説話続きとなりますが、頼政は優れた歌人として知られていますが、また武技の手腕も卓越していたと云われ、「平家物語」(巻4)にはある種有名な「鵼(ぬえ)退治」のエピソードがありますので、これをご紹介。
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3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)その1
(1)大要
頼政は、昇進が滞っていたが、歌の巧みさ故に三位に昇り、今年75歳(正しくは77)。
この人の最大の手柄は、かつて近衛天皇が得体の知れぬものに取り付かれて病に陥った時、深夜に雲中の変化のものを矢で射落としたことである。褒美に剣を与えられ、歌を詠みかけられて即答し、文武両道の達人ぶりを披靂した。
また、二条天皇が鵼という化鳥に悩まされた際も、暗闇に、鏑矢の音で鳥を驚かせて所在を確かめ、見事に射落とした。この時も歌のやりとりがあった。
そのまま平穏に生涯を終えられた筈であるのに、謀反を起こし、(高倉)宮も失わせ、わが身も滅びたのは、誠に嘆かわしい。
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(2)近衛天皇のとき
「此の人、一期(イチゴ)の高名とおぼしき事は多き中にも、殊には仁平の頃ほひ、近衛院御在位の御時、主上(シユシヤウ)夜な夜な怯えさせ給ふ事ありけり。有験(ウゲン)の高僧・貴僧に仰せて、大法・秘法を修せられけれども、其の験(シルシ)なし。御悩(ゴナウ)は丑の尅(コク)ばかりの事なるに、東三条の森の方より、黒雲一むら立ち来って、御殿の上に覆へば、必ず怯えさせ給ひけり。これによって公卿僉議ありけり。
去んぬる寛治の頃ほひ、堀河院御在位の御時、主上、しかの如く怯え魂(タマ)ざらせ給ひけり。其の時の将軍義家朝臣、南殿の大床に候(サフラ)はれけるが、御悩の刻限に及んで、鳴弦(メイゲン)する事三度の後、高声(カウシヤウ)に
「前陸奥国守源義家」
と名のったりければ、聞く人身の毛竪(ヨダ)って、御悩必ず怠(オコタ)らせ給ひけり。
然れば則ち先例に任せて、武士に仰せて警固あるべしとて、源平両家の兵の中を、選ませられけるに、此の頼政をぞ選び出されたりけり。
其の時は末だ兵庫頭にて候はれけるが、申されけるは、
「昔より朝家に武士を置かるゝ事は、逆反(ギャクホン)の者を退け、違勅の輩を亡さんが為なり。目にも見えぬ変化(ヘンゲ)の物仕(ツカマツ)れと仰せ下さるゝ事、未だ承り及ばず」
と申しながら、勅宣なれば、召(メシ)に応じて参内す。頼政頼み切ったる郎等、遠江国の住人、猪早太に、母衣の風切(カゼキリ)作(ハ)いだりける矢負はせて、唯一人ぞ具したりける。我が身は、二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作いだりける鋒矢(トガリヤ)二筋、滋籘(シゲドウ)の弓に取り添へて、南殿の大床に伺侯す。
頼政矢二つ手挟(タバサ)みける事は、雅頼卿(ガライノキヤウ)其の時は、未だ左少辧(サセウベン)にておはしけるが、変化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候(サフラ)ふらんと選び申されたる間、一の矢にて変化のもの射損ずる程ならば、二の矢には、雅頼辧(ガライノベン)の、しや頚の骨を射んとなり。」
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(現代語)
頼政の生涯には一代の名誉と思われる事が多くあるが、とりわけ仁平年間(1151~54)の近衛天皇の治世の頃、天皇が夜になると怯える事があった。効験あらたかな高僧・貴僧を招いて、大法・秘法(真言密教の大がかりな加持・祈祷)を行わせたが効果はなかった。
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午前2時頃、きまって「東三条の森」の方から黒い雲が沸き起こり、御所の建物を覆い、天皇がこれに怯える、という。公卿たちが協議をすると、寛治の頃(1087~93)にも同様な事件があったという。
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「東三条の森」:
二条大路の南、町尻小路の西にある東三条殿の邸内の森(現在の二条城の東)。
東三条殿は、藤原兼家が父祖の良房~忠平を経て伝領した邸宅で、一条・三条・後朱雀3代の天皇の里内裏となる。
邸内の西北に角振(ツノブリ)・隼(ハヤブサ)の両社があり、森になっている。
保元の乱の際、ここは崇徳上皇方拠点となり、武士たちが「昼は木のこずえ、山(築山)の上にのぼって」(「保元物語」)、南の天皇方の御所の高松殿を偵察したという。
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(「東三条殿」はこちら)
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/2_13.html
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寛治の頃の堀河天皇の怯えに際しては、八幡太郎義家がたまたま近く伺候していたので、物の怪退散のため鳴弦をするように命ぜられた。
紫宸殿の南廂(ミナミビサシ)に伺候していた義家が、天皇が怯える時刻に、三度弓弦を鳴らし、「前陸奥守源義家」と大声で名乗ると、聞く人はぞっと身震いして、そのあと必ず怯えが収まり、天皇も平常に戻ったという。
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「鳴弦」:
弓の弦を強く引き鳴らし、その音によって妖怪や邪気を驚かして退散させること。
宮廷や貴人の邸宅では、湯殿始めや出産などの際、また病気や雷鳴など不吉な出来事があった際、弓弦を鳴らして邪気を払うしきたりがあった。
