2009年6月5日金曜日

鎌倉 宝戒寺 妙隆寺

宝戒寺
もとは北条得宗家(最後のあるじは高時)の屋敷があった場所に、北条一族の霊を鎮める為に後醍醐天皇が足利尊氏に命じて開いたお寺。
建武2年(1335年)、天台宗5代の慈威和尚が開山。正式には金竜山釈満院円頓宝戒寺というそうです。
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参道入ってすぐ左手に、「北条執権邸旧蹟」の碑があります。
「 往時此ノ地ニ北條氏ノ小町亭在リ  義時以後累代ノ執權概ネ皆之ニ住セリ  彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴筵ヲ張リ時ニ田樂法師ニ對シ 列坐ノ宗族巨室ト倶ニ 直垂大口ヲ争ヒ解キテ 纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ  元弘三年新田義貞亂入ノ際灰燼ニ歸ス  今ノ寶戒寺ハ建武二年足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂弔祭ノ為 北條氏ノ菩提寺東勝寺ヲ此ノ亭ノ故址ニ再興シ 以テ其ノ號ヲ改メシモノナリ 大正七年三月建之 鎌倉町青年會」
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宝戒寺
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「宝戒橋」はコチラ
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妙隆寺
説明板にあるように千葉氏の屋敷跡に千葉胤貞が建立。
ふと見れば、このお寺のすぐ隣のお宅の表札は千葉さんでした。偶然なのかどうなのか。
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説明にある「鍋かむり日親」の像。
「万人恐怖」と恐れられた義教ならこれくらいのことはやったどろうと思われる。
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妙隆寺
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「寺社巡りインデックスをご参照下さい。
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秩父困民党群像(1) 秩父自由党の「麒麟児」村上泰治と妻ハン

秩父自由党の「麒麟児」村上泰治と妻ハン
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1.秩父自由党の形成
秩父と神流川を隔てた上州南甘楽郡坂原村の新井愧三郎は、高崎の宮部襄とともに上州自由党の幹部で、明治15年、坂原村には19名の自由党員がいます。
この上州自由党の影響を受けて、明治15年には、秩父にも自由党貝が出現します。
15年11月「自由新聞」は、秩父の入党者として中庭通處(67、通所、蘭渓、下日野沢村、16年9月没)・若林真十郎(20、新井愧三郎の実弟、秩父郡の若林家の養子)を発表します。
明治16年5月の埼玉県警本部が作成した名簿には、秩父の自由党員として若林哲三・福島敬三が付加されていますが、これら秩父の自由党員4名は秩父事件には参加していません(福島は逮捕されるが、取り調べ後放免)。
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「自由新聞」は、明治16年4月6日、村上泰治(17)の入党を発表します(実際の入党はこれ以前と推測される)。
同じ村の同年齢の新井蒔蔵は、17年3月に入党発表されますが、自身は15年9月15日入党と述べており、両者の関係を考慮すると、2人揃っての入党と考えられます。
明治17年には、泰治は宮部から「党中のきりん児」と呼ばれ、秩父自由党の幹事役になっています。
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明治17年秩父蜂起の年、泰治の人生と秩父自由党の方向は大きく転換することになります。
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2.田代栄助の自由党入党申し入れを泰治は拒否
明治17年2月、蜂起では総理に選ばれる田代栄助(50)は、自由党入党を希望し、下日野沢村重木の秩父自由党幹事役村上泰治(17)を訪問しますが、泰治は驕慢な態度で栄助に接しこれを拒絶します。
情勢は、侠客と言われる栄助までもが自由党入党を希望する段階に達していますが、「旦那」自由党員の泰治には、これが理解できていません。
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⇒詳細は、秩父蜂起(2)
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3.秩父自由党の新たな潮流(困民党指導部を形成)
