2023年2月3日金曜日

政府は軍拡の財源に国立病院機構の積立金を転用しようとしている。 他の公的病院より安い看護師の給与アップは「積立金が足りない」という理由で拒否されているのに。 (2023.2.1衆院予算委/宮本徹議員)    

<社説>安保政策の論戦 専守防衛が空疎に響く(東京新聞);「安全保障政策の転換を巡り、岸田文雄首相ら政府側が具体的な説明を避ける場面が目立つ。防衛予算倍増の方針を示しながら「中身は秘密」では議論にならない。詳細な説明が国会審議の大前提だ。、、、、、不誠実な答弁や不十分な説明を続けても、首相は「国民の前で正々堂々議論」(施政方針演説)していると胸を張れるのか。  岸田内閣が進める防衛力の抜本的強化は集団的自衛権の行使容認に続く安保政策の大転換だ。首相がいくら「専守防衛を堅持する」と強弁しても空疎に響く。野党には国会での徹底追及を求めたい。」         

 

2023年2月2日木曜日

「物価が上がれば賃金も上がる」はどこへ…日銀・黒田総裁は発言を後退させた 異次元緩和は「失敗」か(東京); 日銀元理事の早川英男氏は「物価が上がれば賃金が上がるとの狙いは、実際はほぼ1年で破綻していた」と指摘 「想定していた好循環が起こらなかったため『総裁が言い方を変えたのは明らか』」 「異次元緩和は『日本停滞の原因は緩和の不足』という一部専門家の考えを野党時代の安倍晋三氏が取り入れ、首相就任後に黒田氏を総裁に任命して始まった。当時から緩和ではなく賃上げの不足が停滞の原因と主張していた東京大の吉川洋名誉教授は『企業の活力を生み出す成長戦略などで地道に賃金を上げるしかない』として、黒田日銀の緩和策を『的外れの政策だった』」   

 

「ヒトラーもしばしば平和を唱えたが、彼の言う平和は自身の望むところに人々を降伏させることだった。」 「『専守防衛』という言葉も他国に脅威を与えるような『専守防衛』になっていないか。他国に不安を与えるならば必ず日本の不安となって跳ね返ってくる」(「100分de名著」「シャープ『独裁体制から民主主義へ』」) / 「一見強固で揺るがないようにみえる独裁体制には、その力の源を断つことで容易に瓦解する脆弱さが潜んでいます。綿密にたてられた全体計画、弱点に集中すべく慎重に選ばれた戦略、徹底して貫かれる非暴力によって、執拗かつ広範に展開される市民の運動が、やがて独裁体制を覆すことを可能にするといいます」    

 

〈藤原定家の時代259〉文治4(1188)年5月17日~7月28日 藤原泰衡の京への貢馬・貢金、鎌倉着 兼実、仏師康慶と対面 源頼家(7)の着甲始      

 


〈藤原定家の時代258〉文治4(1188)年3月9日~4月25日 重源、頼朝に書状、頼朝の勧進に期待 義経追討の院宣を持った勅使、平泉に下向 途中、鎌倉に到着 「千載和歌集」奏覧 より続く

文治4(1188)年

5月17日

・藤原信房・天野遠景ら、鬼界ヶ島を平定(「吾妻鏡」同日条)。

6月4日

「所々の地頭沙汰の間の事、條々を注し師中納言経房に付せしめ給うの処、御返報今日到着す。勅答の趣に於いては、子細を譲らんが為、権右中弁定長朝臣の奉書を副え献る所なり。 相模の国大井庄の事 延勝寺領なり。年貢に於いては、早く寺家に進すべし。 上総の国伊隈庄の事 金剛心院領なり。年貢に於いては、早く寺家に進納すべし。・・・ 蓮花王院領伊豆の国狩野庄 同領常陸の国中郡庄 ・・・ 上総の国管生庄 ・・・ 下野の国中泉・中村・塩谷 相模の国早河庄の事 以上四箇所、同家領なり。年貢沙汰し送るべし。・・・ 八條院領 信濃の国 大井庄 常陸の国 村田・田中・下村庄・・・ ・・・ 相模の国 山内庄 武蔵の国 大田庄 ・・・ 遠江の国 笠原庄 播磨の国景時知行の所々の事 ・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

