2020年10月26日月曜日

【言い訳ボロボロ、更に泥沼へ】 学術会議会員は「一部の大学に偏り」と首相(共同) / 所信表明で学術会議問題をスルーした菅首相が、NHKニュースで問われ反論。「民間出身が少ない、若手が少ない、出身が偏っている、推薦されたとおり任命でよいのか」ー初めての言い訳も登場 ← 名簿は見てないことになってるよ / 首相「説明できることとできないことある」学術会議問題(朝日)        

 



 

菅首相は就任早々「地雷」を踏んでしまった〜田原総一朗インタビュー ; >6人を除外したのは、前任者である安倍首相だったのだろう。学術会議の推薦名簿は、安倍首相の在任時に提出されている。菅首相が名簿を見る前に6人が除外されていたということは、安倍首相の判断  こんなしょうもない理由で拒否され、強弁続けられる我が国の政治状況……— 津田大介

 

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」   

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)「子規の主治医であった宮本仲博士は、こう語っている。 「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」 子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。」

より続く

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)

もう一人の看護人・寒川鼠骨

(中略)

鼠骨さんこそは子規庵と子規の家族の看護人なのだ。


電鈴のボタン

・・・・・

正岡子規の最良の看護人である妹の律さんを支え抜いて、その生涯を看取ったのは、寒川鼠骨さんである。

鼠骨さんが昭和十六年(一九四一)に改造社の『俳句研究』に書いている回想録「律子刀自を懐(おも)ふ」を紹介したい。

「お律さん(私はこう呼んでいた)は、私の宅とは壁一重を隔てる子規庵を護って居られた。

老齢であるにもかかわらず、女中なしで、ひとり寂しく暮して居られた。

それで萬一の場合の用心にとて、私の宅と扉一つで往来できるよう電鈴をつけ、お律さんがボタンを押されると私の宅のベルが鳴るようにしてあった」

つまり、子規庵が再建されてからは、鼠骨さんは、子規庵の隣に家族で住んで、子規庵を護ると同時に、老齢の律さんも護ったのだ。

(中略)

「お律さんは、電鈴のボタンを枕元にして、子規居士の病室だった部屋に、居士と反対の方向である北枕に寝られるのであった。そうした設備をしてから十余年の間、扉の開閉は毎日のようだが、ベルの鳴ったことは一度もなかった」

そして、こうも続けている。

「お律さんは令兄子規居士と反対に、平生極めてお達者であった。身に病あることを知らない人であった。子規居士に似て、ざわめて健啖、南瓜なんかは、私の家人四人が食べる分量を一人で食べられるので、大笑いしたほどであった」

「だから子規居士の五十年忌までは生きているつもりだと語っておられた」

しかし、律さんは七十歳をこえるころから、体に異変がおきるのである。

「ベルは鳴らなかったが、ベルよりも大きな物音が響いた。お律さんの寝室の方からであった。(・・・)急いで扉を排してお律さんの寝室へ行ってみると、お律さんは蒲団の上に横たわって居られた。『どうなきったの』。『少し目まいがして倒れましたが、イエ、タイシタこともありません』。『大丈夫ですか』。『大丈夫です、すみません、おやすみ下さい』。その夜はそれだけで済んだ」

翌午前六時、再び大きな物音がした。急いで駆けつけると、お律さんは寝室の次室に倒れていた。

「『小用に行きたいのです』と言われるので、すぐ前の縁側の便所へ後ろ抱きにして伴(つ)れていく」

医者を呼んできてもらうと、軽い脳溢血だということであった。

舌が少しもつれていたが、高熱を発して小石川の東大分院に入院した。

- 丹毒という診断であった。

寒川鼠骨さんは病室に泊まりきりで看護した。しかし、律さんの衰弱はひどい。

そこで鼠骨さんは、律さんの耳元に口をよせて魔法の言葉を言ったのだ。「お律さん、あんたはさむらいの娘でしょ。しっかりして下さい」「あなたはさむらいの娘なんですよ」と。


