2024年6月9日日曜日

大杉栄とその時代年表(156) 1895(明治28)年6月8日~29日 「全編十五回七十五枚斗のものつくらんとす。いまだ筆おもふまゝに動かで、、、」(一葉日記) 子規の容態が安定してくる 台湾総督府始政式(台湾中南部で抗戦続く) 「経づくえ」(『文藝倶楽部』) 

 

旧台湾総督府庁舎1919年竣工

大杉栄とその時代年表(155) 1895(明治28)年6月5日~7日 日本軍、台北占領。台湾民主国、事実上崩壊 〈台湾を巡るこれまでの動き(まとめ)〉 〈日本軍の台北占領後の台湾;台湾民主国の戦いと崩壊〉 より続く

1895(明治28)年

6月8日

ヨハネスバーグとブレトリアから東海岸デラゴア湾マブート迄デラゴア湾鉄道開通。トランスヴァール共和国、海へ出られるようになる。

6月9日

国木田独歩(24)、日清戦争従軍記者として佐々城本支・豊寿夫妻の晩餐会に招待され夫妻の娘信子を知る。

6月9日

一葉日記より

萩の舎例会。午前中に石黒虎子の稽古と野々宮菊子の古今集の講義を終わらせて午後から行く。三宅龍子参加。田中みの子は頭痛激しく途中退席。日の高いうちに帰る。夜、孤蝶来訪。

6月10日

一葉日記より

「小説著作に従事す。全編十五回七十五枚斗のものつくらんとす。いまだ筆おもふまゝに動かでいたづらに母君の叱責をのみうけぬ」

この作品は「にごりえ」に相当すると考えられ、2日の「自伝をものし給ふぺし」との眉山の言葉が、「にごりえ」執筆に働きかけたと推測できる。

来月12日に父則義の七回忌が迫り、博文館の大橋乙羽に渡し30円ほどを得るための分量。但し、このときは成稿せず。

母たきからの叱責を受けるのみである。午後、西村釧之助来訪。

6月11日

井上馨公使、一時帰国。既に5月19日一時帰国申請時、伊藤首相と相談した陸奥外相より更迭の意向を示唆される。明治27年10月末より在任7ヶ月。特に、3国干渉以降、ロシアはじめ欧米列国に追詰められる。ロシア公使ウェーベルは度々王宮に出入り。政府閣僚も日本批判をし、日本の支援で要職についた朴泳孝でさえ井上の意のままに動かなくなる。また、井上の出発を境に、閔妃は、大院君によって流刑になったり地方に隠れ住む閔氏一族(閔泳煥、閔応植ら)をソウルに呼ぶ。親欧米派(欧米諸国の公館・商社の多い貞洞街から「貞洞派」と呼ばれる)の時代となる。

6月11日

午後、一葉の許に孤蝶来訪。日没まで語る。

6月12日

一葉父則義の月命日。田舎饅頭を供える。妹邦子は病気で食欲がないが、それほど重くもない。母たきと若竹亭に小住太夫の義太夫を聞きに行く。留守中に孤蝶来訪。

6月13日

康有為、「第三上書」

6月13日

午後、一葉の許に孤蝶来訪。家には上がらずに帰る。野々宮菊子、安井哲子、木村きん子が稽古に来る。

6月14日

台北の住民、日本軍に対して辜顕栄を使節として迎え入れ、台北は無血開城

6月中旬

子規の容態が安定してくる

6月15日

平安道雲山の鉱業権をアメリカ人モールスに許可。以降、多くの権益が翌年にかけて日本以外に許可。京仁鉄道敷設権(明治27年、日本に許可されたが、着手遅延のため取り消される)をアメリカに。など

6月15日

対外硬派衆議院議員、愛宕館に会合(政友有志会)。軍備拡張・遼東還付の責任追及。朝鮮における日本の地位維持などを決議。

6月15日

一葉日記より

朝、雨。萩の舎稽古。田中みの子は湯治で欠席。午前中に三宅龍子くる。すぐに帰る。午後、車軸を流すが如くの大雨。恐ろしく雷が鳴り、帰り難く、20人ばかりが集まってトランプをする。日没ごろ家に帰る。雨が上がり良い日和となる。

6月15日

フランス領西アフリカ、成立。

6月16日

一葉日記より

家での稽古日。石黒虎子来訪。つぃで野々宮菊子が古今集の講義を聞きに来る。帰宅したのは4時頃で、盆をひっくり返したような大雨になる。家に1銭の貯えなく、家賃も先月から伸ばしているため、西村家を頼ろうと日没に家を出て3円を借りる。変えると孤蝶と眉山が来て、12時までいた。

6月17日

台北で台湾総督府始政式。しかし、中南部における抗戦はますます熾烈になる。

台南をまかされていた劉永福を中心にした台湾民主国軍と漢人系住民義勇兵は、日本軍に対し、高山地帯に立てこもってゲリラ戦で応戦

6月19日、樺山は伊藤首相に「台湾は名義的には日本領土であるが、残留清兵が攻撃をしてくるため外征と変わらない状況なので、台湾に勤める文武諸官員は外征従軍者扱いにしてやってほしい」と、台湾に残存した清国の兵が下関条約に違反して攻撃を仕掛けてきている危険な現状を報告し、台湾勤務者の待遇改善を具申した。伊藤内閣はこれを8月17日付けで承認する。

樺山は「増派しなくとも、近衛師団だけで台南まで陥落できる」と考えていた。しかし、新竹を占領した阪井支隊と台北との間の連絡が、ゲリラ戦の影響で20日以上取れなくなり、ゲリラ戦の主力であった平鎮の抗日軍をおとせず、それに呼応して、台北でも反乱が発生すると、北部の占領にさえ兵力が不足していることが判明し、樺山は南部攻略を先送りにした。

6月17日

~10月7日、一葉日記中断

6月19日

内務大臣,政友有志会の結社を禁止

6月20日

フランス、清朝とギェラール条約を締結。鉄道の延長権と一部地域での鉱山採掘権を獲得。

6月20日

大橋乙羽の依頼により『文藝倶楽部』第6編に「経づくえ」(かつて野尻理作の依頼で「甲陽新報」に掲載したものに手を入れる)を再掲。

大橋乙羽に認められ、1月の創刊以来、川上眉山「大さかづき」(1月)、広津柳浪「変目伝」(2月~3月)、泉鏡花「夜行巡査」などの注目作品を出す『文芸倶楽部』に登場し、文壇作家の地位を確立していく

6月22日

日本軍(阪井支隊)、台湾の新竹を占領

6月25日

漱石、帝国大学書記官清水彦五郎から、帝国大学在学中の貸与金支払い猶予について、申し出の3ヶ月が過ぎたので、月賦返済して貰いたいとの督促を受ける。「兩三月中より月賦にて御返済可致候」と再び書き送る。

6月28日

子規を看病に来ていた母が虚子を伴って松山に帰省

6月29日

台南の文武官100余、血盟して、劉永福将軍(ベトナムで仏軍を大敗させた黒旗軍の統領)を統領に台湾南部の抗戦体制を再建。日本軍は「全台は皆兵の観あり」と歎き、住民は「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」と訴え。

6月下旬

漱石、同僚の中堀貞五郎(地理・物理)の世話で、上野義方の二階建て離れ屋の下宿に転居し「愚陀仏庵」と名付ける(2階が六畳と三畳、階下が六畳と四畳半)。子規が松山に来ることを想定してのものと考えられる。上野夫人タダは、漱石の着物を見たてて買ったりする。経費は、1日30銭以上、1ヶ月9円以上。(松山での二回目の下宿)


つづく

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