6月10日

・馬や金など貢物を携えた泰衝の京への使者、大磯到着。頼朝、これを逗留させず。

処置を問うた三浦義澄に対して頼朝は、泰衡は反逆者義経にくみする者だが、有限の公物を抑留できない(つまり京都に送れ)と命じている。『吾妻鏡』は、泰衡が貢馬・貢金してきたことを宣旨に応じたことのように記している(6月11日条)が、泰衡にとっては去年来の頼朝の要請に基づく、余裕を持った通常の貢進だったと思われる。

6月18日

・兼実、興福寺の造仏始の儀式に参加して、仏師康慶(運慶の父)と対面。

7月5日

・熊谷次郎直実の娘玉鶴姫、妙蓮と名乗り母の菩提を葬うため信州善光寺へ参詣(姫塚伝説)。

7月7日

・源通親、淳和院・奨学院別当となる。この年、源氏長者に任じられる。

7月9日

・九条兼実、藤原季経・経家、藤原定家を召して連歌に興じる。

7月10日

源頼家(7)の着甲始。宿老・家臣らがそれぞれの役をつとめ、畠山重忠・三浦義澄・和田義盛の3人で馬にのるのを扶ける。

北条義時(26)、頼家の着甲始の儀に参列。進み出て頼朝の御簾を上ぐ。

「若公(万寿公、七歳)始めて御甲を着せしめ給う。南面に於いてその儀有り。時刻に二品出御す。江間殿参進し御簾を上げ給う。次いで若公出御す。武蔵の守義信(乳母夫)・比企の四郎能員(乳母兄)これを扶持し奉る。小時小山兵衛の尉朝政御甲直垂(青地錦)を持参す。以前の御装束を改む。朝政御腰を結び奉る。次いで千葉の介常胤御甲納櫃を持参す。子息胤正・師常これを舁き前行す。胤頼扶持し、また後に従う。常胤御甲を南に向かい立てしめ給う。この間梶原源太左衛門の尉景季御刀を進す。三浦の十郎義連御劔を進す。下河邊庄司行平御弓を持参す。佐々木の三郎盛綱御征矢を献る。八田右衛門の尉知家御馬(黒、鞍を置く)を献る。子息朝重これを引く。三浦の介義澄・畠山の次郎重忠・和田の太郎義盛等扶け乗せ奉る。小山の七郎朝光・葛西の三郎清重騎の轡を付く。小笠原の弥太郎・千葉の五郎・比企の彌四郎等御馬の左右に候す。三度南庭を打ち廻り下り御う。今度足立右馬の允遠元これを抱き奉る。次いで甲以下解脱す。親家御物具・御馬を給い、御厩の納殿等に入る。その後武州御馬を二品に献る。里見の冠者義成これを引く。次いで西侍に於いて盃酒有り。二品寝殿の西面(母屋の御簾を上ぐ)に出御す。武州経営する所なり。初献の御酌は朝光、二献は義村、三献は清重なり。入御の後、武州酒肴並びに生衣一領、同じく小袖五領を御台所に奉る。若公の御吉事を賀し申すが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月11日

「六條殿の御作事、二品御知行の国役は、親能の奉行として、大工国時を以て造進せられんと欲す。遠江の国所課の事御教書を下さる。今日到来す。則ち彼の国司義定に付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月13日

「また師中納言(経房卿)の奉書到来す。隠岐の守仲国、宮内権大輔重頼地頭と称し所々を押領するの由を申す。仍って今日御請けを申さる。・・・この外、美濃の国の郷々地頭押領の事、能盛入道・為保・成季等進す所の折紙並びに在廰の勘状、同じくこれを下さる。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

7月17日

「右武衛の飛脚参着す。去年夏の比、御家人藤原宗長と石清水の神人等と闘靜す。神人聊か疵を被るに依って、去る十一日院宣を下さるる所なり。この事度々仰せらるると雖も、左右無く召し進すの條、傍輩の思う所その恃み無きに似たり。仍って猶予するの処、事すでに重事に及ぶ。何様進退すべきやと。則ち院宣を副え進せらる。 放生会駕輿丁の神人等訴え申す事、法印成清の申状これを遣わす。この事、去年すでに神事違例に及ぶ。今年に於いては、違乱異儀有るべからざるか。朝家の大事この事に非ざるや。抑も神社の訴訟その理無きと雖も、敬神他に異なるに依って、一旦裁許有り。追って厚免せらるは常法なり。然れば彼の宗長、先ずその罪科を贖い、追って左右有るべき事なり。随ってまた指せる親族に非ず、ただ郎従たるか。且つは公私の為宜しく忠を顕わすべし。強ち拘留申せしめ給うべからざるか。てえれば、院の御気色此の如し。仍って執啓件の如し。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

