3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)その2
(3)鵼とは
「とらつぐみ」のこと。つぐみより少し大きく、黄色に黒褐色の虎のような斑点がある。
3月~6月頃の夜半~早朝に鳴き、鳴き声が口笛に似て陰気でもの悲しげなことから、古来不吉で不気味なものとされる。未明の暗い空を異様に鳴いて飛ぶ鵼の声を聞いた者は、これを不吉とし呪文を唱えてその厄をのがれようとしたという。
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昨日(6月1日)夜テレビを見ていたら、偶然この「とらつぐみ」が話題に出ていました。
長野県上田市を訪問したある俳優が、10年前に上田市に移住したという人と会話。
「ずいぶん静かですね」「ええ音ひとつしませんよ。でもね、夜、鳥が鳴くんですよ。ヒューヒューってね。トラツグミですよ。土地の人は「死人鳥」とよんでますがね」・・・。
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その他、昔からの記録にもあるようです。
①定家「明月記」(嘉禎元年2月21日条)に、曇天の早朝卯の刻(午前6時頃)、竹林の中で鵼の鳴き声を聞いたが、忌避できなかったので、とっさに〈鵩(フク)鳥の賦(フ)」を詠んだとある。
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②歌学書「袋草子」には、鵼が鳴いた時の誦文の歌として、「よみつどりわがかきもとになきつどり人みなきゝつゆくたまもあらじ」という歌がある。
その鳴き声が悲しげであることから、「ぬえどりの」は、「うららなく」「のどよふ」に、またその悲しさを恋心のそれに見立てて、「片思ひ」にかかる枕詞として用いられた。
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③「万葉集」には、七夕の歌として、「ひさかたの天の河原にぬえ鳥のうら鳴けましつ為(スベ)方なきまでに」という歌が収められている。
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④「日本紀略」(延喜5年(905)2月15日条)に、空中で鵼が鳴いたため諸社に幣(ヌサ)を奉ったとある。
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⑤「拾芥抄」他永久3年(1115)6月~7月の記録に、しきりに洛中を鵼が鳴き渡たり、洛中の住民に不安を与えたので、鳥羽天皇が陰陽寮に命じてこれを占わせたという。
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⑥「吾妻鏡」(延応2年(1240)4月8日条)には、前武衛御亭で鵼が鳴いたので、翌9日に百怪祭を行ったとある。
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⑦「台記」(頼長の日記)康治3年(1144)4月25日条に、頼長が早朝に鵼の鳴き声を聞き安倍泰親に占わせたところ、「吉」と出たが、その深更に再びその声聞いたので再び占わせると、今度は「口舌と火を慎むべし」との卦が出たという。この日安倍泰親は7人からその吉凶を尋ねられたという。
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⑧「看聞御記」(後伏見院の日記)応永23年4月25日条に、北野社で夜中に怪鳥が鳴き、その鳴き声は大きな竹をひしぐようで、そのため社頭が鳴動し、参詣人が肝をつぶした、宮仕がこれを射落としたが、そのかたちは、頭は猫、身体は鶏、尾は蛇のようで、目が光っていたと記されている。
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⑨「太平記」巻12「広有怪鳥を射る事」に、元弘3年(1333)夏、紫辰殿の上に怪鳥が現われ、隠岐の次郎左衛門広有が命じられてこれを射止めたとある。その鳴き声は「いつまで、いつまで」と聞こえたという。この怪鳥は、「頭は人の如くにして、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯、鋸の如く生違(ハエチガ)ふ。両の足に長き距(ツメ)有て、利(ト)きこと剱の如し。羽崎(ハサキ)を延て之を見れば、長さ一丈六尺也」というありさまであったとある。
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正体不明なもの、どちらともつかぬ怪しげなものを「鵼」のようなものと言い習わすようになったようだ。
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4.二条天皇の頃のこと
「又応保の比ほひ、二条院御在位の御時、鵼といふ化鳥、禁中に鳴いて、屡(シバシバ)宸襟(シンキン)を悩し奉る事ありけり。然れば先例に任せて、頼政をぞ召されける。
