「春寒」という季語があるそうだ。
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明治26年(1893)4月6日、樋口一葉21歳の時の日記。
「桃も咲きぬ 彼岸もそここゝほころひぬ 上野も澄田も此次の日曜までは持つましなと聞くこそ いとくちをしけれ 此事なし終りて後花見のあそひせんなど まめやかに思ひ定めたる事あるをや 折しも俄かに空寒く 人はそゝろ侘あへるを あはれ 七日かほどかくてをあらなんと願ふもあやし」(「よもぎふ日記」)
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「彼岸」はヒガンザクラ、「澄田」は隅田川。
春寒が戻ってきたので、あと7日ほど桜が散らずにいてくれればと、一葉は願う。
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この頃の一葉。
創作に呻吟する一葉
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2月6日
「著作のことこゝろのままにならず。かしらはたゞいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり。こゝろざすは完全無瑕の一美人をつくらんの外なく、・・・さしも求むる美の本体、まさしくありぬべきものともなかるべきものとも、定かに見とむるは何時の暁ぞも。我れは営利のために筆をとるか、さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老たる母あり妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど、こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづらにかみくだく筆のさやの哀れうしやよの中」(「よもぎふにつ記」)
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2月9日
「心をあらひ、めをぬぐひて、誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ。いささかの井のうちにひそまりて、これより外に世はなしとさとりがほなるを、人より見んにいか斗をかしからぬ。我もそのたぐひにて我ながらしもをかしきを、此眼ひらきがたきは其ならひ性ら成りしぞかし。やみぬべき哉」
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師桃水からの文学的離脱と「文学界」同人との交流
2月23日
師の半井桃水が一葉を訪ね、桃水より著書「胡砂吹く風」(上下)を贈られる。
依然、一葉の桃水への思慕続く。「嬉しなどはよのつね、たゞ胸のみおどりぬ」と日記に書く。
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「うれしなどはしばし心地さだまりての後こそ、何事も霧の中にさまよふ様なり」と、夢中で桃水を迎える。
「明ぬれど暮ぬれど嬉しきにも悲しきにも露わすれたるひまなく、夢うつゝ身をはなれぬ人」の訪れである。
「いふべき事も覚えず間ふべき事も忘れて、面ほてりのみいと堪がたし」と、桃水への恋情を書く。
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桃水への恋情を書く一方で、通俗作家桃水への厳しい批判をも書く。
恋心を内面に抑制し、師桃水を乗り越えてより水準の高い文学を志す。
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「胡砂ふく風は朝鮮小説にて百五十回の長編なり。桃水うしもとより文章粗にして華麗と幽棲とをかき給へり。又みづからも文に勉むる所なくひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり。なれども林正元の智勇、香蘭の節操、青揚の苦節ともに、いさゝかもそこなはれたる所なく、見るまゝに喜ぶべきは喜ばれ、欺くべきは只涙こぼれぬ。さるは編中の人物活動するにはあらで、我が心の奥にあやつるものあればなるべし」(「よもぎふ日記」同日)
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3月21日
31日発行「文学界」第3号に一葉の作品「雪の日」が掲載されることになり、「文学界」同人を代表して平田禿木(第一高等中学在学)が来訪。初めて同人と会う。
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はじめは戸惑いがあるが、話すうちにしだいに饒舌になり、一葉もまた熱が入り、文学や学校のこと、またともに父を亡くしていることなど、心を許して語りあうようになる。
幸田露伴を評価する禿木が、一葉の「うもれ木」にその影響を読みとったことを語ると、一葉もまた「今の世の作家のうち幸田ぬしこそいと嬉しき人なれ」と言い、露伴と面識があるかと聞く。
西行、兼好、芭蕉などについても語りあい、禿木は、同人の星野天知、北村透谷、巌本善治、島崎藤村などについても語る。
一葉にとって、このように幅広く自由に語り合ったことは初めてのこと。
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早くに父を亡くし、母が家業に当たってはいるが、長男としての責任に悩み、学校生活も心に染まず、友もなく、この世を「憂き世」と嘆き、文学を友として生きる若い禿木に、一葉は自分との共通性を見出す。
更に、禿木が「文学界」創刊号に「吉田兼好」を書いていた人と知り、尚、親しみと尊敬を覚える。
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日暮になり、またの訪問を約して、禿木は辞去。
禿木はその夜、一葉に宛てて、
「願くはこの上とも深く交はらせ給ふて共に至(斯)道のために尽すをゆるし給へ。」
と手紙を書き、「文学界」第2号とともに一葉に送る。
この号には、透谷が山路愛山「頼嚢(ライノボル)を論ず」に反論した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」が掲載されている。
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その後、禿木は、しばしば一葉を訪ね寄稿を求め、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村などの同人を一葉のところへ連れて来る。
一葉は、自分とほぼ同年輩の異性の作家たちから、それまでは未知の文学世界を見聞し、少なからぬ刺激を受ける。
禿木は後年、「文学界前後」の中で、一葉は薄倖の人ではあったが、自分の進むべき路を進んだという意味では実に幸福な人であると記し、
「『文学界』同人の発見、並に誘引が女史のこの進路を少なからず助けたことは、今に我々の誇りとしているところである。女史は決して同人中の中心にはなっていなかつたが、よく我々の悩みを解し我々の歓喜に共鳴した云々」と述べる。
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禿木ら「文学界」同人たちから多くの文学創造への刺激を受けたであろうと推察できる。
文学的に一葉を見出し、高く評価した最初の一人が禿木である。
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経済的困窮との戦い
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1月
「小林君に金かりに母君ゆく。」
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3月
「わが家貧困日ましにせまりて今は何方より金かり出すべき道もなし。」
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3月30日
「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道もなし。母君は只せまりにせまりて我が著作の速かならんことをの給ひ・・・たとへ十年の後に高名の道ありとも、それまでの衣食なくてやは過す。」
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4月3日
初めて伊勢屋に質入。「この夜伊せ屋がもとにはしる」
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4月19日
父の知人が亡くなり葬儀に行こうとするのが、香典にする金がない。妹くに子は自分の着物を質入れしようと言うが、一葉はおおかたの着物を売ってしまって、これ以上は心苦しく、これを渋り、母妹から責められる。
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「必竟(ヒツキヨウ)は夏子の活智(イクジ)なくして金を得る道なければぞかし。かく有らばはてもしれぬをなど、いとこと多くのゝしり給ふ。邦子は我が優柔をとがめてしきりにせむ。
我こそは だるま大師に成りにけれ
とぶらはんにも あしなしにして」
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5月2日
「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ羽織二つ一風呂敷につゝみて母君と我と持ゆかんとす ・・・(西鶴の句をもじり)蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」。
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5月3日
「今日母君いせ屋がもとに又参り給ふ」
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6月21日
「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」
この月、「文学界」の星野天知から小説執筆督促の手紙が届くが、断りの葉書を出す。
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6月22日
萩の舎の中島歌子を訪れて借金の申し入れをしようとするが、婉曲に断られる。歌子に対して失望し、心の決着を付ける。
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歌子が門人の批判をするのを聞き流し、金の話をすると、歌子は財政困難について話す。
「口に山海のちん味をあぢはひ身に綾羅(アヤラ)をかざり給ふともたゞいさゝかなる御身一つなるを」と一葉は批評する。
歌子は、兄のために苦労をさせられていること語り、一葉の金の無心に対し婉曲に断るような態度を示す。
「何ぞや事を兄君に帰して自家不徳の貲(シ)にし給ふらむ、きくまゝに心地わろしとおもふ」と記す。
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そして、一葉を開花させる準備段階としての貧民街・龍泉の生活に入る
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6月29日
金策尽き、6月29日家族会議の結果、士族の誇りを捨て、実業に就く一大決定をする。
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「此夜一同熟議 実業につかん事に決す。かねてよりおもはざりし事にもあらず。いはヾ思ふ処なれでも母君などのたヾ欺きになげきて、汝が志よわく立てたる心なきからかく、成行ぬる事とせめ給ふ。家財をうりたりとて実業につきたりとて、これに依りて我が心のうつろひぬるものならねど、老たる人などはたゞものゝ表のみを見て、やがてよしあしを定め給ふめり」」(この日付「日記」)
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「人つねの産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌(エンソ)なくして天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝこゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是より糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(ソロバン)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。」(「日記」明治26年7月1日)
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一葉の「桜木の宿」はコチラ
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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