2023年1月25日水曜日

自宅周辺の白梅・紅梅 あたみ桜開花中 河津桜開花始まる 2023-01-25

 1月25日(水)はれ

今日は最高気温5℃。

午後から自宅周辺(電車に乗らない範囲)を散歩。梅、桜スポットを廻った。



▼カワヅザクラ(河津桜)咲き始め


▼あたみ桜




岸田首相の命取りに? 防衛産業から自民に献金1.5億円、癒着利権を追及されれば説明不能(日刊ゲンダイ)

逃げ隠れを許すな! → 安倍元首相と旧統一教会は「大昔から関係が深い」 細田氏が認識示す / 細田氏、旧統一教会めぐり懇談 「悪い団体との認識、なかった」「議長が会見、ふさわしくない」(朝日);「自民と距離を縮める日本維新の会の中司宏氏は『やるべきことは他にもある。一区切りとしたい』と、細田氏の追及はこれでやめるとの立場を強調した」

〈藤原定家の時代251〉文治3(1187)年5月2日~6月29日 公卿以下の意見封事(国家再建の意見書)17通 後鳥羽天皇の神器宝剣探査令 頼朝、次第に朝廷内部に進出 伊勢国での地頭を巡る争い       

 


〈藤原定家の時代250〉文治3(1187)年3月5日~4月29日 栄西、再び入宋 義経を匿った容疑で捕らわれた興福寺僧侶「周防得業聖弘」、頼朝に対面 壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られる より続く

文治3(1187)年

5月2日

・後白河法皇、田楽を見る。

5月4日

・義経が4月30日に美作の山寺で斬られたとの風聞が京都に伝わる(「玉葉」同日条)。勝賢が義経追討の祈祷中。兼実は、それが事実ならば、「天下の悦び」であり、様々な修法を行ってきたが、その霊験の現れだと記す(『玉葉』5月4日条)。義経の奥州下向などまったく知らないという書きぶり。

5月14日

・源頼朝御教書案。

「近衛殿より仰せ下さるる嶋津庄官訴え申す、宰府として先例に背き、今年始め以て唐船着岸の物を押し取る事、解状これを遣わす。早く新儀を停止し、元の如く庄家に付けしむべきなり。・・・」(「島津家文書」)。

5月23日

・兼実、公卿以下の意見封事17通を後白河(61)に提出。

前年、兼実は国家再建策について意見を聴取すること(意見封事(ふうじ))を後白河に提案し、翌年3月、兼実の主導の下、院宣によって意見の聴取がおこなわれた。このときの意見封事は、この日、17通の意見が後白河に奏上され、院御所での議定のうえ、建久2年3月28日に出された公家新制(天皇が出した法令)に反映された。    

5月26日

「宇治蔵人三郎義定の代官、伊勢の国齋宮寮田櫛田郷内の所処を押領すと。糺明せらるべきの旨、仙洞よりこれを仰せ下さる。即ち義定に尋ね問わるるの処、在鎌倉すでに多年に及ぶの間、彼の国の子細を知らず。眼代を召し進すべきの由これを謝し申す。而るを理訴を懐かば、追って言上すべきか。今群行の期に臨み、武家の輩、件の式田を押領するの旨、勅定を含みながらその科に行われずんば、御旨を軽んずるに似たり。仍って義定の恩地を収公せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月28日

・藤原定家(26)、最勝講に参仕、堂童子を勤める(「玉葉」)

6月3日

後鳥羽天皇、厳島神社神主佐伯景弘に行方不明の神器宝剣探査令。頼朝に援助の粮米徴収令(「吾妻鏡」同日条)。

「去々年、平氏を討ち滅ぼすの時、長門国の海上において、宝剣紛失す。捜し求めらるるといヘども今に出来せず、なほ御祈禱を凝さる。厳島の神主安芸介景弘に仰せ、海人をもってこれを索めらるべきによって、粮米を申すところなり。早く西海の地頭等に召し仰すべきの旨、宣下せらる。よって今日沙汰ありて、充て催さるべきの由と云々。」(『吾妻鏡』文治3年6月3日条)

