2022年9月16日金曜日

〈藤原定家の時代120〉治承5/養和元(1181)年3月17日~4月21日 定家(20)『初学百首』 北条義時(19)、頼朝の寝所祇候衆(「江間四郎」の初出) 肥後の菊池隆直追討院宣    

 


〈藤原定家の時代119〉治承5/養和元(1181)年3月1日~10日 「院並びに八条院(八条院に御す)に初参す」(「明月記」) 美濃墨俣川の合戦 重衡の追討軍、行家の源氏軍を破る 朝廷側は西三河までを勢力圏として確保 より続く

治承5/養和元(1181)年

3月17日

・藤原秀衝が軍を率いて白河の関を越えたとの風説とぶ。

「伝聞、秀平頼朝を責めんが為、軍兵二万余騎、白河の関の外に出る。・・・但しこれ等の事、信を取り難し。」(「玉葉」同日条)。

3月21日

・「東西の国に乱有り、水干損極まりなし。」(「玉葉」同日条)。

3月21日

・皇嘉門院聖子の九条の御所、再び炎上。彼女は九条堂(証真如院)に隣接する御堂御所に入る。だが、翌日、御堂御所は外壁が完全でないということで、さらに側近藤原頼輔の南直盧(宿所)に移転。

3月26日

・平時基(ときもと)、備前守(「備前守平時基」の下に「重衡朝臣知行、国司を申し改む」とある)。

後白河院は院分国(いんぶんこく、上皇や女院・皇后宮等に国守を推挙する権利を与える知行国類似の制度)をそれまでの伊予から備前に変更し、近習の高階信章(のぶあきら)を国守に起用しようとした。しかし宗盛が、重衡が備前の「国務」を執る(知行国主になる)べきだと申し、結局院は以前のように伊予を知行することにした。それで備前守が信章から平時基に変更され、信章は伊予守に移る。備前は重衝の前任の知行国主が舅の藤原邦綱であるから、その権益を引き継ごうとしたのだろう。


4月

・平頼盛が比叡山の僧侶と共謀して平宗盛を夜討ちするとの落書。

・平宗盛、佐竹隆義に従五位下・常陸介・源頼朝追討院宣を与える。

・藤原定家(20)、百首歌(「養和百首」)を詠む(定家が試みた最初の百首、『初学百首』)。父俊成は恐らく定家の才能を確信したと思われる。

「出づる日のおなじひかりに四方の海の波にもけふや春は立つらむ」

「天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ」"

4月1日

・藤原隆信(定家の異父兄)、従四位上に叙任。

「夜前下名、隆信(昨夜)、師兼朝臣、従四位上に叙す」(「明月記」同日条)。

4月7日

・「御家人等の中、殊に弓箭に達するの者、また御隔心無きの輩を選び、毎夜御寝所の近辺に候すべきの由定めらると。

北条義時(19)、頼朝の寝所祇候衆(しんじょしこうしゅう)に加えられる(江間姓の初出)

頼朝は、(略)直属の軍事集団を構築しようとした。(略)御家人のなかから「弓箭に達する者」で、かつ「御隔心無きの輩」十一人を選び、毎夜、寝所の近辺に祇候するよう命じた

江間四郎(義時)  下河辺庄司行平  結城七郎朝光  和田次郎義茂

梶原源太景季    宇佐見平次実政 榛谷四郎重朝  葛西三郎清重

三浦十郎義連   千葉太郎胤正   八田太郎知重

頼朝の挙兵に従ってから、かれは父時政とともに行動しており、北条時政に続いて記述されるなかで、「同四郎」と記載される。ところが養和元年(一一八一)四月七日条は、義時が単独で記述される初見でもあるが、・・・・・「江間四郎」と記載され・・・・・。以後、「江馬四郎」と記載されることが急に多くなってくる。・・・・・

「江間」の地は伊東祐親に近しい江間氏の所領であったし、その江間氏は、平家方に与して加賀国篠原の戦いで敗死した・・・・・。真名本『曾我物語』の記述によれば、江間氏の没落によって、「江間」の地は義時に与えられたと考えざるをえない。義時が、頼朝の寝所祇候衆に登用された時から「江間」姓で記載されるようになるのも象徴的であり、頼朝から「江間」の地を与えられたことさえ推測できる。宗時の亡き後、義時が北条氏の後継者から外された環境こそ、新たに「江間」家を創設する背景だったのではないだろうか。

「江間の四郎 下河邊庄司行平 結城の七郎朝光 和田の次郎義茂 梶原源太景季 宇佐美の平次實政 榛谷の四郎重朝 葛西の三郎清重 三浦の十郎義連 千葉の太郎胤正 八田の太郎知重」(「吾妻鏡」)。

4月9日

・「坂東の武者、すでに尾張の国に来たると。」(「玉葉」同日条)。

「坂東の武者等、すでに三河の国に越え来たると。」(「玉葉」同11日条)。

4月10日

・原田四郎大夫種直、太宰府少弐に補任。

4月14日

・宇佐大宮司公通、太宰府攻撃をうけ注進し、肥後の菊池隆直追討院宣が下る。平宗盛、追討使を受け、平貞能が肥後・筑前・筑後へ下向。平家軍2千余と原田四郎大夫種直(太宰府少弐に任命)、備中で兵糧不足で立ち往生。肥後で「公私物」取ったと知行国主経房に訴えられる。

4月16日

・藤原定家(20)、発熱、〈前後覚エズ〉。

4月21日

・源頼朝(35)が奥州藤原秀衡の娘を娶る約諾ありとの風聞(「玉葉」同日条)。


つづく

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