2022年9月27日火曜日

〈藤原定家の時代131〉養和2/寿永元(1182)年2月8日~26日 頼朝、伊勢大神宮へ願書奏上 「伝へ聞く、五条河原辺りにて卅才[ママ]許りの童、死人を食すと云々。人、人を食す、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事となすにより、愁ひてこれを注す。後に或る説を聞くに、その実事なしと云々。」(「吉記」)   

 



養和2/寿永元(1182)年

2月8日

・源頼朝、伊勢大神宮へ願書奏上。

平清盛の暴政や熊野衆徒の伊勢大神宮への暴行に対し、朝敵討伐し後白河院の仁政成就を助けると訴え、「たとひ平家といへども、源氏といへども、不義をば罰し、忠臣をば賞したまへ」(「吾妻鏡」)。

平家であろうと源氏であろうと、忠臣・器量のある者が、朝廷の武力守護者(将軍)となるべきという儒教(孔子)による「天下」思想。頼朝乳母の甥三善康信(義信)が草案作成。

2月8日

・この日、基房が皇嘉門院領の相続について横やり。

最勝金剛院の知行について、女院の仮名消息と荘園目録を提出して、自分に権利があると訴えを起こす。皇嘉門院聖子の父忠通と母宗子の仏事がおこなわれる最勝金剛院は、父祖の菩提を弔う女院とその後継者たる兼実にとって最も重要な施設であり、20ヶ所に近い所領も付属していた。基房はこれ以前、最勝金剛院領以下の所領を自分に譲るように聖子に迫り、認めさせていて、このことを根拠に、最勝金剛院の知行を主張した。

しかし、聖子は基房失脚後の治承4年5月11日、譲状を書き直してすべてを良通に譲り、兼実の生存中は兼実が沙汰するようにと命じていた。そのうえ、彼女は亡くなる前、その譲状を後白河院に進上し、院の承認を獲得していた(養和元年9月20日条)。養和2年の段階で基房は摂関ではなかった。

3月1日、兼実が頭弁平親宗に尋ねたところ、この件は、すでに皇嘉門院からも話があったことであり、今さら沙汰に及ばない。基房の訴えは受け入れられないだろう、とのことであった。兼実・基房兄弟の亀裂は再び深まっていく。

2月14日

・源頼朝(36)、妻政子の懐妊により伊東祐親を赦免するも自害(「吾妻鏡」同日条)。

2月17日

・仁和寺転輪院の修二会(二月に国家の隆昌を祈る法会)に担当公卿として参加した参議左大弁の吉田経房が事務を執り行う僧から聞いたこと。

当院は近々有名無実のありさま、内裏からは一切人が来ない、諸国の御封(みふう、封戸として与えられた租庸調)はみな未納や収取に苦労し、法会などとても行い難いと言っても費用援助はない。式日は違わず行うべしと命じられるので、かたちばかり行っている。荘園なく兵士(ひようじ、年貢の運搬人夫)もない、わずかに納入が渋滞する御封ばかりである、と(「吉記」)。

2月22日

「伝へ聞く、五条河原辺りにて卅才[ママ]許りの童、死人を食すと云々。人、人を食す、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事となすにより、愁ひてこれを注す。後に或る説を聞くに、その実事なしと云々。」(「吉記」同日条)。

2月23日

・故藤原成親の旧妻宅に群盗が乱入、隣家が騒いだので、賊が矢を放ち侍一人が射殺される(「吉記」同日条)。

2月23日

・地震あり。

2月25日

・平教盛、木曾義仲追討のため北陸道に派遣計画。飢饉や疫病流行のため実現せず。

2月25日

・九州の菊池隆直が「すでに落ち了んぬ」「城中大いに焼死」したとの噂が流れるが、誤報とわかる(「吉記」)

2月26日

「二月廿六日丁卯。天晴る。この間天下に飢饉・強盗・引裸(剥カ)・焼亡、毎日毎夜の事なり。あげて計(かぞ)ふべからず。清水寺橋下に二十余許りある童、少童を食□(欠字)見せしむと云々、人あひ喰ふの文、すでに顕然なり。また犬斃るをまた犬食ふ、これ飢饉の徴(しるし)なり、希代の事なり」(「養和二年記」同日条)


つづく




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