6月13日

・三河の申請により出挙制を増加し今銭を停止する事を勅許。

6月18日

・頼朝、次第に朝廷内部に進出。京都の六条若宮(源氏の氏神)を整備。京都の土地を寄進し、放生会を行う。同時に、鶴ヶ岡若宮でも放生会を行うこととし、東国の荘園公領に殺生禁断を命じる。

六条若宮:

頼朝祖父の住んだ六条の屋敷の遺跡に石清水の神を勧請し、大江広元の弟の季厳阿閻梨を別当に補任し、文治元年12月土佐吾河郡の地頭職を寄進。幕府の京都における拠点とする。

6月20日

・「伊勢の国没官領の事、加藤太光員これを注進せしむに随い、地頭を補せらるるの処、彼の輩太神宮御領に於いて濫行を致すの由、所々よりその訴え有るの間、宜しく停止せしむべきの由、今日定め下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月21日

・大江広元、上洛。

7月13日、京都入り。六条若宮・頼朝宿舎の交渉もあるが、正式には後鳥羽天皇の閑院(文治元年7月大地震で損壊)の皇居修復申請が目的。11月完成(奉行藤原親能)。

6月29日

・頼朝、伊勢の国沼田の御厨で起こった地頭の押妨を調査するため、難色の正光を使として伊勢に派遣。ここの地頭は畠山重忠で、重忠は代官として内別当真正というものを現地においていた。この真正が員部(いなべ)の大領家綱の所従らの宅を検索し資財を没収したので、これを不当とした家綱が、鎌倉に訴えてきた。この時、朝は慎重な態度をとり伊勢に在国中の山城介久兼にも使を出し、正光がもし御使の権威を笠にきて、濫行をしたら、誡めた上、その詳細を報告するように命じている。

この頃、伊勢の国では、地頭・御家人らの押妨が多かった。伊勢の国は、元来が平家の根拠地である上に、義経が伊勢・美濃を通って奥州にいったといわれているため、地頭の検索はことにきびしく、地頭・御家人らの押妨が多かった。

この1ヵ月前にも、宇治蔵人三郎義定の代官が伊勢国斎宵寮田櫛田郷内の所々を押領した事件がある。これは院から訴えがあったので、頼朝は直ちに義定を尋問したところ、義定は、自分は鎌倉に多年滞在していて、伊勢の国のことをよくしらない。代官をよぴよせて調査する、といって謝った。頼朝は、理非はともあれ院の仰せであるから、というので、義定の所領を没収した。

そして6月20日には、伊勢の神宮領の地頭らに下文を出して、押領をしてはいけない、神宮の神役をつとめるように、と注意を与えた。

「伊勢の国没官領の事、加藤太光員これを注進せしむに随い、地頭を補せらるるの処、彼の輩太神宮御領に於いて濫行を致すの由、所々よりその訴え有るの間、宜しく停止せしむべきの由、今日定め下さる。」(「吾妻鏡」同20日条)。

「雑色正光御使として、御書を帯し伊勢の国に赴く。これ当国沼田御厨は、畠山の次郎重忠所領の地頭職なり。而るに重忠眼代の内別当眞正、員部大領家綱が所従等の宅を追捕せしめ、資財を没収するの間、家綱神人等を差し進し訴え申せしむ。仍ってその科を糺し行われんが為なり。また正光事を御使に寄せ、濫行を現すに於いては、誡めを加え子細を言上すべきの趣、山城の介久兼(彼の国に在りと)に仰せ遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


2023年1月24日火曜日

湘南海岸散歩 稲村ケ崎~由比ヶ浜 大巧寺(梅、椿) 本覚寺の梅 ランチは稲村ケ崎の「日本料理 吟」さんで 2023-01-24

 1月24日(火)曇りのち晴れ

今日から明日にかけて列島は10年に一度という寒波が襲来している。が、今日に限って言えば、横浜~鎌倉では朝のうちにパラパラ雨が降ったが、その後は晴れに転じた。

今日は、稲村ケ崎の「吟」さんという日本料理のお店でランチ。その後、稲村ケ崎~由比ヶ浜経由鎌倉駅まで歩いた。総歩数は1万5千歩。

▼残念ながら、稲村ケ崎から富士山は望めず。風も強く、砂がバチバチ顔に当たるくらい。

ただ、坂ノ下海岸から由比ガ浜にかけては、強めの風ではあっても、逆に気持ちいいくらいだった。





▼鎌倉駅まできたので、本覚寺と大巧寺に立ち寄った。
本覚寺の紅梅と大巧寺の白梅、椿(銀閣寺薮)。大巧寺の氷室雪月花(椿)も咲き始めていたが、写真がイマイチなので割愛。