同年3月23日になると、高岸善吉(紺屋の善吉)・坂本宗作(鍛冶屋の宗作)・落合寅市(半ネッコの寅市)・新井紋蔵・斉藤準次・小柏常次郎ら7名の自由党入党が、自由党機関紙「自由新聞」に発表されます(実際には入党はこれより以前)。これらは全て秩父事件参加者です。
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他にも、5月18日には、井上伝蔵・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名の入党が発表され、更に同20日には、新井国蔵ら2名の入党発表されます。
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なかでも、高岸善吉・坂本宗作・落合寅市・小柏常次郎・井上伝蔵らは、初期秩父困民党の指導的中核を形成し、負債農民救済の為の組織活動を情熱的に展開してゆきます。
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⇒詳細は、秩父蜂起(3)
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4.泰治の密偵謀殺、逮捕、入獄、そして獄死
一方の泰治は、同年4月、上州自由党幹部に依頼されて密偵容疑者を謀殺し、6月に逮捕され、2年後に獄死します。
(但し、謀殺事件はフレームアップ説もあり、真相は不明)
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⇒詳細は、謀殺については秩父蜂起(4)逮捕・入獄・獄死については秩父蜂起(5)
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5.泰治の妻ハン
泰治の妻ハン(はん子)は、東京生れというだけで素生は不明のようです。
以下、ハンの行動について。
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①泰治逮捕の警官に包丁を振り回して抵抗 ⇒ 秩父蜂起(4)
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②蜂起直前、大井憲太郎への使者をつとめる
10月23日前、緊迫した情勢の中で、ハンは恐らく井上伝蔵の依頼によるものと思われるが、東京の大井憲太郎への情勢報告の使者をつとめます。 
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⇒詳細は、秩父蜂起(12)
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③島崎嘉四郎の別働ゲリラ隊に本陣を提供
蜂起後、11月3日、甲大隊の加藤織平・新井周三郎は、群馬県からの警官隊迎撃の為、別働隊として島崎嘉四郎に約200人をつけて日野沢谷へ進発させます。
(島崎嘉四郎については、後に別途一項をもうけます)
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3日夜、別動隊は、上日野沢村小前耕地に分宿し、翌4日早朝から奈良尾峠を越えて矢納村(児玉郡神泉村)に向います。途中、峠上から警官隊の発砲うけますが、怯まず矢納に進出します。
4日夕方近く、別働隊は巡査1人を生捕りにして重木耕地に入り、その夜、幹部は村上泰治留守宅に宿泊し、残りは近くの民家に分宿します。
泰治の妻ハンは、自ら進んで本陣提出を申し出て、近隣の女衆を励まして焚出を行います。
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蜂起鎮定後、本野上分署は所轄内の村々に被害届を出させ、これをもとに「暴徒被害者調」を作成しますが、その中に村上泰治名義で、「一、脇差四本、倭銃(ヤマトジュウ)一挺、男綿入一枚、外二品」の被害物件があります。これは、蜂起軍への協力を偽装する為の被害届提出と思われます。
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尚、泰治の重木耕地では、殆どが蜂起に参加します。
警官隊が泰治宅を急襲した際、妨害したとして逮捕された加藤善蔵は、拷問によって健康を害していて参加できませんが、長男九蔵(19)は参加して重禁錮1年6ヶ月の刑に処せられています。
また、泰治の一族の中庭柳太郎家では、入聟駒吉が参加し、児玉進撃隊に選ばれ4日深夜の東京鎮台1中隊・警官隊との金屋の夜戦で、拇指に銃創を負います。山野を這いずり廻り逃亡しますが、群馬側で捕われ、前橋軽罪裁判所において罰金4円を申し渡されます。
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④泰治への面会・差入れ
泰治は、差入品に付いた差入名と品目を明記した送状を、「観世より」(コヨリ)にして保存していました。総数は392点あります。明治17年6月浦和監獄に収監されて同20年6月獄死するまでの3年間で、うち221回が妻ハンによるものであったといいます。