さむらいの娘

その魔法の言葉を聞いた律さんは、どう反応したか。鼠骨さんの一文を借りる。

「『お律さん、しっかりしてください。食事を食べてください。さむらいの娘でしょ』と声をかけると、お律さんは首肯(うなづい)た。二人の看護婦はひそかに笑っていたが、お律さんは何時も”さむらいの娘”と自分でも言っておられ、真にさむらいの娘の気魄で一生を過ごされたのであった」

時代はすでに昭和。とうに侍の身分は消えて、チョンマゲも腰の刀もなくなっている。鼠骨さんはどんな憲味をこめて〝さむらいの娘〞を口にしたのだろう。また鼠骨さんの一文を借りよう。

「お律さんは”さむらいの娘”であるから、猥(みだ)らなことが大嫌いだった。お律さんはチャボを育てるのが道楽で、また上手であって、可愛いい沢山のチャボを育てられたのだが、小さなチャボが成人すると、みな他に譲ってしまわれるのだ。卵を割って出たばかりの、黄色の生ぶ毛の雛を育てる間が楽しいようであった。しかし、卵を生まずためには親鶏が必要であり、その親鶏が朝早く塒(ねぐら)の箱を開けられたとき、庭に飛び出すや否や、交尾をするのである。するとお律さんは、それを目の敵のように竹箒を持って雄鶏を叩いて追っ払うのだ。雄鶏は悲鳴をあげて逃げ回る。こうして一時間近くも葛藤(たたかい)が続く。『どうしたんですか』とたずねると、『朝から無作法ですもの。行儀を直さんといけませんから』と答える。律さんは誰に対しても『さむらいの道』を要望するのだった」

(中略)

『仰臥漫録』の明治三十四年十月十日の日付の日記を読んでみるといい。

(中略)

「新聞雑誌も見られずややもすれば精神錯乱せんとする際この鼠骨を欠けるは残念なり 鼠骨は今鉱毒事件のため出張中なり」

これは、足尾銅山の鉱毒事件のことをさしている。多くの農民が倒れ、日本最初の公害事件とされているが、鼠骨さんは農民救済に立ち上がった地元の代議士田中正造の活動を日本新聞に書き、熱烈に応援していたのだ。彼はついに日本新聞の社説で、時の山縣内閣への官吏侮辱罪に問われ、十五日間、収監されてしまう。しかし、鼠骨さんはへこたれず、『新囚人』という監獄体験記で応じているのである。

つまり、彼はユーモア一点張りの人間ではなく、熱血の人でもある証明となっている。


子規庵庭園の復元

(略)

沈下庭園の眺め

(略)


もう一度痛いと言うとおみ

明治三十四年というのは、子規にとって最後の誕生日の年になった。『仰臥漫録』には、こう書きとめてある。

「岡野の料理二人前を取り寄せ、家内三人にて食う。(・・・)いささか平生看護の労に酬(むく)いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝いおさめなるべし」

子規は冷静に死期を予感しているのだ。

「料理は会席膳に五品

○きしみまぐろとさより 胡瓜(きゆうり) 黄菊(きぎく) 山葵(ワサビ)

○椀盛 莢豌豆(さやえんどう) 鳥肉 小鯛の焼いたの 松蕈(まつたけ)

〇口取 栗のきんとん 蒲鉾 車蝦(えび) 家鴨(あひる) 煮葡萄

○煮込 あなご 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

O焼肴 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)」

岡野とは有名な料理屋である。夢見た料理屋の会席膳を「二人前」取り寄せて、それを家族水入らずの三人で食べているのだ。

前年の誕生日は御馳走の食いおさめをやるつもりで、「碧四虚鼠」の四人を招いている。つまり、碧梧桐、四方太(しほうた)、虚子、鼠骨の愛弟子を招いて食べて愉快な会食となっているが、

「それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかったがあまり愉快でもなかった。体は去年より衰弱して寐返りが十分に出来ぬ。(・・・)それでも食えるだけ食うてみたが(・・・)夕刻には左の腸骨のほとりが強く傷んで何とも仕様がないのでただ叫んでばかり居たほどの悪日であった」

子規にとっては悪日であったが、家族に平素の看護の感謝を伝えることが出来た「良日」でもあったのだ。最良の看護人である八重、律の二人は、翌日の本当の誕生日には、小豆飯を作り、鮭の味噌漬けと赤貝と烏賊(いか)の酢の物を添えて祝いの食事としている。これを子規は、夢の岡野の会席膳より御馳走として、来客の伊藤左千夫と鼠骨と共に食べ、大いに食後話がはずみ、子規もいつもより容易(たやす)く喋っている。

- まこと看護はデリケートでむつかしいものである。

子規が予感したとおり、明治三十四年の誕生日は最後となった。つまり、翌年の九月、三十五歳にとどく寸前に子規は没した。

(略)

息を引き取った子規の枕元で、八重は、「ノボさん、もう一度痛いと言うとおみ(言ってごらん)」といって、大粒の涙をぽたぽたと落としたという。親にとって、我が子が先に逝くことぐらい切ないものはない。

妹の律は、自分が貼り付けた背中のガーゼをなでるようにして、「兄さん、兄さん」と涙を流した。子規にとって、母と妹の涙が末期の水となったのだ。

(略)

私は、律さんの壮絶ともいえる看護ぶりと、兄子規の俳句にかける壮絶な闘いぶりを書いてきて、律さんのもうひとつの仕事を確かめることができた。それは、子規の俳句革新のすべてを、次の代までも伝えたいと、奮闘したことだ。それも、決して自分が正面に出ることなく、あくまでも兄子規が主人公だった。このことで、私は律さんこそ世に数少ない「最強にして最良の看護人」と認めたのである。

(略)

病床における苦しみのはけ口を、律さんに向けてののしった子規さんだが、『仰臥漫録』の中にはこういう記述もある。

「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめると同時に余はほとんど生きて居られざるなり」

「故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わずただ彼に病なきことを祈れり (・・・)余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり」


死のレッスンを支えてくれたのは『仰臥漫録』

余命二、三年と宣告された私自身の”死のレッスン”であるが、胆のう癌と診断されたものの開腹手術の結果は「胆砂(たんさ)」であった。しかし心筋梗塞により心臓の半分以上は壊死し、癌はその後、他の臓器に次々と発生した。まるでモグラ叩きのように手術を繰り返しながら、私はこの四十年を息浅く過ごしている。

何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。

そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。

おわり

(註)

上記の早坂さん著作の引用では省略した寒川鼠骨の貢献についてWikipediaに簡潔に書かれているので、下記する。

1945年(昭和20年)(70歳)、4月の空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られた。10月には歌会を再開した。罹災した政教社の今後を議する事もあった。1946年9月焼跡に仮宅が建つまで、斜め向かいの書道博物館に仮寓して、毎暁土蔵を盗難から守った。


1947年、子規庵を再建する資金に、『子規選集 全6巻』を編み、その出版を1949年春に、再建を1950年に了えた。そこに住み、9月19日の子規の祥月命日の子規忌、その母・妹の回忌の法要を、続けた。参会者が減り間隔が開いたけれども、子規庵歌会を続けた。

最終的には和解したものの、正岡家養子の忠三郎は寒川鼠骨をこころよく思わず対立もあったようだ。この辺りは、のちほど関川夏央『子規、最後の八年』(メモ)にも触れてある。




学術会議任命拒否は民主主義の危機 古賀伸明・前連合会長(毎日);「彼自身もこれだけ大きな騒ぎになるとは思わなかったのではないだろうか。新しくスタートした内閣が高支持率だったため、少し甘く見すぎたのではあるまいか…今回の件も、人事権を握ることによって異論を排除するという手法の延長線上にあると言っても過言ではない」   

大阪市4分割ならコスト218億円増 都構想実現で特別区の収支悪化も 市試算 - 毎日新聞 / 都構想の追加コスト、1年で218億円増 大阪市が公表 — 朝日新聞 / ここが焦点:大阪「都」 住民投票だけで名称変更できず 法整備などが高いハードルに — 毎日新聞 / 大阪都構想「1.1兆円の財政効率化」に実現可能性なし(幸田泉) ;「218億円騒動」は、大阪市財政を背負う官僚たちが「最後の良心」を振り絞った行動ではないだろうか。    



 

2020年10月25日日曜日

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)「子規の主治医であった宮本仲博士は、こう語っている。 「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」 子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。」  

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)「極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。 「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。 正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。 「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。」

より続く

子規の母八重(73歳)と妹律(48歳)


早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)

三、『仰臥漫録』 にたどりつく

『仰臥漫録』

とうとう、私の眼からウロコを落としてくれた子規さんの『仰臥漫録』 にたどりついた。

私が心筋梗塞と胆のう癌のはさみ撃ちに遭い、絶体絶命の崖っぷちに立たされてから、一年目のことである。

大げさかもしれないが、子規さんの『仰臥漫録』は、絶望の中にいる私の魂を見事に救い出してくれたのです。

(中略)

まず、明治三十四年は西暦でいえば二十世紀のはじまった一九〇一年で、子規は三十三歳であった。

すでに子規の肺は左右とも大半が空洞になっており、結核菌が脊椎に入り、重症のカリエスを発症していた。自力では寝返りもできず、いわゆる病床六尺の牢獄につながれ、死刑宣告を受けた重罪人の身の上であった。

背中には蜂の巣の如く穴が開き、膿が流れ出ているから、ガーゼがあてがわれて、仰臥のままでいなくてはならない。つまり、俯(ふ)すこともできず、したがって、この『漫録』も、仰臥のまま、半紙を左手にして書き綴ったものである。

(中略)

さて、九月二日のおしまいには、読むものの心がなごむ一節がある。

「午後八時、腹の筋病みてたまらず沈痛剤を呑む 薬いまだ利かぬうち筋ややゆるむ

母も妹も我枕元にて裁縫などす 三人にて松山の話ことに長町の店家(みせや)の沿革話いと面白かりき」

枕元で母や妹たちが、つくろいものの裁縫をしている情景ほど心なごむものはない。いってみれば、この時、子規は幼い子になっているのた。目をあければ母や妹が枕元でつくろいものをしなから、世間話をしていることぐらい、幼い子に安心感を与えるものはないのだ。

(略)


子規の妹と母こそ、子規の命

明治三十四年 (一九〇一) こそは、子規が自分の死期を確実に悟った年であり、日本にとっては、北の大国ロシアとの対決に向かう年でもあった。

(中略)

さて、死の一年前から書き始めた 『仰臥漫録』 は、まさに”死の板にいのちのチョーク”で綴った詩人の日記なのだが、その日記のいちばん最初に綴った根岸の子規庵の風景にいるのは、仰臥する子規さんの枕元で裁縫をする母・八重と妹の律の三人だけである。

・・・・・

八重は五十六歳、明治半ばにあっては、すでに老齢の人である。仰臥する重病人の息子の体の向きを変えることすらできない。激痛で「たまらん、たまらん、どうしよう、どうしよう!」と泣き叫ぶ息子の枕元に座り、「しかたがない…しかたがない」とつぶやいて、痩せた背中をさすることしか出来ない老母なのだ。

・・・・・

私は、ここに”最強にして最良の看護人”というタイトルをつけているが、その日記に最も多く登場する律さんを、子規さん自身がどう書いているのか紹介してみたい。

「律は(…・)同感同情のなき木石の如き女なり」「律は強情なり 人間に向かって冷淡なり」

と、まことに痛烈な文章が綴られている。はては、

「到底配偶者として世に立つ能わざるなり」

と断じるのである。

たしかに、律さんは二度結婚し、二度離婚されている。二度の結婚とも、数か月で破綻している。一人は同郷のエリート軍人。もう一人は松山中学校で教鞭をとる教育熱心な教師だ。

(略)


律さん必死の勉学

・・・・・

・・・律さんは子規の死後に、共立女子学園、そのころの共立女子職業学校に入学、さらに卒業してから、裁縫の技術を磨き、母校である共立女子職業学校の教員となり、十四年間勤め上げているのだ。共立女子学園には、律さんの履歴がきちんと残されていた。次の写真を見てもらいたい。これは子規の死後三年の、明治三十八年(一九〇五) 三月に、共立女子職業学校を卒業したときの写真である。

見てすぐわかるように、律さんは同級生よりもかなり年上だ。このとき律さんは、なんと三十五歳だったのた。

この共立女子職業学校は、自立した女性の育成を目的として、東京の中心地に名士の鳩山春子さんを含む三十四名の有識者が集まって明治十九年(一八八六) に設立された。共同で設立した学校なので名前が共立なのだ。

・・・・・

律さんが職業婦人を目指したのは、正岡家が長男の子規こと升を失って、律さんが戸主となり、年老いた母の面倒を見なければならない事情が第一であったのだが、実は、律さんは、”勉強”をしたかったのである。

病臥する子規の口述を筆記し、膨大な日本の俳句の分類を手伝わねばならなかったころ、その子規さんの仕事を支えるに当たって、あまりにも律さんは文化を知らなさすぎた。余命いくばくもない兄の子規は、病苦の中で、妹の律さんに「馬鹿」とか「阿呆」のきつい言葉を浴びせたという。

無理もない。明治のころの普通の女子は、漢学の勉強をさせられることもなく、学閥と無縁のところにいた。女は結婚して、子供を産み、義父母に仕えて家事に尊念するのが務めであったのだ。

- 兄は、俳句革新の道半ばにして倒れた。そのあとを何とか継いでいくためには、戸主として家計を安定させた上で、文化の勉強が必要だった……。そのために、女子の自立の旗をかかげた共立女子職業学校に入学したのた。それ故か、律さんは若い仲間に気おくれもせず、常に成績がトップだったそうである。

・・・・・


二度の結婚と離婚

共立女子学園の図書館には、同校を卒業し、教員として奉職もした律さんの公式年譜がつくられている。

それによると、兄・正岡子規さんの三歳年下の妹として明治三年(一八七〇)に生まれたとあり、そしていきなりの感じで、明治十八年(一八八五)に従兄・恒吉忠通と結婚となっている。年齢をみると、十五歳である。やや若すぎると思ったが、日本が近代国家に成熟するまでは、女子の十五歳は結婚適齢期であった。

夫となる恒吉忠通は、同じ松山藩の士族であり、陸軍大学にあって銀時計をもらうほどの英才だったから、実に良縁であったといえよう。

ところが結婚して二年にして、律は離婚されて正岡家に帰ってきている。

(略)

子規さんの説得によるのか、律さんは二年後に再婚している。相手は松山中学校の教員・中堀貞五郎である。夫になった中堀さんは夏目漱石『坊っちゃん』に出てくる「うらなり」のモデルだという説もある人で、教育熱心かつ実直な人と評判が高かったが、なんと、こちらも一年で離婚となっているのだ。

この破婚は、子規の病気が原因であったようだ。

「兄の看病に、帰らせてもらいます」

と律さんは、夫の中堀さんに宣言したのだと、私は想像する。なぜ、そういうことをするのか - 。ざっくり言ってしまえば、律さんにとって兄・子規が恋人であり、理想の人であったのではないか。

(略)


わが兄はホトトギス

子規の主治医であった宮本仲(ちゆう)博士は、こう語っている。

「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」

子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。

「ことに妹律さんは、十分表彰されてよい方だと思う」

とも語っているが、律さんは十分表彰されているかというと、残念ながらまことに乏しいと言わざるを得ない。

そう思うのは私一人ではないようで、すぐれた小説家であった山田風太郎さんが、昭和五十一年(一九七六)に書いた「律という女」の一文がある。

「私は『仰臥漫録』を読むたびに、妙にこの女性のことが気がかりであった」

なぜなら、子規の偉業を支えた律は、

「他の大作家の妻の内助の功などというもの以上に偉大なものであったといえるのではないか」

そして、

「律という女性は、子規の歿後どうしたのだろう。どんな運命を辿ったのだろう?」

と書いている。

まったくその通りで、律さんのその後はまったくといっていいくらい検証されていない。

(中略)

