②③豊臣秀吉妙顕寺城跡、④閑院跡(同じ場所)
⑤東三条殿跡
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松永昌三:
歌人俳人松永貞徳の子。江戸時代初期の儒学者・歴史学者で、儒学者藤原惺窩の四天王の1人。初め、西洞院二条に春秋館を開き、その後、京都所司代 板倉重宗の援助により、この地に講習堂を建てる。門弟に、木下順庵、貝原益軒など。
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妙顕寺城:
天正10年(1582)、豊臣秀吉は山崎合戦で明智光秀を破った後、天王山に山崎宝寺城(京都府乙訓郡大山崎町)を築き、戦後処理を行う。
翌天正11年(1583)、秀吉は妙顕寺を移転させ、跡地に妙顕寺城を構築、天正14年(1586)に聚楽第を築城するまで、京都の政庁とする。
常には前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛する際にはここが宿舎となる。
妙顕寺城は、聚楽第築城後は、その拠点機能を失う。
現在、この辺りの町名は「古城町」「下古城町」となっており、往時をしのばせる。
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この妙顕寺城は閑院跡に、聚楽第は大内裏跡に築城されており、そこには秀吉の権威を示そうとする意図が読み取れる。
尚、妙顕寺は、鎌倉時代に創建された京都で最初の法華宗(日蓮宗)寺院で、天文法華の乱に際しては、周囲を水濠で囲う城塞化した法華寺院二十一ヶ寺のひとつである。
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閑院:
読み辛い(哀れな)説明板。
「ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸があったところである。当初は藤原冬嗣の邸であったが、十一世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
また、高倉天皇の時代(1161~1181)大代理が甚しく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。
以来、後深草天皇に至る九代九十余年間里内裏となっていたが、正元元年(1259)五月に火災で焼失した。
閑院の南殿にて月前松を詠める
いまはまた世々をかさぬる庭の松
ふりてそみゆる秋の夜の霜
順徳天皇
また、高倉天皇の時代(1161~1181)大代理が甚しく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。
以来、後深草天皇に至る九代九十余年間里内裏となっていたが、正元元年(1259)五月に火災で焼失した。
閑院の南殿にて月前松を詠める
いまはまた世々をかさぬる庭の松
ふりてそみゆる秋の夜の霜
順徳天皇
京都市 」
とあります。
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東三条院址(トウサンジョウインシ)
「東三条院の址はこの辺りを中心として、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約一三〇メートル、南北約二八〇メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏に邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明(シゲアキラ)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇をそれぞれ産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。その華やかな様は「本朝文粋」にも記されているが、邸は安元三年(一一七七)に火災で焼失した。
京都市」
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