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明治20年9月(泰治獄死の3ヶ月後)の24日前後、ハンは村上の家を出ます。その後の消息は不明。
(9月20日、泰治の遺産相続に関する親族会議があり、結果、遺産は母が「一時相続」することになったといいます。ハンが家を出るのはその直後)
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2009年6月4日木曜日

鎌倉 瑞泉寺 夢窓国師の庭園

瑞泉寺に行きました。
やはり境内前庭と庭園は見事なものです。
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山門までの道
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山門
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境内
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夢窓国師の庭園
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チケット裏の説明書きです。(読み易いように改行を施しました)。
名勝瑞泉寺庭園
紅葉ケ谷を囲む三方の山が天然の垣根をなし、わずかに開けた西の空に富士山を仰ぐこの地を選び、天台山、錦屏山を背景として、夢窓国師は庭園を作られました。
それは鎌倉石の岩盤に地形に応じ地質に即して巧みに大いなる彫刻をほどこした、鎌倉ならでは性格のものでした。
境内の北の一隅の岩壁の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟∴保光窟)をうがちました。
天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。
水流を東側に辿れば滝壷に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とすしっらえとなっています。
池の西側には二つの橋がかかり、これを渡るとおのずから池の背後の山を辿る園路に導かれます。
非公開ですが二つの橋も数えて十八曲りに園路を登ると錦屏山の山頂に出て、私たちはそこにまた大きな庭と出会います。
鶴ケ岡から鎌倉周囲の山並みが幾重にも波状をなして重なり、遠くには箱根の山々がかすみ、右手に霊峰富士が大きく裾を広げる足下には、相模湾が自然の池を元しているのです。
借景の大庭園の広がるこの山頂に夢窓国師は小事を建て、偏界一覧亭と名づけました。
岩盤を彫刻的手法によって庭園となした、「岩庭」とも呼ぶべきこの庭園は、書院庭園のさきがけをなすものであり、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園なのです。」
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境内
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あじさいには少し早めでした(5月26日)
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瑞泉寺
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2009年6月3日水曜日

鎌倉 覚園寺

覚園寺境内は、決められた時刻にしか入れない仕組みになっていました。午後は1時から、2時から・・・という具合です。1時半に着いたら30分待ちになります。
・・・という訳で、入らずに次の行程に進みましたので、今回は前庭だけのご紹介です。
由来は下記の説明をご参照下さい。「奥深い境内」とあります。
下から3つ目の写真は、その境内の入口周辺をフェンス越しに写したものです。
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覚園寺
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2009年6月2日火曜日

鎌倉 鎌倉宮 護良親王幽閉土牢 山本五十六の書

護良親王(大塔宮)を祀る鎌倉宮です。
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以下を併せてご参照下さい。
(以前の鎌倉宮のエントリ)
鎌倉宮 身代りさま
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(護良親王首洗い井戸、 親王殺害に至る経緯)
護良親王首洗い井戸
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「宮内庁」管理のお墓
妙法寺にあるお墓
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今回は、拝観料を支払って中も見せて戴きました。
