2022年11月1日火曜日

〈藤原定家の時代166〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(④) 義仲ゆかりの者たちのその後 ①義高と大姫

 

大姫(落井実結子)、源義高(市川染五郎)、北条政子(小池栄子)
ドラマ公式サイトより


寿永3/元暦元(1184)年
1月20日(④)

〈義仲ゆかりの者たちのその後 義高と大姫〉

寿永2年(1183)の上洛戦にあたり、義仲は頼朝との和議を実現させるため、嫡子義高(11歳)を頼朝の娘大姫の婿として鎌倉に送った。この時代、都市住民の王朝貴族や武家の上層部はまだ婿入婚であった。藤原道長が「をのこ(男)はめ(妻)がらなり」(『栄華物語』)と言ったように、京都の宮廷社会で生きる貴族や政権首脳部に入る武家の上層部では、嫡子の決定に母方の家柄や権勢が強い影響を与えた。

頼朝から見ると、志水冠者義高は人質ではあるが、家と家の婚礼として見れば、婿入りは対等な結婚である。義高は、一面において軟禁状態の人質、一面において長女の夫、将来においては鎌倉の有力者になるかもしれない賓客であった。

この状況は、義仲の滅亡によって一変する。

義仲滅亡から3ヵ月、頼朝は側近に謀反人義仲の子を今後どのように扱っていいかわからない、謀殺も考えていると相談した。この言葉は、御所に仕える女房から大姫に伝わった。大姫は、義高を逃がそうと手筈を調え、信濃国から同行した側近海野幸氏(うんのゆきうじ)を身代わりとして御所に残し、上野国に向けて出奔させた。頼朝が本気で義高謀殺を考えたのなら、梶原景時のような謀臣と図ったはずである。義高を脱走させるために、頼朝は話の内容が大姫に伝わるであろう人物を選んで相談した可能性が高い。
元暦元年(1184)4月26日、志水義高は入間河原(狭山市)で堀親家に追いつかれ、殺害された。鎌倉街道上道を北上して入間川まで進んだとしたら、先には重代の郎党多胡氏の旧領上野国多胡庄がある。義仲最期の日に、最後の5騎になるまで従った多胡家兼の本拠地である。義高は上野国まで逃げれば義仲の旧臣がかくまってくれると考えたと思われる。堀親家が捕らえることができたのは、頼朝が想定した逃走経路だったからだろう。

5月1日、頼朝は甲斐・信濃に残っている義仲残党を討伐すべく、足利義兼・小笠原長清らに出陣を命じ、義仲の本拠地に残る残党は掃討された。この後、信濃守に頼朝が信頼をおく甲斐源氏の加賀美遠光を推挙し、目代には乳母の一族比企能員を任命した。

一方、義高の悲報を聞いた大姫は、「愁歎の余り、漿水(しようすい)を断たしむ」(『吾妻鏡』)という行動にでた。大姫の負った心の傷は深く、彼女の心は一生癒えることがなかった。頼朝夫妻は、その償いに苦しむことになる。

建久年間(1190~99)、頼朝と政子は、大姫を慰めるために、後鳥羽天皇の后として入内させることを考えだした。頼朝は、この交渉を源通親と高階栄子(丹後局)に託した。この二人は、頼朝が後白河院に対抗するため協調してきた関白九条兼実の政敵である。

源通親は、頼朝が大姫入内問題で協力を求めてきたことを好機と捉える。頼朝が静観することを確認した源通親は、兼実を関白の座から追い落とすべく建久7年(1196)11月に政変を起こした。続いて、通親は建久9年に後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位を実現し、後鳥羽院政が始まる。

その間、大姫の入内は結局実現せず、彼女は建久8年に病没する。

大切な娘の心を深く傷つけた代償は、10年にわたる京都での権力抗争の敗北であった。大姫入内問題から建久7年の政変にいたる政治は、頼朝晩年の失敗と評価されている。彼はその間に当の娘までも失ってしまった。


つづく

関連記事


0 件のコメント: