治承4(1180)年8月9日~16日
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8月9日
・渋谷重国の許に身を寄せている佐々木秀義は、大庭景親より平家の侍大将忠清の話を聞き、嫡男定綱を使者に出し頼朝に通報。
頼朝は、定綱が必ず戻るというの、渋谷重国に宛てて「頼りにしている」との手紙を持たせ返す。
しかし、約束の山木攻め前日(16日)になっても佐々木は参上しない。
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「近江の国の住人佐々木の源三秀義と云う者有り。
平治逆乱の時、左典厩の御方に候し、戦場に於いて兵略を竭す。
而るに武衛坐事の後、旧好を忘れ奉らずして、平家の権勢に諛わざるが故、相伝の地佐々木庄を得替するの間、子息等を相率い、秀衡(秀義姨母の夫なり)を恃み奥州に赴く。相模の国に至るの刻、渋谷庄司重国秀義が勇敢を感ずるの余り、これをして留置せしむの間、当国に住しすでに二十年を送りをはんぬ。この間、子息定綱・盛綱等に於いては、武衛の門下に候ずる所なり。
而るに今日、大庭の三郎景親秀義を招き談りて云く、景親在京の時、上総の介忠清(平家の侍)に対面するの際、忠清一封の書状を披き、景親に読み聴かせしむ。これ長田入道が状なり。
その詞に云く、北條の四郎・比企掃部の允等、前の武衛を大将軍と為し、叛逆の志を顕わさんと欲すてえり。
読み終わり、忠清云く、この事常篇に絶す。高倉宮御事の後、 諸国の源氏の安否を糺行すべきの由、沙汰の最中、この状到着す。定めて子細有らんか。早く相国禅閤に覧するべきの状なりと。
景親答えて云く、北條はすでに彼の縁者たるの間、その意を知らず。掃部の允は早世する者なりてえり。
景親これを聞きて以降、意潜かに周章す。貴客と年来芳約有るが故なり。仍って今またこれを漏脱す。賢息佐々木の太郎等、武衛の御方に候せられんか。尤も用意有るべき事なりと。
秀義心中驚騒の外他に無し。委細の談話に能わず、帰りをはんぬと。」(「吾妻鏡」9日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「近江国の住人に佐々木源三秀義という者がいた。平治の乱の時に左典厩(義朝)の味方に参じ、戦場では兵略をつくして戦った。
そして武衛(頼朝)が縁坐で配流された後も昔からの誼を忘れず、平家の権勢にもおもねらなかった為、祖先からの相伝の地佐々木庄を取り上げられてしまったので、子息らと、秀義の母方の伯母の夫(藤原)秀衡を頼って奥州に向かった。
相模国まで来たところ、渋谷庄司重国が秀義の勇敢な行動に感心し、自分の所へ留め置いたので、相模国に住み着き、20年が経った。その間に、子の定綱・盛綱は頼朝に仕えるようになっていた。
そして、今日、大庭三郎景親が秀義を招いて次のように言った。
「私が在京していた時、平家の侍上総介(藤原)忠清と対面したところ、忠清が一通の書状を私に読んで聞かせた。それは長田入道の書状であった。
その書状には、北条四郎(時政)と比企掃部允が頼朝を大将軍として叛逆しようとしているとあった。
読み終わって忠清には、『これは尋常なことではない。高倉宮(以仁王)の事件があった後、諸国の源氏の動きを取り締まるように命令が出ている最中にこの書状が到着した。これはきっとなにかあるに違いない。早くこれを相国禅閤(清盛)にお見せしなければ』と言った。
私はこう答えた。『北条はすでに頼朝の縁者であるからその意図は知れません。比企掃部允はすでに亡くなっています』。
私はこの話を聞いてから以降、心中穏やかではなくなった。あなたとの年来の約束があるからだ。そこで今またこのことをあなたに密かに伝えるのだ。御子息の佐々木太郎(定綱)は頼朝の味方に参じているようだから、当然用意をしておくべきであろう」。
秀義は心中驚くのみで、細かな話をすることもできずに帰ったという。」
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○渋谷重国(生没年未詳)。
秩父平氏の一族。相模国渋谷の開発領主として入部。渋谷氏を称し、領家円満院(園城寺門跡)から吉田庄の下司職を得る。佐々木義秀・大庭景親と縁戚関係を結び、所領を維持。
頼朝挙兵の報が景親を通して義秀からもたらされるが、頼朝に従う佐々木定網らを黙認し、石橋山合戦後も佐々木氏を庇護。
富士川合戦後、頼朝に帰順。
養和元(1181)年8月、子の高重の忠節により、渋谷下郷の知行を安堵され、御家人として従う。
元暦(1184)元年正月、義仲追討に従軍。
翌年2月、平家追討で芦屋浦に先登し、太宰少弐原田種直・子の賀摩種益らと戦う。この戦いで「かの輩攻め戦ふといヘビも、重国がために射られおはんぬ」(「吾妻鏡」元暦2年2月1日条)と戦功を挙げるが、子の重資の自由任官で恩賞から外れる。
その後、鎌倉の留守居役を預かり、また大庭周辺の牧を管理し、伝馬を提供するなど幕府の公事を勤める。
文治5年(1189)11月、大庭野の巻狩に出向いた頼朝を館に迎える。
建久3年(1192)12月、頼朝の認可で吉田庄は地頭請所となり、領家への年貢は幕府政所の管理とされ、地頭として所領支配を行なう。
後に「吾妻鏡」編纂の頃から吉田庄は「渋谷庄」とも称される。
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8月10日
「秀義、嫡男佐々木の太郎定綱(近年宇都宮に在り。この間渋谷に来たる)を以て、昨日景親が談る所の趣、武衛に申し送ると。」(「吾妻鏡」10日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「(佐々木)秀義が嫡男の佐々木太郎定綱(近年宇津宮にいて、最近渋谷に来ていた)を使者として、昨日(大庭)景親が話した内容を武衛(頼朝)に伝えたという。」
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8月10日過ぎ
・荒れ果てた京へと帰って来た大納言藤原実定、近衛河原の妹・太皇太后多子の御所を訪問。「平家物語」「月見」の章の始まり。
実定「旧き都をきてみれば浅茅が原とぞあれにける 月の光は隈無くて秋風のみぞ身にはしむ」。
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8月11日
「定綱、父秀義の使いとして北條に参着す。
景親の申状、具に以て上啓するの処、仰せに云く、この事四月以来、丹府動中のものなり。仍って近日素意を表わさんと欲するの間、召しに遣わすべきの処参上す。尤も優賞有るべし。兼ねてまた秀義最前に告げ申す。太だ以て神妙と。」(「吾妻鏡」11日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「辛卯。(佐々木)定綱が父秀義の使者として北条に到着した。
(大庭)景親の話した内容を詳しく申し上げたところ、(頼朝は)仰った。「このことは、四月以来心中に熟慮していたことだ。そこで、近いうちに真意を伝えるために呼び寄せようとしたところに参上してきた。当然賞賛されることである。また秀義が真っ先に知らせてきたことはまことに結構なことである」。」
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8月12日
「兼隆を征せらるべき事、来十七日を以てその期に定めらる。而るに殊に岡崎の四郎義實・同輿一義忠を恃み思し食さるるの間、十七日以前、土肥の次郎實平を相伴い参向すべきの由、今日義實が許に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」12日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「(山木)兼隆を討つ事は、来る十七日をその決行日と定められた。そこで、特に岡崎四郎義実・同与一義忠を頼りに思い、十七日以前に、土肥次郎実平と共に参上するよう、今日義美のもとに命を伝えられたという。」
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○義忠(1148久安4~1180治承4):
岡崎義実の男。母は中村宗平の女。岡崎与(余)一・佐奈田余一と称される。
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8月12日
・この度の福原行幸は「遷都」か「遷幸」か(福原は「新都」か「離宮」か)、福原での議論(「山槐記」8月12日条)。
8月上旬頃には落着。
福原は離宮として営む、従って八省大内を造るには及ばない、大小の路は便宜開き、しかるべき卿相侍臣を選んで宅地をあてる、大嘗会は延引。
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同日
・福原で、古京(京都)へ還るべき議がもち上がり、隆李と時忠とが相談して清盛にこれを伝える。
、清盛は、「尤も然るべし、但し老法師(清盛)においては御共に参るべからず(結構なことだ。しかしこの老法師はご一緒しません)」と言う。人々は興ざめし、その後還都のことは言わなくなった、とある。(「玉葉」8月12日)。
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8月13日
「定綱明暁帰りをはんぬべきの由を申す。
武衛これを留めしめ給うと雖も、甲冑等を相具し、参上すべきことを称す。仍って身の暇を賜う。
仰せに曰く、兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す、来十六日必ず帰参すべしてえり。また定綱に付け、御書を渋谷庄司重国に遣わさる。これ則ち恃み思し食さるるの趣なり。」(「吾妻鏡」13日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「(佐々木)定綱は明朝に帰るつもりであると申したので、武衛(頼朝)は引き留めたが、甲胃を着けて参上するという。そこで帰国を認め、「兼隆を誅して挙兵の始めとしたい。来る十六日には必ず戻ってくるように」と命じる。また、定綱に託して、手紙を渋谷庄司重国に送る。それは、重国を頼りに思っているという内容であった。」
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8月16日
「佐々木兄弟今日参着すべきの由、仰せ含めらるるの処、不参して暮れをはんぬ。
いよいよ人数無きの間、明暁兼隆を誅せらるべき事、聊か御猶予有り。
十八日は、御幼稚の当初より、正観音像を安置し奉り、放生の事を専らせられ、多年を歴るなり。今更これを犯し難し。十九日は、露顕その疑い有るべからず。
而るに渋谷庄司重国当時恩の為平家に仕う。佐々木と渋谷とまた同意の者なり。一旦の志に感じ、左右無く密事を彼の輩に仰せ含めらるるの條、今日不参に依って、頻りに後悔し、御心中を労わしめ給うと。」(「吾妻鏡」16日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「・・・佐々木兄弟には今日参着せよと命じていたのが、参上しないまま日が暮れた。
人数がまことに少ないので、明朝に(山木)兼隆を討つことを延期しようかと躊躇う。
十八日は、幼少の頃からずっと正観音を安置して殺生を止めているので、今となってこれに反するようなことはできない。十九日では、事が露顕してしまうことは疑いない。
そして渋谷重国は平家に恩があって仕えており、佐々木は渋谷に同心するであろう。一旦の志に感じて深く考えずに密事を彼らに伝えたが、今日彼らが参上しなかったのでとても後悔し、ご心中を悩ませていたという。」
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