すると、子規さんの側近の弟子であった俳人寒川鼠骨さんの一文を見つけたのだ。

鼠骨さんは関東大震災のあと、老朽化した根岸の子規庵を再建し、お律さん(と鼠骨は呼んでいる)と母堂八重さんとは壁一重の隣家に住み、律さんと一緒に子規の遺品や子規魔そのものを護った上、律の最期をも看取った人物である。

その鼠骨さんは、こう書いている。

「子規没後、お律さんはまだ三十一歳。再々婚してもよい年頃であった。実際に、お婿さんに擬せられた人もあった。しかし、お律さんは健気にも独力で家を支持し、令兄の跡を濁(けが)すまいとの決心を固められた」

つまり、お姉さんを迎えることも出来たのだが、自分が正岡家の戸主となったのだから、まず自立して正岡家を維持したいと決心したのだ。自立するには、どうすればいいか。先に書いたように、律さんは、神田の共立女子職業学校に通学して、卒業後はその教員として独立の計を立てたのである。

(中略)

律は職業婦人となって、独立の計を立てたのち、親戚から義子を迎え、正岡家を立派に永続させた。そして子規さんに続き、母・八重さんを看護し、看取るのである。


つづく

(註)「親戚から養子」に貰ったのが正岡忠三郎。残念ながら律との折り合いは良くなかったようで、大学は京都大学、就職は阪急電車を選んだ。退職後、これぞ決定版という子規全集を編集するが、この時の編集委員の一人に大岡昇平がいる。大岡昇平と正岡忠三郎は若い頃からの友人である。

なお、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』は、正岡忠三郎とその周辺の人々を描いた作品。

関川夏央『子規、最後の八年』にも律を描いた部分があるので、早坂さん作品(メモ)のあとに掲載予定。但し、その前に松永昌三『中江兆民評伝』の「一年有半」の章のメモを掲載する予定。




日曜討論(10/25)。自民党柴山議員、日本学術会議が軍事研究に積極的でないことを任命拒否の理由の1つとしてあげる。 小池晃議員「まさに軍事研究に反対した、だから人事に介入したという風にしか聞こえない。重大」と指摘   


 


(社説)学術会議問題 自身の戒め忘れた首相(朝日10/25);「批判をかわそうと、政権やその支援者は学術会議の側に問題があるとの言説を流してきた。(中略)ネット上には、誤った情報をもとに会議を批判し、学者をことさらにおとしめる投稿が相次ぐ。フェイクニュースをばらまき、人々を誤導・混乱させた罪は大きい」   

「大阪都構想」、世論調査で賛否拮抗(共同10/25); 4特別区を設置する「大阪都構想」への賛成は43.3%、反対が43.6%と拮抗した。9月の前回調査では賛成が10ポイント近く上回っていた / 大阪府、大阪市の説明「十分でない」70%(共同10/25); 「十分ではない」が70.0%に上り、「十分だ」は24.5%にとどまった。   

------------------------- ▼維新の焦り、露骨!

2020年10月24日土曜日

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)「極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。 「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。 正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。 「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。」   

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ1) 「私が広島に入市、一泊したのは八月二十一日だ。投下後二週間をわずかに一日過ぎているのである。 しかし自らを原爆のヒバクシャと認定した私は、癌の発症をヒバクシャの証明と考えたのである。 - みろ! オレはレッキとした被爆者なんだ!」

より続く

中江兆民『一年有半』

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)

『続一年有半』

余命一年半と告知されてから、数か月で書いた中江兆民の『一年有半』は大ベストセラーになった。明治三十四年で十万部を超えるというのは、驚異的な売れ方で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』以来の記録となった。しかし、余命一年半には、まだ一年以上も時間が残っていた。