7月17日

・源定房(59)没

7月28日

「式部大夫親能武威に募り、他人の領所を貪り、乃貢を抑留するの間、勅問に預かると雖も陳謝を失うの由、その讒出来するに依って、二品親能の許に尋ねしめ給うの処、委細の言上に能わず。ただ去る六月すでに陳状を捧げをはんぬ。案文これを献上す。もしこの事に候かの由これを申す。曲折無きかの由、二品感ぜしめ給うと。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

2023年2月1日水曜日

海外雄飛って言葉、ムカシあったけど、、、 → “安いニッポンから海外出稼ぎへ” ~稼げる国を目指す若者たち~(NHKクローズアップ現代2023年2月1日);  安定した職をも捨てて、若者たちが続々と海外に出稼ぎに向かう!オーストラリアの農場で働く男性は1日6時間の作業で月収50万円。介護施設で働く女性はアルバイトを掛け持ちして9か月で270万円貯金、念願の大学院進学の準備が整った。背景には経済成長と同時に賃金を上昇させる先進国のトレンドに日本だけが取り残される現実が。さらに外国人労働者から見た日本の魅力も低下。安いニッポンで今、何が?専門家と共に考える。

 

少子化問題「Q&A」(筒井淳也);「子育て支援策は現在子どもがいる家庭やこれから子をもつ予定である家庭の生活を楽にするものですが、そもそも出生率低下の直接的原因が未婚化・晩婚化であるので、少子化対策としての効果は限定的だと思われます。」 「根本的な解決は、「若い人が安定した仕事と所得を得て、さらに10年後・20年後も安定した生活が続くという見込みを持てるようになること」です。具体的には、雇用改善、賃金上昇、男女賃金格差の是正、できるだけ不本意な転居のない人生の実現などが重要です。」 「30年間、これらが少子化対策として国政の場でほとんど議論されてこなかったことが問題なのです。」        

 

西村智奈美議員 「旧統一教会の名称変更問題。前回、下村博文氏に参考人招致をしているのにまだ継続協議とか…。そこ(委員会室)にいらっしゃるから、ここに出て来て疑問に答えて欲しい!」と       

コロナ5類移行も「日常来ない」 党派超え反対、ツイッター分析(共同);「田中教授は1月10~21日に、ツイッターでの5類移行に関する投稿約62万件を収集。投稿内容やリツイート(転載)から複数の集団に分けて分析したところ、与党支持の傾向が強い集団も、野党支持傾向が強い集団も、性急な変化に反対する主張が多かった。」   

 

〈藤原定家の時代258〉文治4(1188)年3月9日~4月25日 重源、頼朝に書状、頼朝の勧進に期待 義経追討の院宣を持った勅使、平泉に下向 途中、鎌倉に到着 「千載和歌集」奏覧    

 


〈藤原定家の時代257〉文治4(1188)年2月8日~2月26日 〈奥州藤原氏は、頼朝にとってどのような存在だったのか(纏め)〉 頼朝、義経・泰衡共に追討の旨奏上 内大臣九条良通(22)急没 義経追討の宣旨 より続く

文治4(1188)年

3月9日

・急逝した九条良通(兼実の子)の弟・良経の夢に、亡き良通が顕われ、六韻の詩を示した。夢中わずかにその一句を覚えて、兼実に語った。この頃、かつて以仁王の愛人で若宮と姫宮の母となった八条院三位局は、兼実の恋人となっていて、その間に良輔が生れていたが、19日、その三位も嵯峨で良通のために阿弥陀経を供養した。(『玉葉』)

3月10日

・重源、初めて頼朝に書状を寄せる。結縁の志のない衆庶をも奉加させる「御権威」として頼朝の勧進に期待する。

「東大寺重源上人の書状到着す。当寺修造の事、諸檀那の合力を恃まずんば曽て成り難し。尤も御奉加を仰ぐ所なり。早く諸国に勧進せしめ給うべし。衆庶縦え結縁の志無しと雖も、定めて奉加は御権威の重さに順わんか。且つはこの事奏聞先にをはんぬてえり。この事未だ仰せ下されず。所詮東国の分に於いては、地頭等に仰せ沙汰を致せしむべきの由仰せ遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月15日

