2010年4月24日土曜日

本能寺の変(9) 天正10年(1582)6月2日 織田信忠、二条御所で奮戦す。 黒人の従者弥介、本能寺から駆け付ける。

天正10年(1582)6月2日
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織田信忠(26)は、一旦は二条妙覚寺(本能寺の北北東約600m)を出て本能寺に向かうが、途中で京都所司代村井貞勝と出会う。
貞勝は、「本能寺は早落去仕り御殿も焼落ち侯」と報告し、明智勢が此方へも攻め懸けるのは必至であり、「二条新御所は御構よく侯、御楯寵り然るべし」(「信長公記」)と進言。
信忠はこれに従い下御所(二条御所:妙覚寺東約200m)に移る。
安土への逃亡を勧める家臣に、信忠は、「か様の謀反によものがし侯はじ。雑兵の手にかゝり侯ては後難無念なり。爰(ココ)にて腹を切るべし」(「信長公記」)と決断。
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やがて町屋に宿泊していた馬廻衆が合流。
小沢六郎三郎は、宿泊先の亭主が「隠し置き扶(タスケ)申すべく侯」と説得するが、それを振り切って二条御所に駆け込む(「信長公記」)。
しかし、兵力は500程度で、甲冑・武器も不足。
「事件があまりにも急であったので、彼(信忠)も彼に従った者も腰の大小の刀以外には何ものも携えておらず、同所(二条御所)は武器など使用することがない内裏の世子の邸であったから、武器などあろうはずがなく」(フロイス「日本史」)という状況。
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戦闘前に誠仁親王一家が御所を退去して内裏に移る。
また、信忠側近の前田玄以は子の三法師(後の秀信、3歳)の保護を命じられ脱出(玄以は尾張の小松寺(小牧市)の住職、妻は村井貞勝の娘)。
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午前7時、戦闘開始。
信忠主従は大手門を開いて斬り込み、明智勢を三度まで撃退。
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「各(オノオノ)切て出で々々、伐(キリ)殺しきりころされ、我劣らじと相戦ひ、互に知知らるゝ中の働きなれば、切先より火焔をふらし、誠に張良(チョウリョウ)が才を振ひ、燓噲(ハンカイ)が勢にも劣るべからず」(「信長公記」)という。
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明智軍は、重臣の明智次右衛門が重傷を負い、明智孫十郎など名のある武者が討死する苦戦。
本能寺の戦闘は僅かな時間で決着がつき、明智方兵士、標的が信長であることに気付かなかったが、二条御所では、相手が信忠であると知り、将兵が怯み、幹部が先頭に立って戦わざるを得なかったという事情もあると考えられる。
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攻めあぐねた明智方は、二条御所北側に隣接する近衛前久邸の屋根に弓・鉄砲衆を昇らせて狙撃を開始。
飛び道具を持たない信忠勢はこれに対抗できず撃ち倒される。
もはやこれまでと見た信忠は、縁の下に自分の遺体を隠すように命じて鎌田新介の介錯により切腹。焼け落ちる御殿と共に信忠の遺体は灰となり、父同様に明智の手には渡らない。
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信忠の弟勝長(信長の5男)、村井貞勝親子3名、金森長近の嫡男忠次郎長則、菅屋長頼、猪子兵介、野々村三十郎(正成)、福富平左衛門(長篠の鉄砲隊)、毛利新介(桶狭間で義元を討つ)、団平八、斎藤新五郎(斎藤道三の庶子、美濃加治田城主)、討死。
鎌田新介は井戸に身を潜めて生延びる。
織田長益(ナガマス)は二条御所を脱出。
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■二条御所:
妙覚寺の東200m。天正4年(1576)信長宿所(「二条御新造」)として造営築かれ、天正7年11月、これを大改修して誠仁親王に献上される。以来、誠仁親王は5人の子供とここに住む。
信長の警護のために建設されているので、二重の堀や高石垣・矢倉を備え、妙覚寺よりも防御施設が充実している。
村井貞勝の説得により、御所内の誠仁親王、「若宮様・二宮様・五宮様・ひめ宮様・御あ茶々局、其外女房衆、公家衆」らは避難。
親王は連歌師里村紹巴が新在家から用意してきた荷輿に乗り、駆けつけてきた公家衆に守られ無事に内裏に移る。
正親町中納言季秀は、親王に従わず後に残り、明智軍に二ヶ所を傷をつけられる(「日々記」「兼見卿記」)。
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■織田勝長:
幼名坊丸。岩村城主遠山家の養子となるが、元亀3年に岩村城が武田氏に寝返った際に身柄を武田家に引き渡され、人質として留め置かれる。
天正9年11月、勝長は和平を求める外交シグナルとして無条件で織田方に返還される。しかし信長はそれを黙殺し、信忠が武田家を殲滅。
信長は、勝長をすぐに元服させ、勝長を名乗らせ、重臣池田恒興の娘と結婚させ、交通の要地犬山城を与える。
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■織田長益:
信長の13歳年下の弟。奮戦する信忠たちに明智方の視線が集まっている隙に二条御所を脱出。
この行為に、「織田の源五(長益の通称)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき(六月)二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と、京童に唄われる。
その後、長益は信雄(信長の次男)にすり寄り、豊臣政権下で信雄が没落すると、淀殿に接近し、1万5千石の大名の地位を手に入れる。
関ヶ原合戦では東軍に与し3万石に加増され、大坂冬の陣では豊臣方幹部となるが、徳川方に情報を流し、豊臣家滅亡後も大名として存続する。
有楽斎と号し、利休七哲の1人に数えられる高名な茶人。
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■猪子兵介:
元は斎藤道三の家臣。道三と信長との尾張富田の聖徳寺での会見にも出席。
信長側近としても活躍し、信長が斎藤内蔵助処分を命じた際、執り成したという(「稲葉家譜」)。
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■野々村三十郎と福富平左衛門:
長篠の戦いで前田利家、佐々成政、塙直政と共に信長の鉄砲隊を指揮。
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■従者弥介(黒人):
弥介は本能寺に宿泊しており、事件が起こると二条御所に駆けつけ異変を知らせる。
「ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのバードレの聖堂に置けと言った。これによって我等は少しく安心した」(「1982年の日本年報追加」「イエズス会日本年報」)。
しかし、フロイス「日本史」にはこの記事はない。
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信長は芸がで、き片言の日本語を話すこの黒人を気にいり、甲州征伐にも連れて行く。
その時、目撃した家康家臣松平家忠は、「身ハすミのコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介」と記す(「家忠日記」)。
「信長公記」は、「年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく。彼男すくやかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり」と記す。
フロイスが1581年4月14日(天正9年3月11日)付でイエズス会本部に送った年報(「イエズス会日本年報」)によれば、天正9年(1581)2月23日、イエズス会宣教師バリニャーニが黒人を連れて本能寺に信長を訪ねた。都で宣教師一行に黒人がいることが評判となっており、見物する者が町に溢れ負傷者や死人が出るほどの騒ぎとなる。
信長は、黒人と対面、初めて見る黒人の膚を信用せず、帯から上の衣服を脱がせ洗わせたという。
同じ頃、宣教師ロレンソ・メシヤが記した書簡には、「バードレは黒奴一人を同伴してみたが、都においてはかつて見たることなき故、諸人皆驚き、これを観んとして来た人は無数であった。信長自身もこれを観て驚き、生来の黒人で、墨を塗ったものでないことを容易に信ぜず、縷々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた。彼を殿とするであろうと言う者もある」と伝える(「イエズス会日本年報」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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