それで、続いて『続一年有半』を書きあげた。それもたった十日間で書きあげているのだから、すさまじい気力というしかない。なにしろ、手術を受けて気管に管を入れているので、固形物の食事がとれず、豆腐を押し込むように食道に入れる。なんとも激しい病みを伴う食事なのである。

なんと、この二冊目も二十万部という明治の大ベストセラーとなる。しかし、その直後に兆民は東京・小石川の自宅で呼吸を止めた。

つまり、”一年有半”という告知たったのに、わずか八か月の生命たったのである。

二冊目の『続一年有半』は、たった十日間の、いわば”絶命の絶叫”というべきものであった。

つけられたサブタイトルがまことに凄い。

- 「一名無神無霊魂」。

すなわち、

「霊魂とは何物か、身体こそが本体である。身体が死すれば、精魂は即時になくなるのである」

と絶叫しているのだ。

・・・・・

・・・・・さらに、宣言は続く。

「不滅なのは精神でなく、身体すなわち物、物質こそが不滅なのだ」

そして、神なるものも存在しないと、ニイチェのツァラトゥストラの如く、

- 神は死んだ。

と、山上から絶叫するのである。・・・

(略)


伊藤博文らの”欧米使節団始末記”と中江兆民の勝負とは

(略)

イギリスへと上陸してみると、イギリスは産業革命が成功していて、世界一の工業国であった。それこそ煙突からの煙が目にしみて、これでは近代国家へ歩き出したばかりの日本のモデルには、とうていならないと、フランスへわたった。

実は同じとき、同じコースでフランスへ留学したのが中江兆民であった。

使節団は、折からパリ・コミューンで騒乱しているフランスに、参考になるものなしと、次のドイツ (プロイセン) に向ったのだが、兆民は、民衆が蜂起しているパリ・コミューンの渦の中で高揚し、ジャン=ジャック・ルソーの 『民約論』に出会うのだ。

使節団の伊藤博文たちは、ドイツで出迎えてくれた鉄血宰相ビスマルクの熱弁に感動し、日本のモデルをドイツに求めることにした。

(略)

一方、中江兆民は帰国して「仏蘭西学舎」を東京につくり、塾生二千人を集めて、熱くルソーの「民約論」を説く。人民による、人民のための社会をつくり、人民が国の主人となれと叫んでやまない。

兆民は、人民に相談もなくつくられた憲法など、タカが知れていると思っている。

(略)

憲法発布の式典は宮中正殿の大広間で行われ、天皇が前文を読み上げた。

(略)

そして憲法全文がはじめて出席者に手渡されたのである。新聞は号外を出し、ここではじめて国民はその内容を知ったのだ。

中江兆民は一読し、あざ笑ってそれを投げ捨てた。ここから兆民は言論の苦しい闘いをはじめるのだが、癌発症の十二年前だった

(略)


中江兆民、憲法を投げ捨てた

(略)

兆民さんは、大日本帝国憲法を読んで、あざ笑って投げ捨てたと書いたが、実は死ぬ数年前にはっきりと”国のかたち”を示してくれているのである。

この”国のかたち”は、日本人が誰も考えつかなかったものである。

まず、武力を持たないのだ!

そして彫刻を刻むように、美しい日本の風土をつくっていくのだ!

たとえば、外国から侵犯を受けたらどうするか - ここからが凄いのだ。

抵抗などしないで、平然と殺されようではないか、というのだ!

まだインドで、ガンジーが無抵抗主義で独立を手にするずっと前の話である。

パリ・コミューンの騒乱のなかに身をおいて、彼には、つましく美しく生きる人間を殺せはしないという信念があったのだろう。

(略)


遊びをせんとや生まれけむ

中江兆民の余命は、宣告された一年半より短い八か月であった。臨終は明治三十四年の十二月十三日、東京の小石川の自宅でだった。

そのころ、同じ東京の空の下、正岡子規さんは上野の山を越えた上根岸の小さな家で、不治の病に冒され、病床六尺の天地でうめきながら、『仰臥漫録』という日記を丹念に毎日書きとめていた。

そこにはちゃんと、中江兆民の 『一年有半』 のことも書いてある。

十月十五日 (……)

民居士の『一年有半』という書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は喉咽に穴一ツあき候由(よし)われらは腹背中臀(はらせなかしり)ともいわず蜂の巣の如く穴あき申候」

兆民にむかって、穴一つで騒ぎ立てるなと言わんばかりに書いている。さらに、

「一年有半の期限も大概は似より候ことと存じ候」

と、余命も同じ位だとした上で、兆民の書物に痛烈な批判の刃を突きつけて、

「しかしながら居士はまだ美という事少しも分らず(…‥)」

と断じている。

この”美が分らない”ということは、どういうことか。

つまり、兆民居士は、理ばかりで人生を組み立てていくので、死についての”あきらめ”をつけることはできても、”人生の楽しみ”を得ることはないと、子規は言っているのだ。

まさに - 平安の昔に背かれた”遊びをせんとや生まれけむ”(『梁塵秘抄』)の思いである。

子規さんは、理屈をこえた楽しみは、まことに日々の日常の中で感じよ、と日記に書いている。

「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処(ところ)何の理窟か候べき」 - と。

この”日常の楽しさ””日常の美しさ”こそ、子規さんがかかげて止まない俳句改革、俳句実践の目指す世界にちがいないのである。

そして、子規さんはさらに痛烈な批判を展開してみせている。

「十月廿五日 曇

(略)

『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物(きわもの)として流行し六版七版に及ぶ

近頃『二六新報』へ自殺せんとする由(よし)投書せし人あり」

その人が忽ち世の評判となり、金三百円ほどを得、煙草店まで出してもらったというエピソードを紹介し、これこそ『一年有半』と好一対のものとして、

「いづれも生命を売物にしたるは卑し」

と断じ、俳句四句を添えているのた。

「病牀の財布も秋の錦かな

栗飯や病人ながら大食(おおくら)ひ

かぶりつく熟柿や髭を汚しけり

驚くや夕顔落ちし夜半の音」

ことに最後の一句、不治の病に”とらわれ人”のねむれぬ夜の長さ、思いの深さを - 理でなく感性で、嘆かず、むしろ美しきに転化してみせていると見るのは私だけだろうか。


詩集『悲しみのゴンドラ』

(略)

『仰臥漫録』は、子規さんが生きている間は公表されることのなかった病床日記だが、岩波書店が日本文化の書として刊行すると、昭和に至って、岩波文庫の中で二位につける大ベストセラーになっている。

それは、虚飾を去った人間の記録として、石川啄木『ローマ字日記』と並んで、読むものに強く深い感動を与えたからに他ならない。 ー  これからいよいよ、それがどういう記録、日記であるかを紹介していくが、その前にもう一人、その影響の深さを実証する素晴らしい人を紹介したいのである。

その人は、二〇二年の暮にノーベル文学賞を受賞した、スウェーデンが誇る詩人トーマス・トランストロンメルさんだ。

(略)

幸い、その代表作の『悲しみのゴンドラ』が邦訳されて出版されていた。早速、本をひらいてみると、なんとそこに「俳句詩」が載っているではないか。

外国に渡った俳句は、五七五のリズムを持った詩型ではないが、スリーライン・ポエム (三行詩)という詩型に形をととのえて、世界中の、まず子どもたちの間で広まっていった。・・・

(略)


いのちのチョーク

・・・

なぜ北欧の詩人が、日本の明治の俳人に心を寄せていったのか。それは致命的な病気を通してのことであったようだ。

トランストロンメルさんは、脳卒中で言葉と右半身の動きを失ったのである。詩人が言葉を失うという致命的な打撃の中で、極東の国に、病床六尺の中、恐るべき気力で詩作に励み、詩の革新に挑んだ詩人を知ったのだ。

極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。

「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。

正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。

「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。

言葉を失い、半身不随となった彼は、詩人として深く長い混迷の中に落ちる。そのとき、”思いがけぬ空地”、つまり正岡子規の『仰臥漫録』に出会ったのだろう。

(中略)


つづく