▼「日本料理 吟」
建物は著名な医師の所有とか。お料理は落ち着いた洋館で戴くのだが、実は正面入り口には、初代の所有者が移築したというどこかのお寺の山門が、、、。庭には神社があったり、茶室があったり、、、。
料理は純日本料理。お酒も美味しかった。





▼今日戴いたお酒の一つがコレ ↓

 



 

国会軽視批判に岸田首相反論 「国政預かるのは政府・与党」(時事);「共産党の吉良佳子氏は先の首相訪米に触れ、「重大な方針転換を国会より前に米国に報告するなんて順序が逆ではないか」と追及。首相は「米国には日本の現状を説明した。『国会より米国重視』ということではない」と語った」    

<社説>首相施政方針 政策転換の説得力欠く(東京);「首相は演説の冒頭『政治とは慎重な議論と検討を重ねた上に決断し、決断を国民の代表が議論し、最終的に実行に移す営みだ』と述べた~首相が、国民の代表で構成する国会審議を、自らの決断を実行するための手続きに過ぎないと考えているなら不問にはできない」 / 岸田首相の「聞く力」はどこに…? 国会素通りの安保大転換を正当化 少子化対策は「異次元」消え本気度に疑問符 / 増税が既定路線の発言に終始…岸田首相の施政方針演説 少子化対策は具体策語らず、旧統一教会問題は短く(東京) / マイナンバーカードについて、「コンサートのチケット購入などでの活用も」と、、、 ← ちっちゃい!            



 

新たなる政治の空騒ぎ 憲法学者の蟻川恒正さんが見た日本の姿 寄稿(朝日);「このような『戦後の安全保障政策の大転換』を、岸田文雄首相が、憲法9条に即した説明をしないまま、国会審議を待たずに、それどころか、臨時国会閉会後を待って、閣議決定したことそれ自体が、最大の争点でなければならない」     



 

自民12県連で関係遮断確認せず 統一選の旧統一教会対応(共同);「自民は昨年10月、ガバナンス・コード(統治原則)と呼ばれる党行動指針を改定し、都道府県連に対し関係遮断の徹底を通知。統一地方選の公認・推薦でも順守するよう求めている。」   

 

〈藤原定家の時代250〉文治3(1187)年3月5日~4月29日 栄西、再び入宋 義経を匿った容疑で捕らわれた興福寺僧侶「周防得業聖弘」、頼朝に対面 壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られる    

 


〈藤原定家の時代249〉文治3(1187)年1月1日~2月28日 義経(29)、伊勢・美濃など経て北陸路から陸奥に至る(藤原秀衡を頼る) 源通親従二位 丹後局従三位 九条兼実の嫡男良通急没 より続く

文治3(1187)年

3月

・栄西、再び入宋

3月5日

・義経が奥州にいるとの諸人の申状が一致(「吾妻鏡」同日状)。頼朝、義経が陸奥に所在し、藤原秀衡が義経に与同との情報に基づき、義経を召尋するよう京都に申し入れ、一条能保からの返書により、義経の奥州入り判明。

3月6日

・幕府、美濃の守護大内惟義の申請で同国に新駅を設置。

3月6日

・高野山で、保元以来の争乱で戦死した人びとのための追善と、頼朝と対立して姿をくらましている義経追捕のため、祈祷がおこなわれる。高野山の長者御室であった心蓮院俊証から検校のもとに院宣が伝えられ、それに基づいて行われた法要であった。

