治承5/養和元(1181)年
1月16日
・越後の城資長に源頼朝(源義仲)追討の宣旨。
17日、奥州藤原秀衡に源頼朝追討の宣旨。
「左少弁行隆来たりて云く、諸国の勇士、併せて謀叛の心有り。仍って先ず五畿内、及び近江・伊賀・伊勢・丹波等の国、武士を補し以て遠国の凶徒を禦がるべきの由、故院仰せ置かると。」(「玉葉」同日条)。
1月17日
・後白河法皇、清盛に請われ院政を再開。清盛の権力の制限付き。
1月18日
・この日付け『玉葉』に、美濃国で土岐光長の城を攻め落としたという追討使の報告が記録されている。土岐氏の本拠地は美濃国土岐郡(土岐市・多治見市)なので、この城は土岐光長が近江・美濃の国境に構えた要害と思われる。
20日、知盛が率いる追討使は、源頼政の弟池田奉政の子奉光が守る蒲倉(かまくら)城(大垣市)を攻め落とす。
更に、2月1日、池田一族が次に籠もった小嶋庄(揖斐郡揖斐川町)の城郭も攻め落とし、奉光はこの合戦で戦死する。
これらの合戦は、頼政が滅亡した後も、その縁者が戦いを続けていたことを示している。頼兼の名前は出てこないが、彼は宇治合戦後に東山道に逃れているので、土岐氏や池田氏と行動を共にしていたと見られる。義仲や頼朝が頼兼を頼政の正当な後継者と認め、大内守護の継承を承認することになる。
「伝聞、官兵等美乃の国に入り、光長城を攻む。相互に死者多し。遂に光長が首を梟すと。彼の国の源氏等、光長の外、党類幾ばくならずと。」(「玉葉」18日条)。
「美濃の国の逆徒等、討伐せられをはんぬ(蒲倉城に籠もり、悉く誅せられをはんぬと)。件の事、去る二十日の事と。官軍疵を被るの者、数十人に及ぶ。」(「玉葉」25日条)。
1月20日
・藤原定家(20)、高倉院初七日仏事に参仕
前年12月に定家は俊成の命により出仕を止められており、没後6日にようやく院の御所に赴き49日迄の仏事を勤める(俊成は定家が高倉院没にのめり込み出家することを危惧していた)。
1月25日
・平清盛の娘(18、母は厳島典侍、御子姫君)、後白河院の後宮に入る(冷泉局れいぜいのつぼね)。
「凡そ思慮の及ぶ所に非ず、指を弾いて余りあり。実に心浮き世なり…」(「玉葉」正月20日条)。
「禅門(清盛)の女、法皇に参るの間、種々の事などありと、云々。天下の災難奇異は、ただ近日にあり。漢家、本朝、往古来、比類なきの世なり」(「玉葉」2月3日条)。
しかし、法皇は御子姫君付きの上臈女房に手をつける始末(「明月記」12月5日条)。御子姫君は入内後間もなく没(「源平盛衰記」)。
廻文(めぐらしぶみ、「平家物語」巻6):
清盛は、小督を尼にして追放する等の無情の振る舞いの償いの為か、後白河院に安芸の厳島内侍が生んだ娘を差し出す。高倉上皇没して27日も過ぎない内にこんなことは良くないと人々は囁く。
1月27日
・皇嘉門院・兼実の御所がある東九条の近辺に武士の宿館を建てるので、土地の一部を郎従に賜りたいとの申し出(事実上の命令)。清盛は還都後、宇治や奈良からの敵襲に備え、六波羅や西八条についで京都南部の八条河原・九条末(すえ)に軍事拠点を構築しようとしていた。宗盛が新造した御堂のあったところに、清盛・宗盛が居住するものといわれており、いよいよ宗盛が中心的な地位を占めつつあったことがうかがえる。
1月28日
・源行家、尾張に入り、美濃の官兵と合戦。美濃の官兵、兵糧尽き苦戦。
「伝聞、謀叛の賊源義俊(為義子、十郎蔵人と号すと)、数万の軍兵を率い尾張の国に超え来たる。官兵両度の合戦に疲れ、暫く近江・美濃の辺に休息す。忽ち寄せ戦うべからずと。 」(「玉葉」2月1日条)。
つづく
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