一昨日(4月23日)の「朝日新聞」夕刊文化欄に、今年は「大逆事件百年」「日韓併合百年」、という記事があった。
明治43年(1910)から100年ということなんだ。
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明治43年7月23日の「原敬日記」には、
「今回の大不敬罪のごときもとより天地に容るべからざるも、実は官僚派が之を演出せりと云ふも弁解の辞なかるべしと思う。」
とあり、原敬は、政府の言う「大逆事件」を「大不敬罪」と呼び、事件を「官僚派が之を演出」と謀略の正体を見破っている(但し、原はこれを材料に政府を攻撃することはしていない)。
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石川啄木は、新聞報道を纏め、スクラップと手書きメモにより「日本無政府主義者隠謀事件経過及び附帯現象」を作成し、また友人の平出修弁護士(「明星」派歌人、鉄幹の依頼で弁護人となる)から密かに法廷資料を借りて書き写す。
これと並行して、彼は「'V' NAROD SERIES A LETTER FROM PRISON」「時代閉塞の現状」「所謂今度の事」「平信」などの詩、評論を書いている。
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この頃の啄木の歌
今思へはげに彼もまた秋水の一味なりしと知るふしもあり
時代閉塞の現状を奈何(イカ)にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
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武蔵野の粕谷村に半ば隠棲生活を送っていた徳富蘆花は、明治44年1月18日の判決後、幸徳らの救援のために、兄蘇峰が経営する「国民新聞」や桂首相に手紙を出す。しかし、手紙が届いたのかどうか、全く何の反応も見られなかった。
次に、蘆花は、面識はないが同郷(熊本県)の「朝日新聞」池辺三山に、死刑確定者12人の助命を嘆願する「天皇陛下に願い奉る」を朝日に掲載して欲しいとの手紙を書く。
1月25日午前11時頃、女中を自宅の粕谷村から新宿に向かわせ、新宿から書留で、銀座滝山町の朝日新聞社の三山に送る。
しかし、この日午後3時ごろ配達された「東京朝日」に、死刑が前日執行されたとの記事が掲載される。
そして、蘆花は再び三山に手紙を書く。
「啓 正午に手紙を仕出し、午後の三時に東京朝日をひらきて幸徳等十二名が昨日すでに刑場の露と消えたるを承知仕候、今更何をかいわん、貴紙によりて彼等の臨終の立派なりしを知り、その遺書に接するを得たるを謝せんのみ、天下これよりますます多事なるべく候」
これに対し、三山は、返書を出そうと思っていたら第二の手紙がきた、彼らはいかにも恐ろしい者たちだが、彼らを殺してもまた恐ろしい感があるのは自分も同じだ、天下これより益々多事との話も同感だ、との返書を認める。
(三山は翌45年2月28日、心臓発作で没。49歳。)
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明治44年(1911)2月1日、徳富蘆花、一高で「謀反論」講演
1月22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の弁論部主催の講演依頼。蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
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謀反論 徳富蘆花
日本はまるで筍(タケノコ)のようにずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか。狂気といおうか - 狂気でもよい - 狂気の快は不狂気の知るあたわざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るゝ人情の大潮流である。
誰がその潮流を導いたか。わが先覚の志士である。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の処士にせよ、時の権力から云えば謀反人であった。
諸君、幸徳君等は時の政府に謀反人とみなされて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るゝなかれ」 肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるゝごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きるために謀反しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」基は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀反して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはなもぬ。・・・われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう。諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀反しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑いうる。西郷も逆賊であった。しかし今日となってみれば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。
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校長新渡戸稲造、弁論部長畔柳都太郎、譴責処分。蘆花には何の処分もなし。
河上丈太郎・河合栄治郎・矢内原忠雄や「新思潮」グループ(芥川・成瀬・菊池・久米・松岡ら)に影響及ぼす。
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また、永井荷風は小説「花火」に中で、その頃の心中を吐露している。
明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も引き続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程いうにいわれない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如(シ)くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の興(アズカ)り知った事ではない - 否とやかく申すのはかえって畏(オソレ)多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をばあきれるよりはむしろ尊敬しようと思.い立ったのである。(「花火」)
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森鷗外は弁護士平出修に社会主義に対する考え方を教授し、公判を傍聴したと云う。
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夏目漱石は、文部省からの博士号授与を辞退している(明治44年2月~4月)。
漱石の文部省への手紙。
「小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。・・・小生の意思に逆って、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。・・・現今の博士制度は功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します」。
「博士問題の成行」(「東京朝日」)
「…一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をすると云ふ様な気風を養成したり、又は左様思われる程にも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。
……博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである。
……従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。」(「博士問題の成行」(「東京朝日」))
国家的恩典には浴さない、との姿勢は、大岡昇平の芸術院会員辞退や大江健三郎の文化勲章受賞辞退に引き継がれている。
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漱石はその前、西園寺公望が文士を招待した時も、
「ほととぎす厠なかばに出かねたり」
と詠んで、これを断っている。
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1 件のコメント:
<鴎外が「沈黙の塔」で、間接的に言論の自由を主張しているのを、看過すべきではない。>
<漱石が、大逆事件を直接的には黙過しているのを見逃しているのはどういう感覚か?博士号の辞退というような自分一身の身の振り方にのみ拘泥して、社会の動向に触れないのは、一種の保身でしかないようだ。>
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