頃は五月二十日余り、まだ宵の事なるに、鵼只一声音信(オトヅ)て、二声とも鳴かざりけり。目指すとも知らぬ闇ではあり、姿形も見えざりければ、矢所を何くとも定め難し。
頼政が策(ハカリゴト)に、先づ大鏑(オホカブラ)取って番(ツガ)ひ、鵼の声したりける内裏の上へぞ射上げたる。鵼、鏑の音に驚いて、虚空に暫ぞひゝめいたる。
次に小鏑取って番ひ、ひいふつと射切って、鵼と並べて前にぞ落したる。禁中ざざめき渡つて、頼政に御衣を被(カヅ)けさせおはします。今度は大炊御門右大臣公能公これを賜はりついで、頼政に被けさせ給ふとて、
「昔の養由(ヤウイウ)は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨の中の鵼を射たり」
とぞ、感ぜられける。
「五月闇名をあらはせる今宵かな」/と仰せられかけたりければ、頼政、
「たそがれ時も過ぎぬと思ふに」/と仕(ツカマツ)り御衣を肩にかけて罷り出づ。
其の後伊豆国賜はり、子息仲綱受領になし、我が身三位して、丹波の五箇庄・若狭の東宮河を知行して、さておはすべかりし人の、由(ヨシ)なき謀叛起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。」
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(現代語)
応保(1161~63)の頃にも、同様な事件が起こった。二条天皇(近衛天皇の甥、第78代)の治世にも宮廷の中で鶴が鳴き、天皇を悩ませたという。
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今回も、先例に従って頼政が召し出され、怪物を退治するよう命じられる。5月20日頃、まだ夕暮れ間もない頃に、鵼がやって来て、ひと声鳴いて通り、それ以後はなりをひそめる。いわゆる5月闇で、辺りは真っ暗で、その姿も形も全く見えず、どこを目標にして射ればよいかも定め難い状況。
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頼政はそこで一計を案じる。
まずはじめに大きな鏑矢をつがえて、鵼の声のした内裏の上にこれを射上げ、鵼が鏑の音に驚いて空中でしばらく「ひいひい」と声を立てたところを、二の矢に小さい鏑矢をつがえ、狙いすまして(ひいふっ)と射切って、鶴と矢と並べて前に射落とした。
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今回は、大炊御門の右大臣公能公がこれを取りつぐ役に当たる。頼政に御衣をかづけるに際して、「昔の養由は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨の中の鶉を射たり」と感嘆したとある。
「大炊御門右大臣公能公」というのは、徳大寺左大臣実能の嫡男で、近衛・二条の二代の后である近衛河原の大宮多子の父親。右大臣・正二位で、その邸が大炊御門の北・高倉小路の東にあったので、八大炊御門の右大臣公能)と呼ばれた。
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その後、頼政は後伊豆の国に所領を与えられ、嫡男の仲綱を受領にした。続いて頼政の所領として、「丹波の五箇の庄」と「若狭の東宮河」の2ヶ所があげられる。
「丹波の五箇の庄」は、現在の京都府船井郡日吉町の北部にあった荘園で、もと左大臣藤原頼長の所領であったもので、保元の乱で頼長が失脚したため収公され、頼政の私領となる。
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この様に、頼政は知行国として伊豆を与えられ、他に丹波・若狭にも所領を与えられ、身分も三位に上げられて、満ち足りた晩年を迎えていた筈であった。
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「そのままいればなんの問題もないところを、無益な謀叛を起こして、高倉の宮の運命を狂わせた上に、自分自身だけでなくその子孫までも破滅するような仕儀になったとは、なんとも嘆かわしいことよ」と、頼政の反乱は総括される。
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尚、丹波国五箇庄は、頼政敗死後、平宗盛がこれを知行するが、平家滅亡後は没収され、後白河院が仙洞御領に組み入れようとした時、頼政4男の頼兼が頼朝に訴え、結果、頼兼に与えられる。
「吾妻鏡」文治2年(1186)3月8日条に、「源蔵人大夫頼兼愁へ申す丹波国五箇庄の事、二品京都の執領さしめたまふべきの由、御沙汰に及ぶ。これ入道源三位の家領なり。治承四年事あるの後、屋島前内府これを知行す。今度没官領め内、頼兼に付せらる。しかるに仙洞御領たるべきの由仰せあるか」。
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