・鶴岡大般若経供養に、供養人として足利義兼・山名義範が、随兵として里見義成・佐貫成綱の名が見える(「吾妻鏡」)。 

「鶴岡宮の道場に於いて大法会を遂行す。景時宿願の大般若経供養なり。・・・先陣の随兵八人 小山兵衛の尉朝政 葛西の三郎清重 河内の五郎義長 里見の冠者義成 千葉の小次郎師胤 秩父の三郎重清 下河邊庄司行平 工藤左衛門の尉祐経 御後二十二人(各々布衣) 参河の守 信濃の守 越後の守 上総の介 駿河の守 伊豆の守 豊後の守 関瀬修理の亮 村上判官代 安房判官代 籐判官代 新田蔵人 大舎人の助 千葉の介 三浦の介 畠山の次郎 足立右馬の允 八田右衛門の尉 籐九郎 比企の四郎 梶原刑部の丞 同兵衛の尉 後陣の随兵八人 佐貫大夫廣綱 千葉大夫胤頼 新田の四郎忠常 大井の次郎實治 小山田の三郎重成 梶原源太左衛門の尉景季 三浦の十郎義連 同平六義村 路次の随兵三十人(各々郎等三人を相具す)・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月22日

・義経追討の院宣を持った勅使(官史生国光・院廰官景弘等)、平泉に下向。

4月9日鎌倉着。(「吾妻鏡」同日条)。

3月26日

・「諸国に四天王像を造立し奉るべきの由宣下せらる。東国分の事、今日施行せらる。大夫屬入道これを奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。


4月9日

・義経追討を命じる宣旨と院庁下文を帯し、3月22日に奥州に向けて京都を発った、官史生(かんのししよう)国光と院庁官(いんのちようかん)景弘が鎌倉に到着、頼朝は宣旨と院庁下文を内覧した(『吾妻鏡』文治4年4月9日条)。両人が奥州に下向することは、一条能保から2月29日に鎌倉に知らされていた(『吾妻鏡』2月29日条)。

この使者の接待は、稲毛重成・畠山重忠・江戸重長らが命ぜられた。

「奥州に下向するの官史生国光・院の廰官景弘等、去る月二十二日出京す。これ泰衡に仰せ、豫州を搦め進すべきの由なり。彼の両人宣旨並びに廰の御下文等を帯し、今日すでに鎌倉に参着す。宿次の雑事等、官の宛文有り。仍つてその旨を守り、懈緩無きの儀沙汰を致すべきの由、重成・重忠・重長等に仰せらると。宣旨状等、二品内々これを覧玉う。」(『吾妻鏡』2月29日条)

宣旨は2月21日付で、事書(ことがき、文書の冒頭に「~の事」として記される、文書の内容の要点)は、

出羽守藤原保房、東海・東山両道の国司ならびに武勇の輩に仰せ、その身を追討せらるるを言上す、源義経および同意の者等当国に乱入し、毀破(きは)の旧符(きゆうふ)をもつて、偽りて当時の宣旨と号し、謀叛を致す事、

とある。出羽守藤原保房の要請に答えるかたちで、義経の追討を東海・東山両道の国司と武勇の輩に命じている。「毀被の旧符」とは、文治元年(1185)に義経・行家に与えられた頼朝追討宣旨のことであり、これによれば、義経はその宣旨をいまだ自分の行動の大義名分としていることになる。宣旨本文では、頼朝追討宣旨が無効であることを強調し、泰衡・基成に義経を差し出すことを命じている。

一方、院庁下文は2月26日付で、事書は、

院庁下す、陸奥・出羽両国司等、まさに宣旨の状に任せ、前民部少輔藤原基成ならびに秀衡法師男泰衡等をして、かつは義経の身を召し進め、かつは国司および庄役(牧ヵ)使等を受用すべき事、