3月8日

・鎌倉、義経を匿った疑いで捕らえられた奈良興福寺僧侶「周防得業聖弘」、鎌倉に送られ、小山朝光に預けられ、この日頼朝と対面。

頼朝は、義経のために祈祷をし、しかも同意結構した真意を問う。聖弘は、祈祷の件は、義経からの慇懃なる依頼により、平氏追討の成功を祈ったまでで、それは報国の志である。また、義経が関東の譴責を受けて、師檀の関係から私(聖弘)を頼ってきたので、頼朝に謝るように諭して、下法師を副えて伊賀まで送り、後は音信がない。謀反を祈ったわけでもなく、諭して逆心を宥めたのに、どうして与同といわれるのか。と、自分の立場を弁明したうえで、頼朝に対して痛烈な批判を浴びせる。

関東の安全は、ひとえに義経の武功によっている。ところが、貴方(頼朝)は、讒言を真に受け、それまでの義経の奉公を忘れ、恩賞の地を召し返した。それでは、義経に逆心が起るのも当然のこと。すみやかに怒りを鎮め、和平の心をもって義経を呼び戻し、兄弟が魚水の思いをなせば、それこそ治国のはかりごとというものだ。これはけっして義経に同情して言っているのではない。天下が鎮まることを願ってのことだと述べる。

これには頼朝も感心し、勝長寿院の供僧職(ぐそうしき)に任命し、関東の繁栄を祈ることを命じたという(『吾妻鏡』3月8日条)。

聖弘の言い分はまさに正論であり、聖弘のように頼朝に面と向かって言う人はいなかったにしても、当時そういう思いを抱いていた人は多かったのでないだろうか。しかし、頼朝は感心こそすれ、それに従うはずもない。聖弘を罰せず、勝長寿院供僧職に任命したことは、頼朝の評価される行為として肯定的に解釈するのが普通であるが、興福寺の僧である聖弘からすれば、それは鎌倉拘禁にも等しく、頼朝は体よく聖弘を罰しているという解釈も成り立つ

「凡そ倩々関東の安全を案ずるに、ただ豫州の武功に在らんか。而るに讒訴を聞こし食し、忽ち奉公を忘れ、恩賞の地を召し返さるるの時、逆心を発すの條、人間の所堪然るべき事か。速やかに日来の御気色を翻し、和平の儀に就いて、豫州を召し還され、兄弟魚水の思いを成さしめ給わば、治国の謀りを為すべきなり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月10日

・夜須の七郎行宗は、壇ノ浦で岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにするという功を立てるが、これは行宗の手によるものではないと主張する梶原景時との間で激しい論争となる。論争の結果は行宗の勝ちと判定され、景時は讒訴の咎で道路工事を命ぜられ。建久元年(1191)、頼朝によって正式に所領を安堵される。

「土佐の国住人夜須の七郎行宗と梶原平三景時と対問を遂ぐ。二品直にこれを決断せしめ給う。行宗壇浦合戦の時、平氏の家人周防の国住人岩国の二郎兼秀・同三郎兼季等を生虜り召し進せをはんぬ。その功に募り賞に行わるべきの由、日来言上するの処、景時支え申して云く、彼の合戦の比、全く夜須と称するの者無し。件の兼秀等は、自然帰降の輩なり。年序を経るの後、行宗奸曲を廻らし、子細を申すの由これを訴え申す。而るに行宗彼の時は、春日部兵衛の尉と同船に乗らしむの由、陳謝せしむの間、春日部を召し出し尋ね問わるるの処、勿論の旨を申す。すでに分明の證人たり。仍って賞に加えらるべきの趣、行宗に仰せ含めらる。景時讒訴の科に依って、鎌倉中の道路を作るべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月11日

・藤原定家(26)、石清水臨時祭も舞人欠如により領状す(「玉葉」)。

3月17日

・藤原成範(53)没

3月18日

・一条能保の使者が、天台座主全玄の請文を持って鎌倉着。頼朝の命により義経に同意の比叡山の僧民部禅師の捕縛を座主全玄に命じたが、姿をくらましたというので、再び禅師を捕らえるように後白河を通じての下知に対しての請文(『吾妻鏡』3月18日条)。