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親王が幽閉されていた土牢
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木立の間に見る本殿
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御構廟(おかまえどころ):親王の首が置かれたとされる場所
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鎌倉宮碑(大正11年4月)
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親王の皇子・日賢上人の師である日叡上人を供養する多宝塔
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宝物殿にある山本五十六の書(ガラス越しに撮影)
その他、親王の倒幕の令旨の写し、乃木希典らの皇国精神溢れる書が所狭しと展示されている。
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鎌倉宮
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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源三位入道頼政 3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)(2)

3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)その2
(3)鵼とは
「とらつぐみ」のこと。つぐみより少し大きく、黄色に黒褐色の虎のような斑点がある。
3月~6月頃の夜半~早朝に鳴き、鳴き声が口笛に似て陰気でもの悲しげなことから、古来不吉で不気味なものとされる。未明の暗い空を異様に鳴いて飛ぶ鵼の声を聞いた者は、これを不吉とし呪文を唱えてその厄をのがれようとしたという。
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昨日(6月1日)夜テレビを見ていたら、偶然この「とらつぐみ」が話題に出ていました。
長野県上田市を訪問したある俳優が、10年前に上田市に移住したという人と会話。
「ずいぶん静かですね」「ええ音ひとつしませんよ。でもね、夜、鳥が鳴くんですよ。ヒューヒューってね。トラツグミですよ。土地の人は「死人鳥」とよんでますがね」・・・。
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その他、昔からの記録にもあるようです。
①定家「明月記」(嘉禎元年2月21日条)に、曇天の早朝卯の刻(午前6時頃)、竹林の中で鵼の鳴き声を聞いたが、忌避できなかったので、とっさに〈鵩(フク)鳥の賦(フ)」を詠んだとある。
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②歌学書「袋草子」には、鵼が鳴いた時の誦文の歌として、「よみつどりわがかきもとになきつどり人みなきゝつゆくたまもあらじ」という歌がある。
その鳴き声が悲しげであることから、「ぬえどりの」は、「うららなく」「のどよふ」に、またその悲しさを恋心のそれに見立てて、「片思ひ」にかかる枕詞として用いられた。
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③「万葉集」には、七夕の歌として、「ひさかたの天の河原にぬえ鳥のうら鳴けましつ為(スベ)方なきまでに」という歌が収められている。
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④「日本紀略」(延喜5年(905)2月15日条)に、空中で鵼が鳴いたため諸社に幣(ヌサ)を奉ったとある。
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⑤「拾芥抄」他永久3年(1115)6月~7月の記録に、しきりに洛中を鵼が鳴き渡たり、洛中の住民に不安を与えたので、鳥羽天皇が陰陽寮に命じてこれを占わせたという。
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⑥「吾妻鏡」(延応2年(1240)4月8日条)には、前武衛御亭で鵼が鳴いたので、翌9日に百怪祭を行ったとある。
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⑦「台記」(頼長の日記)康治3年(1144)4月25日条に、頼長が早朝に鵼の鳴き声を聞き安倍泰親に占わせたところ、「吉」と出たが、その深更に再びその声聞いたので再び占わせると、今度は「口舌と火を慎むべし」との卦が出たという。この日安倍泰親は7人からその吉凶を尋ねられたという。
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⑧「看聞御記」(後伏見院の日記)応永23年4月25日条に、北野社で夜中に怪鳥が鳴き、その鳴き声は大きな竹をひしぐようで、そのため社頭が鳴動し、参詣人が肝をつぶした、宮仕がこれを射落としたが、そのかたちは、頭は猫、身体は鶏、尾は蛇のようで、目が光っていたと記されている。
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⑨「太平記」巻12「広有怪鳥を射る事」に、元弘3年(1333)夏、紫辰殿の上に怪鳥が現われ、隠岐の次郎左衛門広有が命じられてこれを射止めたとある。その鳴き声は「いつまで、いつまで」と聞こえたという。この怪鳥は、「頭は人の如くにして、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯、鋸の如く生違(ハエチガ)ふ。両の足に長き距(ツメ)有て、利(ト)きこと剱の如し。羽崎(ハサキ)を延て之を見れば、長さ一丈六尺也」というありさまであったとある。
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正体不明なもの、どちらともつかぬ怪しげなもの「鵼」のようなものと言い習わすようになったようだ。
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4.二条天皇の頃のこと
「又応保の比ほひ、二条院御在位の御時、鵼といふ化鳥、禁中に鳴いて、屡(シバシバ)宸襟(シンキン)を悩し奉る事ありけり。然れば先例に任せて、頼政をぞ召されける。
頃は五月二十日余り、まだ宵の事なるに、鵼只一声音信(オトヅ)て、二声とも鳴かざりけり。目指すとも知らぬ闇ではあり、姿形も見えざりければ、矢所を何くとも定め難し。
頼政が策(ハカリゴト)に、先づ大鏑(オホカブラ)取って番(ツガ)ひ、鵼の声したりける内裏の上へぞ射上げたる。鵼、鏑の音に驚いて、虚空に暫ぞひゝめいたる。
次に小鏑取って番ひ、ひいふつと射切って、鵼と並べて前にぞ落したる。禁中ざざめき渡つて、頼政に御衣を被(カヅ)けさせおはします。今度は大炊御門右大臣公能公これを賜はりついで、頼政に被けさせ給ふとて、
「昔の養由(ヤウイウ)は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨の中の鵼を射たり」
とぞ、感ぜられける。
「五月闇名をあらはせる今宵かな」/と仰せられかけたりければ、頼政、
「たそがれ時も過ぎぬと思ふに」/と仕(ツカマツ)り御衣を肩にかけて罷り出づ。
其の後伊豆国賜はり、子息仲綱受領になし、我が身三位して、丹波の五箇庄・若狭の東宮河を知行して、さておはすべかりし人の、由(ヨシ)なき謀叛起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。」
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(現代語)
応保(1161~63)の頃にも、同様な事件が起こった。二条天皇(近衛天皇の甥、第78代)の治世にも宮廷の中で鶴が鳴き、天皇を悩ませたという。
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今回も、先例に従って頼政が召し出され、怪物を退治するよう命じられる。5月20日頃、まだ夕暮れ間もない頃に、鵼がやって来て、ひと声鳴いて通り、それ以後はなりをひそめる。いわゆる5月闇で、辺りは真っ暗で、その姿も形も全く見えず、どこを目標にして射ればよいかも定め難い状況。
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頼政はそこで一計を案じる。
まずはじめに大きな鏑矢をつがえて、鵼の声のした内裏の上にこれを射上げ、鵼が鏑の音に驚いて空中でしばらく「ひいひい」と声を立てたところを、二の矢に小さい鏑矢をつがえ、狙いすまして(ひいふっ)と射切って、鶴と矢と並べて前に射落とした。
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今回は、大炊御門の右大臣公能公がこれを取りつぐ役に当たる。頼政に御衣をかづけるに際して、「昔の養由は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨の中の鶉を射たり」と感嘆したとある。
「大炊御門右大臣公能公」というのは、徳大寺左大臣実能の嫡男で、近衛・二条の二代の后である近衛河原の大宮多子の父親。右大臣・正二位で、その邸が大炊御門の北・高倉小路の東にあったので、八大炊御門の右大臣公能)と呼ばれた。
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その後、頼政は後伊豆の国に所領を与えられ、嫡男の仲綱を受領にした。続いて頼政の所領として、「丹波の五箇の庄」と「若狭の東宮河」の2ヶ所があげられる。