とある。泰衡・基成主体に書かれているが、下文本文では宣旨の内容をなぞっている。

つまりは両状ともに、泰衡・基成に対して義経を差し出せと命じている。

4月12日

「院宣等到来す。・・・造東大寺材木引夫の事、・・・良弘の事、・・・諸国庄園の地頭等、国は宰吏に随わしめ、庄は領家に随うべきの由、或いは下文を成し進し、或いは下知を加うべきの旨、再三申せしめ給いをはんぬ。然れども所々より申し訴えしむる如きは、ただ地頭を補すと云うを以て、偏に庄家を押領する如し。貴賤上下徒に愁歎に疲れ、神社仏寺鎮に訴訟を抱く。兆民の歎き、猶天責を為さん。何ぞ況や仏神に於いてをや。神領は神事の違例を恐れ、定めて咎に成すこと出来せんか。寺領は仏事の陵遅を悲しみ、罪業を謝し難からんか。倩々天下の擾乱を思うに、豈地頭の濫妨に非ざるか。衆庶の愁いを散ぜられば、定めて落居の基たらんか。但し地頭の中、その性の好悪に依ってその勤めの軽重有りと。然れば能く子細を尋ね捜し、勤否に随い、勤め無き者を改易し、勤め有る輩を抽賞せば、偏に奸謀を恣にするも、盍ぞ勤節を表わさざらんや。一向領家を用いざるの輩に於いては、尤も罪科に処せらるべきなり。兼ねてまた去々年以後、庄々の年貢已下領家の得分等委しく尋ね進し、未だその済否に随わざれば、賞罰を加えらるべきか。逐年領家の返妙を召し取り、且つは進覧せしめ、且つは本家に付けしめ給うべきか。家人の不当たりと雖も、すでに一身の不当に如かず。積もる所尤もその恐事有らんか。去り難く思し食すの余り、此の如く仰せ遣わさるる所なり。就中、近曽天変地妖連々奏聞有り。これ則ち人の愁い重疊するが故か。妖は徳に勝らず、徳政に如くべからず。徳政と謂うは、人の愁いを散ずるを以て先と為すべきなり。この旨を存じ、殊に沙汰を致せしめ給わば、四海静謐し、万人仁に帰さんか。てえれば、院宣此の如し。仍って執達件の如し。 三月二十八日 太宰権の師籐経房(奉る) 謹上 源二位殿」(「吾妻鏡」同日条)。

4月13日

・院の御所六条殿(もと平業忠屋敷、法性殿焼失後、御所となる)、焼失。頼朝は造営請負いを申請し認められる。

4月22日

「千載和歌集」、後白河に奏覧

24日、選者(俊成)の歌が10首と少ないので追加を命じられ、25首を追加し5月22日に改めて奏覧。(「親宗卿記」)

「月二十二日。戊子。晴。巳ノ刻許リニ、入道殿院ニ参ゼシメ給フ。勅撰集総覧ノ為メナリ。日来自筆ニテ清書。白キ色紙、紫檀ノ軸(貝ノ鶴丸)、羅ノ表紙、紈ノ紐、外題、中務少輔伊経之ヲ書ク。筥ニ納ム。筥ノ蒔絵、自ラ御葦手ニ新歌アリ。未斜ニ出デシメ給フ。御前ニ於テ叡感アリト云々。自ラ読ミ申サシメ給フ。叉蒔絵ノ歌、神筆ノ本ヲ以テ留メオハシマスト云々」(『明月記』)

この「千載集」選集の4年間(1183~88)が、藤原定家が和歌に励み始めた時期に一致。定家の8首が入集される。

納められた女流歌人:式子内親王(後白河院皇女)、二条院讃岐(源三位頼政女・のち宜秋門院に仕う)、殷富門院大輔(藤原信成女・菅原在良外孫)、小侍従(石清水検校光清女)、宜秋門院丹後(源頼行女・二条院讃岐と従姉妹)、二条院三河(為業女・侍従公仲母)、皇嘉門院別当(崇徳院皇后聖子女房)、八条院六条(権中納言源師仲女・八条院女房)、皇后宮大進(皇太后宮若水)。

俊成が『千載和歌集』(1188)、定家が『新古今和歌集』(1205)、為家が『続御撰集』(1251)と三代にわたり勅撰集の撰者となる。更に、為家の長男為氏も『続拾遺和歌集』(1278)、その子為世は『新後撰和歌集』(1302)と、その後も続いて撰者となっている。

4月25日

・「今暁千手の前(年二十四)卒去す。その性太だ穏便、人々惜しむ所なり。前の故三位中将重衡参向するの時、不慮に相馴れ、彼の上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。憶念の積もる所、若くは発病の因たるかの由人これを疑うと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく