2009年4月3日金曜日

石垣山一夜城(1) 小田原城落城す












石垣山城へは、小田急入生田駅から約1時間の山道、或いはJR早川駅から約30分の山道。私たちは、長興山のしだれ桜見学の後でしたので、前者から後者の道を辿りました。この日は、7~8km歩いた勘定です。
*
このお城、「一夜城」の名称から想像すると、俄か造りの仮の城のイメージが強いですが、なかなかどうして堅固なお城です。
③は二の丸跡、④は本丸跡です。
*
近々、「小田原落城記」をUPする予定ですので、そちらで経緯を詳述しますが、以下さわりを・・・。
*
天正18年(1590)年3月1日
・秀吉、小田原へ向け軍3万2千を率い京都を出陣。 羽柴秀康(17)・島津久保(18)も従う。3日、近江八幡に到着。4日、近江柏原へ進む。柏原成菩提院に泊。5日、美濃大垣城に到着。6日、尾張清洲城着。
*
秀吉が清洲~駿府~沼津に到着する3月末頃には、小田原攻囲の陣容・補給態勢の全てが整う。
総軍団は、機能面では、東海(家康)衆は「先手」、中国勢は「後備」、四国勢は「助の衆」、南海勢は「普請の衆」という、整然とした役割分担をもって編成された統一軍団である。
*
秀吉得意の「干殺し」兵粮攻め作戦
北条氏の分国は、駿東~伊豆・相模・武蔵・上野~下野・上総・下総に及び、多くの屈強な支城を擁している為、豊臣方は支城の一つ一つを潰しながら最後に本城を落とす作戦を採用。
海上は水軍で封鎖し、秀吉自身は眼下に小田原城を見下ろす石垣山城を本陣として腰を据える(4月6日築城開始、6月26日完成、秀吉入城)。
秀吉は、「大将のことは申すに及ばず、下々までほしころしに」と号令。
*
千利休(69、切腹の前年)随行。秀吉は御咄衆・能役者・連歌師などを伴い、陣中の無聊を慰めるが、利休もこれに随行。子の道安や宗凡(宗及の子)・針犀宗和なども同行。
*
3月11日
・秀吉、利休の愛弟子で秀吉の茶頭の一人でもある山上宗二(46)を箱根湯本で処刑。
「小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給ひし」(「長闇堂記」)。
直言癖により、秀吉に嫌われ、天正11年以来、諸国流浪の旅に出ていたが、小田原で秀吉に出くわし、利休のとりなしで一旦は許されるものの、早雲寺本堂での茶会で秀吉を罵倒。
*
7月5日
小田原城落城
北条氏直(家康女婿)、氏政にことわらず弟氏房を伴い小田原城を出て豊臣軍信雄の陣所に出頭。
秀吉、氏政・氏照・松田憲秀・大導寺政繁に切腹命ず。
6日、小田原城明渡し(接収は家康に委ねられる)。
氏直の上総・下総の所領安堵される。氏規、小田原城到着。
*
「関白殿、只人非ズ」「日本国六十余州、嶋々まで一円ご存分に帰りおわんぬ。」(「多聞院日記」)
*
7月6日
・奥羽仕置。
会津進発公表。北関東の佐竹・宇都宮氏には宇都宮陣所設営と奥州への先陣命令。
小田原に参例しなかった小山秀綱の所領没収宣言。
佐竹氏は、石田・増田両奉行より兵糧米を要求され、領内への割付けと夫々の所領の高の届出を命令。
* 
7月9日 
・北条氏政(53)と弟氏照(50)、城を出て医師田村安清屋敷へ。11日、秀吉、氏政・氏照寓居へ中村一氏派遣、氏政・氏照切腹。19日、北条氏重臣大道寺政繁(58)、自刃。
*
7月13日
・秀吉、石垣城より小田原城入り。論功行賞。
家康の旧領を没収して関東8国(伊豆・相模・上野・下野・武蔵・上総・下総)を与える。8月1日、家康、江戸入り。
中納言秀次、尾張・北伊勢5郡(清洲城主)。
蒲生氏郷、会津黒川40万石(伊達政宗所領を没収)。
家康の領国5ヶ国は織田信雄の所領とする(信雄、移封を拒否し、後に、2万石で下野那須烏山に追放。代って豊臣直参家臣団が封じられる。三河岡崎に田中吉政、三河吉田に池田輝政、遠江浜松に堀尾吉晴、遠江掛川に山内一豊、駿河に中村一氏、甲斐に加藤光泰)。伊達政宗は米沢に本拠を移す。
信濃の諸将を関東に移し仙石秀久・石川数正らを信濃に配置。
京極高次には八幡山2万8千石与える。
*
7月20日
・北条氏直(家康娘督姫とは離縁)、500石扶持として高野山へ放逐。氏規・氏房一族、大導寺直繁、松田直憲ら300人が従う。
氏直、後に、下野足利9,000等を与えられる。天正19年11月4日、大阪で没。
氏規、河内丹内に6,900石を与えられる。慶長5年2月8日没。

0 件のコメント: