明治24年4月11日
一葉(19歳)、この日から本格的に日記を書き始め、「若葉かげ」と題す。
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この頃の一葉
この年3月又は4月初め、
萩の舎を主宰する師の中嶋歌子が一葉を女学校に通わせると言ったことを頼りに、中嶋家に住み込んでいたが、入学が絶望的と判断し、菊坂の母と妹の家に戻る。
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4月15日
初めて半井桃水(30)を訪問。
一葉は小説家になる決意をし、妹くに子の友人、野々宮起久の助言で「東京朝日新聞社」の小説および雑報担当記者半井桃水を教えられ、芝区南佐久間町1丁目(現、港区西新橋1丁目)の半井家を訪問。
桃水は、一葉の強い希望を受入れ、小説の指導を承諾する。
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4月11日
この日、本所向島小梅村の邸宅に住む実業家夫人の吉田かとり子が、一葉ら萩の舎の中心メンバを花見の宴に招く。
他の人々は萩の舎に集まり、師匠と共に出かけるが、一葉は、家の中で内職仕事ばかりに追われている妹のくに子を誘って、かつては(明治14年~21年、下谷御徒町及び黒門町に住んでいた頃))父に連れられて出かけた上野東叡山の山に行き、花見をして父を偲ぶ。
明治22年に父則義が没してからは、一家は窮乏生活に陥り、縫い物や洗濯の賃仕事でようやく凌いでいる状況である。
姉妹は、上野から人力車に乗り、隅田川を吾妻橋で渡り、枕橋で降りる。秋葉神社、白髭神社、梅若塚まで散策して墨田堤の桜を楽しみ、帰りに長命寺門前で桜餅を買い母への土産にくに子に持たせて、夏子は一人で吉田家に向かう。
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「「上野の岡はさかり過ぬとか聞つれど、花は盛りに月はくまなきをのみ愛るものかは。いでやその散がたの木かげこそをかしからめ」といへば、「ならびが岡の法師(兼好法師)のまねびにや」といもうとなる人は打ゑみぬ。さすがに面(オモ)なくて得いわず成ぬるもをかし。我すむ家より上野の岡は遠きほどにてもなかりければ、まだ朝露のしげきほどに来にけり。・・・
澄田川にも心のいそげば、をしき木かげたちはなれて車坂下るほど、こゝは父君の世にい給ひし頃、花の折としなれば、いつもいつもおのれらともなひ給ひて朝夕立ならし給し所よ、とゆくりなく妹のかたるをきけば、むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ恩へ
心細しやなどいふまゝに、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ。山下といふ所よぎりて、むかし住けん宿のわたり過るほど、よの移り行さまこそいとしるけれ。まだ八とせ計(バカリ)のほどに下寺(シタデラ)といひつるおきつち所は、鉄の道引つらねて汽車の通ふ道とは成ぬ。其車とゞむる所を始め、区の役所、郵便局など其頃思ひもかけざりしものあまた所出来にたり。わがはらから難波津ならふ頃、その師のがり行とて常にこのあたり行かよふほど、「やがてはかくならん」など人の語りてきかせつれど、「そはいつのよの事なるべき。蜃気楼のたぐひにこそ」と打笑み艸(グサ)にしたりしも、よの事業の俄(ニハ)かなる、早くも聞けんやうに成にたるを、「我其折に露たがはず、何仕(ナニシ)いでたる事はなくて徒(イタヅラ)にとしのみ重ねたるよ」と打なげかれぬ。」
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山下という所を過ぎて、むかし住んでいた家のあたりを通ると、様子はすっかり変わっていた。まだ8年しかたっていないのに、下寺といっていた台地には鉄道が敷かれ汽車が通っている。駅、区役所、郵便局など、思いもしないものが沢山できている。妹と習字を習っていた頃、いつもこのあたりを通っていた。いつかはこんなになるだろうと、人々が話して聞かせてくれたが、それはいつのことだろうか、蜃気楼のようなものだろうと笑っていたのに、世の中の事業はどんどん進み、早くも、聞いた通りになってしまっている。それなのに、私たちは昔のままで何一つ為しとげたこともなく、ただ歳をとるばかりだと嘆かれた。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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