3月27日

「人告げて云く、法皇去る二十二日より御不予の事有り。大略瘧病の如しと。今旦洛に入御す。昨日大事発せしめ給う。今日無為すと。」(「玉葉」同日条)。

「酉の刻人告げて云く、大略御平復か。頻りに御尋ね有りと。仍って宮参す(秉燭の程なり)。兼雅卿を以て仰せ下されて云く、只今の如きすでに平復なり。・・・」(「玉葉」4月13日条)。

4月1日

・頼朝、京都周辺に邸宅建立許可を求める(「吾妻鏡」同日条)。紆余曲折の末、平頼盛邸の池殿(平氏の六波羅邸)とされ、建久元年の頼朝上洛時、ここが与えられる。

4月3日

・藤原定家(26)、所労の兼実の使として鳥羽殿祇候(「玉葉」)

4月4日

・義経の所在が不明のため鶴岡八幡宮以下の神社仏寺に発見の祈祷を行わせる。鶴岡八幡若宮別当が上野金剛寺で義経に遭う夢想を得たと報告(「吾妻鏡」同日状)。

4月19日

・「前の大蔵卿泰経出仕の事、勅許有るべきの趣、去る月六日の院宣到着せしむ所なり。而るにこの事度々仰せ下さるるの上、二品の御欝憤漸く休ましめんと欲するの間、帰京を免さるべきの由、内々これを申さるると雖も、また与儀有り。昵近奉公の事に於いては、暫く勅許有るべからざるの旨申さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月23日

・壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られることになる。

「権大納言実家卿参入、尊号の事を行ふ。〈先帝を安徳天皇と号す〉」(『百錬抄』)

「又先朝の諡号の勅を下さる。〈延暦の例なり〉上卿新大納言実家卿、内記内覧のため持ち来たる。見了り返し給ふ。仰せ、清書の内覧を免ずる由仰せ了んぬ。抑近例勅書御画(おんはかりごと)無し。然れども大事に於ては、若しは御画あるべきか。大唐六典の文かくの如しと云々。仍つて参内せんとする処、猶不審に依り、勘例所見無し。随つて又公式令の説、延長・天暦等の例に依り、御画無き由所見あり。仍つて参内せず。」(『玉葉』)

〈延暦の例〉というのは、藤原種継の暗殺事件に連座して皇太子を下ろされ淡路に配流される途中船の中で自殺した早良(さがら)親王の霊を慰めるため、延暦19年(800)に淡路の墓を修理して山陵と称し、崇道天皇という追号を贈ったことを指したものであるが、2年前の建議の折に〈追而書〉として兼実が書き加えた、「崇遺天皇以下の例、或は太子たり、或は親王たり。依って帝王の号を贈る。その理然るべし。今度の儀に似ず。院号の条、又物議に叶はざるか。何ぞ只諡号を以て詮となすべきか。かくの如き間の事、委しく沙汰あるべきか。廃朝錫紵の事、専ら行はるべからざるなり」という意見が考慮され、〈太子〉でも〈院〉でもなくはっきりと〈天皇〉としての諡号が贈られた。〈徳を安ずる〉というその名に、非業の死を遂げた幼帝に対する鎮魂の祈りが込められている

4月23日

「周防の国は、去年四月五日、東大寺造営の為寄付せらるるの間、材木の事、彼の国に於いて杣取り等有り。而るに御家人少々武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、勧進聖人重源在廰等の状を取り、公家に訴え申すの間、その解状を関東に下さる。子細を尋ね仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月24日

「晩頭権の弁定長来たり。語りて曰く、頼朝卿上洛料の地を申請す。親能を以て申す所なり。山科沢殿の辺を指し申すと。而るに許さず。事の次第、凡そ左右に能わずと。具旨記し尽くし難きなり。今夕左大臣の意見到来す。武士濫行の事、委しくこれを注し申す。万人憚りてこれを申さず。元老の臣、猶直に謂うべきものか。」(「玉葉」同日条)。

4月29日

「三月の公卿勅使駅家の雑事、伊勢の国の地頭御家人等、多く以て対捍するの間、在廰等の注進状を召しこれを下さる。仍って今日二品彼の目録を覧る。不法の輩に仰せ、向後の懈緩を誡めらるべきの由、厳密の御沙汰に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく