治承5/養和元(1181)年
2月
この月
・2月に入ると、各地から源氏やその与党の蜂起を伝える飛脚が次々と到来しはじめる。信濃の木曽義仲、尾張の源行家、河内の源道基(みちもと)・義兼(よしかね)父子、鎮西(豊後)の緒方三郎維義をはじめ臼杵、戸次(へつぎ)、松浦党、伊予の河野通清(みちはる)・通信父子、もと平家方であった熊野別当湛増と、反平氏の勢力は「日を逐って興盛」となってきた。
・志太義広、鹿島社領侵入。
・平季貞と摂津判官盛澄、河内石川郡石川の石川家の源義基を攻撃、討死させる。
飛脚到来(「平家物語」巻6):
2月9日 河内石河郡の武蔵権守入道義基の子の石河判官代義兼が頼朝につきそうだったので、大将に源大夫判官季貞(すえさだ)・摂津判官盛澄とする討手を派遣。義基は討死、義兼は重傷を負い捕縛。
12日、九州から緒方三郎、臼杵、戸次(へつぎ)、松浦(まつら)らが源氏についたとの飛脚が着く。
14日、伊予からの飛脚は四国が全て源氏についたと知らせる。
2月1日
・源行家が美濃国に攻め込もうと数万の軍勢を率いて尾張国に入ったが、追討使は近江・美濃の合戦に疲れていて、しばらく動かないという情報を九条兼実は皇嘉門院御所で聞く。追討使は、美濃蒲倉城を落としたことで美濃から近江への入口を塞いでいる。源行家が美濃国に攻め込んでくるまでは、積極的に仕掛けないという構えでる。
この日、平知盛の軍勢は小嶋庄の城郭(岐阜県揖斐川町)を攻め落とし、蒲倉城から退いた池田奉光(ともみつ)を討ち取った。この時、池田氏の一族郎党134人が討ち死にし、美濃国にいた源頼政の残党は潰えた。この合戦を生き残った源頼兼は、寿永2年(1183)の木曽義仲上洛戦に参加し、大内守護の役職に復帰する。
この合戦を最後に、平知盛は帰洛し、追討使の総大将は平重衡に交代する。
2月1日
・足利義兼(源姓足利氏)、北条時政2女時子(政子・義時の妹)と結婚。頼朝と義兄弟の関係。(母親同士も姉妹)
「足利の三郎義兼北條殿の息女を嫁す。また加々美の次郎長清上総権の介廣常の聟と為る。両人共穏便を存じ忠貞を挿む。御気色快然の余り、別の仰せに依って今この儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月6日
・京中の在家(ざいけ)の調査を行い、兵士役や兵粮米に充当する課役を賦課することを計画。また、行家に備えるため伊勢や美濃で船を点定。
2月6日
・藤原定家(20)、中宮徳子の高倉院仏事に参仕
11日、高倉院四七仏事に参仕。この日より諒闇装束を着る。以後、七日毎の仏事に参仕。
徳大寺公衡と清談し無常を共に悲しむ(「明月記」)。
2月7日
・行家の反乱軍が尾張国に進出したとの情報がもたらされ、惣官宗盛のもとで戦闘準備が進められる。この日、富裕者に対して兵粮米を賦課する目的で、左右京職(きようしき)の官人や検非違使に京中在家の調査を命じる宣旨が出され、また伊勢・美濃両国に対して、荘園・国衙領を論ぜず水手(かこ)・雑船・兵粮を徴発して、美濃・尾張国境 の墨俣渡(すのまたのわたし)に送ることを命じる宣旨が発給された。
伊勢国内の伊勢神宮領では、2月24日、水手298人と雑船48艘、兵粮米の徴発が完了し、そのうち45艘が墨俣渡に送られた。
2月7日
・越中前司平盛俊を「丹波国諸荘園総下司」に任命。
2月15日
・「伝聞、鎮西謀叛の輩、日を追って興盛す。太宰府を焼き払いをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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