「丹波の五箇の庄」は、現在の京都府船井郡日吉町の北部にあった荘園で、もと左大臣藤原頼長の所領であったもので、保元の乱で頼長が失脚したため収公され、頼政の私領となる。
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この様に、頼政は知行国として伊豆を与えられ、他に丹波・若狭にも所領を与えられ、身分も三位に上げられて、満ち足りた晩年を迎えていた筈であった。
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「そのままいればなんの問題もないところを、無益な謀叛を起こして、高倉の宮の運命を狂わせた上に、自分自身だけでなくその子孫までも破滅するような仕儀になったとは、なんとも嘆かわしいことよ」と、頼政の反乱は総括される。
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尚、丹波国五箇庄は、頼政敗死後、平宗盛がこれを知行するが、平家滅亡後は没収され、後白河院が仙洞御領に組み入れようとした時、頼政4男の頼兼が頼朝に訴え、結果、頼兼に与えられる。
「吾妻鏡」文治2年(1186)3月8日条に、「源蔵人大夫頼兼愁へ申す丹波国五箇庄の事、二品京都の執領さしめたまふべきの由、御沙汰に及ぶ。これ入道源三位の家領なり。治承四年事あるの後、屋島前内府これを知行す。今度没官領め内、頼兼に付せらる。しかるに仙洞御領たるべきの由仰せあるか」。
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2009年6月1日月曜日

京都のいしぶみ 二条城周辺(3) 鵼池 鵼大明神

源三位頼政の「鵼(ぬえ)退治」繋がりです。
弓矢のほまれ(「鵼退治」)その1
弓矢のほまれ(「鵼退治」)その2
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「鵼(ぬえ)池」
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「鵼(ぬえ)大明神」
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「鵼(ぬえ)池」伝説説明板
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ここは今、二条公園という児童公園になっております。
少し前まで、この公園は垣根が高く、見通しが悪い、どこか陰気な(失礼!)公園でしたが、今はその垣根が取り払われ、いい公園になりました。
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いま闘病中の義父が、ここは昔「クビキリバ=処刑場」だったところだと言ってました。
この場所は、江戸時代は、所司代の敷地だったか?、或は近接して東西奉行所がありますので、その付属施設として「クビキリバ」があったのか?
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以前にどこかで、六角獄舎ができる前にはこの辺りに獄舎があったということを読んだ記憶があります。
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ぬえ池
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源三位入道頼政 3.弓矢のほまれ 「鵼(ぬえ)退治」(1) 

説話続きとなりますが、頼政は優れた歌人として知られていますが、また武技の手腕も卓越していたと云われ、「平家物語」(巻4)にはある種有名な「鵼(ぬえ)退治」のエピソードがありますので、これをご紹介。
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3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)その1
(1)大要
頼政は、昇進が滞っていたが、歌の巧みさ故に三位に昇り、今年75歳(正しくは77)。
この人の最大の手柄は、かつて近衛天皇が得体の知れぬものに取り付かれて病に陥った時、深夜に雲中の変化のものを矢で射落としたことである。褒美に剣を与えられ、歌を詠みかけられて即答し、文武両道の達人ぶりを披靂した。
また、二条天皇が鵼という化鳥に悩まされた際も、暗闇に、鏑矢の音で鳥を驚かせて所在を確かめ、見事に射落とした。この時も歌のやりとりがあった。
そのまま平穏に生涯を終えられた筈であるのに、謀反を起こし、(高倉)宮も失わせ、わが身も滅びたのは、誠に嘆かわしい。
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(2)近衛天皇のとき
「此の人、一期(イチゴ)の高名とおぼしき事は多き中にも、殊には仁平の頃ほひ、近衛院御在位の御時、主上(シユシヤウ)夜な夜な怯えさせ給ふ事ありけり。有験(ウゲン)の高僧・貴僧に仰せて、大法・秘法を修せられけれども、其の験(シルシ)なし。御悩(ゴナウ)は丑の尅(コク)ばかりの事なるに、東三条の森の方より、黒雲一むら立ち来って、御殿の上に覆へば、必ず怯えさせ給ひけり。これによって公卿僉議ありけり。
去んぬる寛治の頃ほひ、堀河院御在位の御時、主上、しかの如く怯え魂(タマ)ざらせ給ひけり。其の時の将軍義家朝臣、南殿の大床に候(サフラ)はれけるが、御悩の刻限に及んで、鳴弦(メイゲン)する事三度の後、高声(カウシヤウ)に
「前陸奥国守源義家」
と名のったりければ、聞く人身の毛竪(ヨダ)って、御悩必ず怠(オコタ)らせ給ひけり。
然れば則ち先例に任せて、武士に仰せて警固あるべしとて、源平両家の兵の中を、選ませられけるに、此の頼政をぞ選び出されたりけり。
其の時は末だ兵庫頭にて候はれけるが、申されけるは、
「昔より朝家に武士を置かるゝ事は、逆反(ギャクホン)の者を退け、違勅の輩を亡さんが為なり。目にも見えぬ変化(ヘンゲ)の物仕(ツカマツ)れと仰せ下さるゝ事、未だ承り及ばず」
と申しながら、勅宣なれば、召(メシ)に応じて参内す。頼政頼み切ったる郎等、遠江国の住人、猪早太に、母衣の風切(カゼキリ)作(ハ)いだりける矢負はせて、唯一人ぞ具したりける。我が身は、二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作いだりける鋒矢(トガリヤ)二筋、滋籘(シゲドウ)の弓に取り添へて、南殿の大床に伺侯す。
頼政矢二つ手挟(タバサ)みける事は、雅頼卿(ガライノキヤウ)其の時は、未だ左少辧(サセウベン)にておはしけるが、変化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候(サフラ)ふらんと選び申されたる間、一の矢にて変化のもの射損ずる程ならば、二の矢には、雅頼辧(ガライノベン)の、しや頚の骨を射んとなり。」
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(現代語)
頼政の生涯には一代の名誉と思われる事が多くあるが、とりわけ仁平年間(1151~54)の近衛天皇の治世の頃、天皇が夜になると怯える事があった。効験あらたかな高僧・貴僧を招いて、大法・秘法(真言密教の大がかりな加持・祈祷)を行わせたが効果はなかった。
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午前2時頃、きまって「東三条の森」の方から黒い雲が沸き起こり、御所の建物を覆い、天皇がこれに怯える、という。公卿たちが協議をすると、寛治の頃(1087~93)にも同様な事件があったという。
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「東三条の森」:
二条大路の南、町尻小路の西にある東三条殿の邸内の森(現在の二条城の東)。
東三条殿は、藤原兼家が父祖の良房~忠平を経て伝領した邸宅で、一条・三条・後朱雀3代の天皇の里内裏となる。
邸内の西北に角振(ツノブリ)・隼(ハヤブサ)の両社があり、森になっている。
保元の乱の際、ここは崇徳上皇方拠点となり、武士たちが「昼は木のこずえ、山(築山)の上にのぼって」(「保元物語」)、南の天皇方の御所の高松殿を偵察したという。
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(「東三条殿」はこちら)
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/2_13.html
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寛治の頃の堀河天皇の怯えに際しては、八幡太郎義家がたまたま近く伺候していたので、物の怪退散のため鳴弦をするように命ぜられた。
紫宸殿の南廂(ミナミビサシ)に伺候していた義家が、天皇が怯える時刻に、三度弓弦を鳴らし、「前陸奥守源義家」と大声で名乗ると、聞く人はぞっと身震いして、そのあと必ず怯えが収まり、天皇も平常に戻ったという。
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「鳴弦」:
弓の弦を強く引き鳴らし、その音によって妖怪や邪気を驚かして退散させること。
宮廷や貴人の邸宅では、湯殿始めや出産などの際、また病気や雷鳴など不吉な出来事があった際、弓弦を鳴らして邪気を払うしきたりがあった。
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先例に則り、今回も武士に警固を命じようということで、兵庫頭の頼政が選ばれる(頼政が兵庫頭に補せらるたのは久寿2年(1155)52歳のとき)。
妖怪退治の勅命を受けた頼政は、大役にたじろぐが勅命には背けずこれを受け、腹心の郎等猪早太に矢を持たせ宮中に参内する。
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この時、左少辧(太政官弁官局の三等官、正五位下相当。のち権大納言までに昇進)の藤原雅頼卿が、変化の者を仕留めることができる者として頼政を推挙したが、頼政は、厄介事に巻き込んで迷惑であると恨んで、二本の矢を手挟み、一の矢で変化の者を射損じたら、二の矢で雅頼卿の首の骨を射てやろうと秘かに考える。