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先例に則り、今回も武士に警固を命じようということで、兵庫頭の頼政が選ばれる(頼政が兵庫頭に補せらるたのは久寿2年(1155)52歳のとき)。
妖怪退治の勅命を受けた頼政は、大役にたじろぐが勅命には背けずこれを受け、腹心の郎等猪早太に矢を持たせ宮中に参内する。
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この時、左少辧(太政官弁官局の三等官、正五位下相当。のち権大納言までに昇進)の藤原雅頼卿が、変化の者を仕留めることができる者として頼政を推挙したが、頼政は、厄介事に巻き込んで迷惑であると恨んで、二本の矢を手挟み、一の矢で変化の者を射損じたら、二の矢で雅頼卿の首の骨を射てやろうと秘かに考える。
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「案の如く、日来(ヒゴロ)人の申すに違はず、御悩の刻限に及んで、東三条の森の方より、黒雲一むら立ち来って、御殿の上に靉(タナビ)いたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に怪しき、物の姿あり。射損ずる程ならば、世にあるべしとも覚えず。さりながら、矢取って番(ツガ)ひ、南無八幡大菩薩と、心の中に祈念して、よつ引いて、ひやうと放つ。
手答して、はたと中(アタ)る。
「得たりやおう」
と矢叫をこそしてんげれ。
猪早太つと寄り、落つる処を取って押へ、
「柄も拳(コブシ)も透(トホ)れ透れ」
と、続け様に九刀(ココノカタナ)ぞ刺(サ)いたりける。
其の時上下手々(シヨウゲデンデ)に火を燃して、これを御覧じ見給ふに、頭は猿、躯(ムクロ)は狸、尾は蛇(クチナハ)、手足は虎の如くにて、鳴く声鵼(ヌエ)にぞ似たりける。怖しなども疎(オロカ)なり。
主上御感の余りに、獅子王と申す御効を下さる。宇治左大臣殿これを賜り次いで、
「頼政に賜(タ)ばん」
とて、御前の階(キザハシ)を半(ナカラ)ばかり下りさせ給ふ折節、頃は卯月十日余りの事なれば、雲井に郭公(クワツコウ)、二声三声音信(オトヅ)れて通りければ、左大臣殿、
「郭公名をも雲井にあぐるかな」
と仰せられかけたりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖を揺(ヒロ)げて、月を少し傍目にかけつゝ、
「弓はり月のいるにまかせて」
と仕(ツカマツ)り、御劒を賜はりて罷り出づ。
此の頼政卿は、武芸にも限らず、歌道にもまた優れたりとぞ、時の人々感じ合はれける。
さて彼の変化のものをば、空舟(ウツボフネ)に入れて流されけるとぞ聞こえし。」
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(現代語)
頼政が待機していると、いつもの天皇がうなされる時刻に、東三条の方角から黒い雲が沸き出し、御殿を覆う。頼政がキッとして見上げると、雲の中に怪しいものが見える。
頼政は、もし射そんじれば、とても生きながらえることはできない。しかし、もう後には引けない、射るしかないと心に決め、矢を取って弓弦につがえ、心の中で南無八幡大菩薩と祈りをこめ、よく引き絞って射放つ。
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矢は、目標にと命中。「してやった」と喚声をあげる。猪の早太が駆け寄り、落ちて来る獲物を取り押さえ、腰刀を九回、刀身だけでなく柄のところまで、それを握る拳までも突き通れとばかり激しく突立てる。
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身分の高い人も低い人も全て、その場に駆けつけ、松明に火をつけてこれを見ると、頭は猿、からだは狸、尾は蛇、手と足は虎のようで、鳴く声は鵼(ぬえ)に似ていたという。
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天皇は、頼政の手柄に対し「獅子王」という剣を与え、これを宇治左大臣(頼長)が取りつぐ。
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ほととぎすが鳴きのを聞いた左大臣頼長は、とっさに「郭公名をも雲井にあぐるかな」と、頼政に詠みかける(「雲井」に空と宮中の意を懸け、「あぐる」にほととぎすが鳴くことと頼政が武名をあげることを言い掛けたもの。「ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ」という意)。
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頼政はこれに答える。
「弓はり月」は、弓の弦を張った形に似た月(上弦、下弦の月)をいう。その弓の連想から、縁語として「射る」が使われ、また「射る」と「入る」とが懸詞となって、「月が入る」に「弓を射る」を重ねたもの。「弓張り月が西の空に入ろうとしている時、弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです」との意味。*
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そして頼政は、獅子王という剣を与えられて退出。
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このエピソードに添えて、頼政が武芸だけでなく、歌道にも優れた文武両道の武人であると強調され、「時の人々感じ合はれける」(人々が感嘆し合った)結ばれる。
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(その1)終わります。
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