少納言宗綱入道前の按察の許より搦め出さると。未曾有の事なり。」(「玉葉」同日条)。
9月27日
・平行盛を総大将とした北陸道追討使が進発。敦賀は義仲の勢力圏となっているので、通盛の救出と近江国北端の交通の要衝を抑えて、北陸道から攻め込まれないように備えるため。
11月21日、通盛と行盛は京都に戻る。敦賀を落とした根井行親の軍勢が近江国に入ってこないことを確認した後に引き上げたと推測される。
〈若狭湾は平氏の海〉
平通盛が援軍を求める使者を派遣した若狭国には、平経正が500騎の軍勢を率いて派遣されていた。平通盛・行盛が帰洛しても、平経正は若狭国府に留まって国内を抑えていたという。若狭国の知行国主を経正の父平経盛、国守を弟の平経俊が勤めている。平経盛と若狭国の在庁宮人との関係は治承寿水の内乱以前から形成されているので、治承4年11月の段階で「若狭国経盛卿吏務を掌にす有勢の在庁、江州に与力し了んぬ」(『玉葉』)という噂が京都に流れたが、稲葉時定以下の有力在庁が平氏政権側に留まる姿勢は変わらなかった。根井行親が敦賀で進撃を止めたのは、急派された平行盛が敦賀と京・近江を結ぶ街道筋を抑え、若狭国では知行国主平経盛の権威が維持されていたためと思われる。平氏が倶利伽羅峠の戦いで総崩れになる寿永2年まで、敦賀津が木曽義仲の勢力の先端となる。
9月27日
・「民部大夫成良平家の使として、伊豫の国に乱入す。而るに河野の四郎以下の在廰等、異心有るに依って合戦に及ぶ。河野頗る雌伏す。これ無勢の故かと。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月27日
・藤原定家(20)、父俊成に連れられ式子内親王のところに行く。この年正月3日についで二度目。
「天晴ル。入道殿、例ノ如クニ引率シ、萱ノ御所斎院ニ参ゼシメ給フ。御弾筝ノ事アリト云々」(「明月記)。
「例ノ如ク」であり、以前にもその例があった筈だが、欠落か、判然としない。破格にも筝を弾いて聞かせているが、これは内親王が定家(従五位上侍従という低い官位)を前途有望な歌人として召し出そうと考えていたと推測される。
9月28日
・第2次追討軍。大将平教経(教盛の息子)・副将平行盛、平忠度も加わり源義仲追討に北陸道へ向う。
9月28日
・「伝聞、熊野の法師原、一同反きをはんぬ。鹿背山を切り塞ぐ。これに因って、頼盛卿追討使として下向すべきの由、仰せ下されをはんぬ(紀伊の国、彼の卿知行たり)。」(「玉葉」同日条)。
9月30日
・大外記清原頼業(よりなり)が兼実のもとに来て語る。一昨日宗盛から使者が来て、宗盛本人にもあった。「天下の事今に於いては武力叶ふべからず、何れの謀略を廻らすべきや」として、伊勢神宮の臨時祭の実施や「阿育王の例に任せ、八万四千基塔を造らるるはいかに」、その外行うべきものがあれば、計らいすべし、と問われたという。戦線が膠着しているこの期間、和平をも選択肢としていた。
つづく
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