2010年4月24日土曜日

根津 「はん亭」物語

過日、ブックオフのセールで森まゆみ「東京遺産」(岩波新書)という本を購入。
この本の中に、先に「湯島・根津・本郷・千駄木(4)」でご紹介した根津の串揚げ屋さん「はん亭」について書かれている個所があった。
以下、あらすじをご紹介。
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その前に・・・。
森まゆみさんという方の本は、別に「明治・大正を食べ歩く」(PHP新書)というのもまたブックオフのセールで購入し、東京街歩きの参考にさせて戴いている。
更に、今、私は樋口一葉にちょっとハマっており、評伝・日記などを読んでいる最中だが、森まゆみさんは、一葉に関する本も書かれている。
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「はん亭」
 

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「この建物は大正三年に建ったもの。三田の爪皮屋(ツマカワヤ)といえば鳴りひびいた商家であった。
雨や泥よけに下駄の鼻緒にかぶせる爪皮を商う店である。・・・「はん亭」の主人高須治雄さんに聞く。
「はじめてこの家を見たときは波板塀で囲った、どこかの運送会社の独身寮でした。そのころ上野仲通り、本牧事の裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやってたんですが、なんせ自宅が十条で遠いので、店の終わったあと帰るのがつらかった。
一目見てこの家に惚れたんですね。ブラブラ歩いているうちに根津まで来て、よくここに、こんな建物があるなあって。区役所で持主を調べ、もし売ることがあったら声をかけてくれ、と頼みました。三回くらい持主の所へいったですかね。向こうは最初物好きがいるもんだと、相手にしてくれなかったけど、そのうち会社の景気が悪くなったのか、売ってもいいという話になった。
その時あわてました。まだ中も見たことなかったし、土台や構造がどこまで持つかわからなかったし。芸大の建築科の友人に見てもらったところ、多少柱がゆがんでいるとか、二階で鉛筆をころがすとコロコロ程度のことはあるけど、基礎も柱もビクともしていない。あと数十年は持つって太鼓判でした。それで十条の家を手放して買ったわけです。おかげさまで、どうにか手に負える値段でした。
最初は自分で住んでました。両親含めて六人家族、いまどき便利な町中でこんな広い所に住めないよ、マンション買うよりいいでしょ、と説得して根津に引っ越した。住めるように手をいれるまでも大変でした。
運送会社の季節労働者用の寮ですから、中の荒れ果てようったらない。ベニヤで仕切って外はプラスチックの波板囲い。大工さんを紹介してもらったら、こりゃ金くい虫だぜ、いくらかかるかわかんねえといわれましたが、こっちは本物の部材で再生させたいって情熱があった。大工も一徹な人で、よし、わかった、といったらきかない。よくケンカもしましたが、とことん、手を抜きませんでしたね。
そのうち、上野の店の周りの環境が悪くなった。ピンクサロンや覗き部屋が客引きするので、うちのお客さまが道を歩きづらい。最初は、も少し静かな変わった所で食べたいというお客様を自宅でおもてなしするつもりでいましたが、お客さまがどの方も来たいとおっしゃる。それで上野の店は若い人にまかせ『くし一』より半歩でも前に進みたいと、ここに『はん亭』ののれんを上ザた。そのうち両親が相ついで亡くなったこともあって、家族は近くに家を借りて、ここは全面的に店になってしまいました」
・・・最初はその大テーブルとその上の二、三階だけだったが、徐々に店を拡張し、蔵やその外の部分も改装し、客席を増やした。茶房はん事も併設した。
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・・・
「こんな話、初めてするんですが、実は私は熊谷直彦という日本画家のひ孫なんですよ。この人は芸州浅野侯のお抱え絵師でした。奥女中を養女にしてその人が本郷の二原堂という大きな印刷屋、富谷といううちですが、そこに嫁に行って生れたのが私の母です。父の方は薩摩の出で、早稲田を出て国鉄へつとめてまして、戦時中、満州に汽車を走らせたりした技術者でした。
だから、あまりこういう商売とは関係ない。私は昭和五年生れで引揚げなんですよ。満州からソウル、プサンへとだんだん南下して、日本に引き揚げてからは親戚の家を転々としました。
映画の仕事をしたかったんで日大の芸術学部を出たんですが、母が内田吐夢監督の奥さんと友だちでね。聞いたら、映画なんて絶対やめろと。それでも映像の仕事がしたくって、NHKの試験放送のころ、フロアディレクターみたいなことをしてましたね。そのうち民放が始まり、電通に入ってテレビラジオ企画局ってところで、あのころ電気紙芝居なんていってましたが、ずいぶんテレビCMなんかつくりました。
CMの天才といわれた杉山登志なんかといっしょにやってた。結局、彼は〝夢がないのに夢のあるCMなんてつくれない〞といった名セリフを残して自殺しちゃったわけだけど、私はこの男はいつか死ぬんじゃないかなあ、と思ってましたよ、見てて。
そのころ銀座に『くしの坊』という串揚げ屋があって、そこの学生アルバイトと親しくなった。独立して銀座コリドー街の地下で『くし一』を始めたら当ってね。
うちは長女が難産でした。女房をお産で苦労させたから、次に男の子が生れたら、会社をやめて、僕もちがった人生をスタートさせるぞ、っていったんです。そしたら男の子が生れちゃいました。それで『くし一』の彼んとこに見習いに行って、仕事を覚えて上野に店を出したってわけです。」

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「★東京インデックス」をご参照下さい。
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東京遺産―保存から再生・活用へ― (岩波新書)
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明治・大正を食べ歩く PHP新書
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