2024年6月2日日曜日

大杉栄とその時代年表(149) 1895(明治28)年5月5日~10日 一葉「ゆく雲」制作(博文館大橋乙羽の依頼) 上田敏が初めて一葉を訪問 「上田君名は敏、帝国大学文科生にして帝国文学の編集人なるよし、温厚にして沈着なる人がらよき人也」 海軍大将樺山資紀、台湾総督兼軍務司令官    

 

上田敏

大杉栄とその時代年表(148) 1895(明治28)年5月1日~4日 変法運動展開 生活費の工面に苦心する一葉 孤蝶に慕われる一葉 子規、金州で鴎外を訪問 遼東半島全面放棄決定 より続く

1895(明治28)年

5月5日

一葉の母たきが、兄虎之助のところへ金を少し貰いに行く。

4月12日頃までに博文館支配人大橋乙羽の依頼を受けて「ゆく雲」制作、5月5日発行『太陽』(博文館刊行)第5号に掲載。

明治27年末、一葉は「暗夜」などを博文館の小説叢書「明治文庫」に入れてもらおうと平田禿木にその交渉を打診。一方、龍泉寺を離れる前に、小説発表に桃水の助力を得ようと訪ねる。桃水からも博文館の大橋乙羽に一葉の意志が伝えられる。

博文館は日清戦争戦勝を機に新企画「文藝倶楽部」「太陽」「少年世界」を発行することになり、一葉にも企画の執筆に加わってもらうことにした。3雑誌の支配人で、前年12月に館主大橋佐平の娘時子と結婚したばかりの乙羽(旧姓渡辺、本名又太郎、もと硯友社所属の作家)が丸山福山町から程近い戸崎町に新居を設けていたこともあって、明治28年3月、彼女との接触にあたった。

依頼をうけた一葉は「たけくらべ」の続編の着手を大幅に遅らせて「文藝倶楽部」に寄稿する目的でまず「ゆく雲」を完成、乙羽がそれを「太陽」第5号に掲載した

主人公お縫の生い立ち。「二葉の新芽に雪霜のふりかゝりて、これでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪へて真直ぐに延びたつ事人間わざに叶ふまじ。」


5月6日
一葉は安達家へ前日書いた額を持参する。盛貞は満足気。一葉の名はときおり新聞で目にするようになり、もしこれを一葉の亡父が見ていたらどれほど喜んだろうか、とほろほろと泣く。

小出粲『くちなしの花』批判;

粲はまさしく知恵の人である。いつも〈和歌を作ろうとお思いなさるな。思いついたままをお詠みなさい。人智には限界がある。天地には限りがない。〉というくせに、粲の歌にも知恵があるのは情けない。強いて子供っぽくなるのは、本当にその心でなければどうしようもない。粲の歌には幽玄の境を極めるにはまだ百里離れていて、

     富士の峰の歌に曰く

《ひとたびはのぼらんものとむかしよりみるたびごとにおもふふじのね》

これなど心根は既に幼くない。無欲世界に到るなど、この人の身でどうしてできようか。智恵は少し人智をほのめかして、天真爛漫に近いようにみせただけである。

5月7日

漱石の友人橋本左五郎(札幌農学校助教授)は、畜産と畜産製造学研究のためドイツに留学を命ぜられ、7月20日、東京を出発。ドイツのプロイセンハレ大学に留学、細菌学の研究に従事する。泥炭地に関する調査を北海道庁から委嘱される。1900(明治33)年4月からドイツ・フランス・イギリス・アメリカで畜産学上の調査に従事して、1900年6月25日帰国。8月7日、札幌農学校教授に任ぜられる。

1904年、乳糖結晶の研究に着手。1907年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改組され、東北帝国大学農科大学教授に任命される。

5月7日

一葉の母たき、血の道で苦しむ。午前中、以前隣にあった銘酒屋浦島やの妻が来て手紙の代筆を頼むので書いてやる。

午後、禿木・孤蝶と共に、上田敏が初めて来訪。酒はないが、鮨を囲んで談論風発。今宵から、孤蝶は中等学校英語教員試験、禿木は東京高等師範学校英語専修科入学試験にかかる。上田は、帝国大学文科生でいながら「帝国文学」の編集者である。萩の舎の姉弟子の乙骨牧子のいとこと聞いて大変親しみを感じる。先日の訪問の際、禿木が無礼なことをして一葉を怒らせたのではないかと気を揉み、一人で行けないから一緒に行ってくれと自分を誘ったのだと孤蝶が言うと、そんなことはないと禿木は強く否定し、いささか気まずくなる。結局、3人は10時近くに帰宅。

上田敏:

幕末の儒者・乙骨耐軒を祖父に持ち、父が上田家に養子入りした先で長男として生まれた。当時は第一高等中学に在学中で、一葉と初めて会ったのは、明治28年5月7日、孤蝶、禿木と三人で訪ねた時であった。

「まどゐのむしろ酒なけれども酔へるが如く、一さらのすもじをかこみて三人の客が論難評語、わらひつかたりつ、平田ぬしなど横目の苦をみながら忘れぬといふ。こよひを戦の門出として、孤蝶禿木の両君は例のしけんにかゝられんとす。万(よろず)は凱旋の上とて意気すこぶる高し。上田君名は敏、帝国大学文科生にして帝国文学の編集人なるよし、温厚にして沈着なる人がらよき人也(「水の上につ記」明28・5・7)

孤蝶は中等学校英語教員検定試験の受験を控え、禿木は東京高等師範学校英語専修科の受験を準備中。

一さらの鮨を取って、酒もないの酔えるが如くの論戦。

「馬場君袖をかかげ膝をうちて、我れは言はんと欲する所をいふのみ。我れを一葉女史にこぶるものとあやまるなかれ。よきをよきといひ、あしきをあしといふ、もと我がこころ也。太陽第五号にのする所の一篇、ゆく雲を見てよしと思ひしは我がおもひし也。一葉女にこびるならず、と其いふ処さかんなり。平田君は万(よろ)づ言少なにして、恥かし気をつくれるもをかし。馬場君恋をとけば、顔をそむけて、もはや止め給へとくるしげなるも、此人に似ずと、かつはほほゑまれぬ。」

孤蝶は内気な禿木を揶揄する。

「我れはこれより一葉君をとはんと思ヘど、一人にては何となうつつまし。君もろ共に行て罪を謝し給ひてよ、と三拝してたのみしはをかしかり、と馬場君卿に乗じてかたれば、そは偽也、そは偽也、我れはさる事いひし覚えなし、といふ。何覚えなしといふか、その顔を今一度見せよ、この偽りものめ、とさかんなるは孤蝶子也。われは一葉君の我まま息子なれば、此家にては遠慮をせぬに極め居れり、とて膝をくづすも磊落の風、中々にをかしけれど、平田ぬしがおももち常ならず見えぬ。」


5月7日

(露暦4/25)レーニン、ロシアを出てスイス、パリ、ベルリンをまわり亡命マルクス主義者と会う。

5月8日

下関講和条約批准書交換。この日、清国の講和全権李鴻章一行、帰国。

5月8日

一葉、晴天。明日の萩の舎の月次会とかちあったので、野々宮菊子と安井哲子の稽古を今日行う。哲子より松島の硯を貰う。

夜、西村釧之助が刀剣と西郷公の掛軸をを持ってきて、これらを質入れして、相場の取引所へ納める委託証拠金の追加徴収金に充てる金子50円ばかりを得たいという。母たきが同道して伊勢屋に行ったが、鑑定がでないとして金を用意できず。もう10時を過ぎていたが、明日早朝に衣類を持って来れば、伊勢屋を説き伏せて3,40円は借りられるだろうということになり、釧之助は帰る。

5月9日

昨夜の約束通り、早朝に西村礼助が衣類を持参。伊勢屋は22円しか用立てず。西村釧之助も来たため金の不測のことを問えば、どうにかなるとのことで一同安心。10時頃、一葉は萩の舎月次会に行く。

5月10日

子規、旅順の「集仙茶園」という劇場で見た子供芝居に感銘を受ける。(陣中日記)


「中新街といへる処に集仙茶園といぶ額を掲げたるは劇場なり。笛太鼓の拍子漏れ聞えて面白ければそゞろに浮かれて入りて見るに支那の小供芝居とか十余りなる俳優の躍りつ謡(ひ)つする様筋書も知らねばおぼろげにそれかと思ふ許りなり。昼夜二度づゝ毎日興行するに見物は日本人許りなれば大胡船といふもの尤も人気に投じて喝采の声多し。四人の少女柔艫(じうろ)をあやつりて共に歌へば一少年舟中に坐して之に和す。紆余揺曳の妙覚えず恍惚たり。」


5月10日

海軍大将樺山資紀、台湾総督兼軍務司令官に任命。

25日台湾島民、台湾民主国宣言。

29日本軍、台湾上陸。

5月10日

三国干渉により遼東半島返還。5千万円。軍部、一部国民に険悪な空気流れる。

5月10日

漱石、この日付け手紙で狩野亨吉に近況を報告。


「当地着以来、教員及び生徒間との折合もよろしく、只煩鎖(はんさママ)なるに少々閉口致候のみ。日下愛松事と申す城山の山腹に居を卜(ぼく)し、終日昏々俗流と打混じ居候。東京にてあまり御利口連につゝ突かれたる為め、生来の馬鹿が一層馬鹿に相成候様子に御座候。然し馬鹿は馬鹿で推し通すより別の分別無之、只当地にても裏面より故意に疳癪を起さする様な御利口連あらば、一挺の短銃を懐ろにして帰京する決心に御座候。天道自ら悠々、一死狂名を博するも亦一興に御座候。


「当地着後、高等師範生徒より謝状を遣はし候。師弟の関係薄き今日、殊更不肖小生の如き者に対し、斯様の挙動ある事ありがたき次第、世の中は全く見捨たものにも無之候呵々。


「道後温泉は余程立派なる建物にて、八銭出すと三階に上り、茶を飲み菓子を食ひ、湯に入れば頭まで石鹸で洗つて呉れるといふ様な始末、随分結構に御座候。夏は高浜と申す処に海水浴ありて、毎日滊車にて往復出来候よし、其他別に面白き散歩所も無之候。当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候。」


愛松亭:裁判所裏、城山にある下宿屋。前任者カメロン・ジョンソンも住んでいた。主人津田安五郎は骨董屋を業としていた。


つづく


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