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「案の如く、日来(ヒゴロ)人の申すに違はず、御悩の刻限に及んで、東三条の森の方より、黒雲一むら立ち来って、御殿の上に靉(タナビ)いたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に怪しき、物の姿あり。射損ずる程ならば、世にあるべしとも覚えず。さりながら、矢取って番(ツガ)ひ、南無八幡大菩薩と、心の中に祈念して、よつ引いて、ひやうと放つ。
手答して、はたと中(アタ)る。
「得たりやおう」
と矢叫をこそしてんげれ。
猪早太つと寄り、落つる処を取って押へ、
「柄も拳(コブシ)も透(トホ)れ透れ」
と、続け様に九刀(ココノカタナ)ぞ刺(サ)いたりける。
其の時上下手々(シヨウゲデンデ)に火を燃して、これを御覧じ見給ふに、頭は猿、躯(ムクロ)は狸、尾は蛇(クチナハ)、手足は虎の如くにて、鳴く声鵼(ヌエ)にぞ似たりける。怖しなども疎(オロカ)なり。
主上御感の余りに、獅子王と申す御効を下さる。宇治左大臣殿これを賜り次いで、
「頼政に賜(タ)ばん」
とて、御前の階(キザハシ)を半(ナカラ)ばかり下りさせ給ふ折節、頃は卯月十日余りの事なれば、雲井に郭公(クワツコウ)、二声三声音信(オトヅ)れて通りければ、左大臣殿、
「郭公名をも雲井にあぐるかな」
と仰せられかけたりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖を揺(ヒロ)げて、月を少し傍目にかけつゝ、
「弓はり月のいるにまかせて」
と仕(ツカマツ)り、御劒を賜はりて罷り出づ。
此の頼政卿は、武芸にも限らず、歌道にもまた優れたりとぞ、時の人々感じ合はれける。
さて彼の変化のものをば、空舟(ウツボフネ)に入れて流されけるとぞ聞こえし。」
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(現代語)
頼政が待機していると、いつもの天皇がうなされる時刻に、東三条の方角から黒い雲が沸き出し、御殿を覆う。頼政がキッとして見上げると、雲の中に怪しいものが見える。
頼政は、もし射そんじれば、とても生きながらえることはできない。しかし、もう後には引けない、射るしかないと心に決め、矢を取って弓弦につがえ、心の中で南無八幡大菩薩と祈りをこめ、よく引き絞って射放つ。
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矢は、目標にと命中。「してやった」と喚声をあげる。猪の早太が駆け寄り、落ちて来る獲物を取り押さえ、腰刀を九回、刀身だけでなく柄のところまで、それを握る拳までも突き通れとばかり激しく突立てる。
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身分の高い人も低い人も全て、その場に駆けつけ、松明に火をつけてこれを見ると、頭は猿、からだは狸、尾は蛇、手と足は虎のようで、鳴く声は鵼(ぬえ)に似ていたという。
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天皇は、頼政の手柄に対し「獅子王」という剣を与え、これを宇治左大臣(頼長)が取りつぐ。
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ほととぎすが鳴きのを聞いた左大臣頼長は、とっさに「郭公名をも雲井にあぐるかな」と、頼政に詠みかける(「雲井」に空と宮中の意を懸け、「あぐる」にほととぎすが鳴くことと頼政が武名をあげることを言い掛けたもの。「ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ」という意)。
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頼政はこれに答える。
「弓はり月」は、弓の弦を張った形に似た月(上弦、下弦の月)をいう。その弓の連想から、縁語として「射る」が使われ、また「射る」と「入る」とが懸詞となって、「月が入る」に「弓を射る」を重ねたもの。「弓張り月が西の空に入ろうとしている時、弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです」との意味。*
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そして頼政は、獅子王という剣を与えられて退出。
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このエピソードに添えて、頼政が武芸だけでなく、歌道にも優れた文武両道の武人であると強調され、「時の人々感じ合はれける」(人々が感嘆し合った)結ばれる。
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(その1)終わります。