2012年7月24日火曜日

元亀元年(1570)11月~12月 信長の弟信興、戦死。信長、正親町天皇・将軍義昭の調停によりようやく浅井・朝倉と和議。 [信長37歳]

東京 北の丸公園 2012-07-09
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元亀元年(1570)
11月
・顕如檄文に応じた伊勢長島の門徒衆、桑名の滝川一益を撃退。
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・スペインでのムスリムの反乱、収束。
少数の抵抗がアルブハラス山地で続き、1571年3月終結。
1606年8月モリスコ追放令、1614年2月20日追放終了宣言へ続く。
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初旬
・武田軍2万、駿河侵入、富士布陣。
28日、北条氏政、上野国金山城由良良繁に上杉輝虎の救援要請。輝虎の人質要求で交渉長びく。
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11月5日
・秀吉、入京(「言継卿記」)。
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11月11日
・土一揆、徳政要求し石清水八幡宮に籠もる。土蔵方軍勢が攻撃、境内は流血(「兼見卿記」1)。
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11月12日
・四国勢、篠原長房と和議。
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11月13日
・本願寺顕著如光佐、和議受入れ返書送る。
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11月13日
・信長、尾張(富田)聖徳寺へ、石山本願寺の一揆蜂起に応じないことを確認、石山本願寺「門下」の者は男女に寄らず徹底して処断する、聖徳寺の「働」は「神妙」であったため存続を承認する旨を通達(「聖徳寺文書」)。
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11月14日
・吉川経家、高瀬城中に糧食搬入を企てた船を捕える。
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11月16日
・信長、丹羽長秀に命じて鉄鎖でつないだ舟橋を瀬田にかけさせる。
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11月20日
・信長、篠原長房と和睦。
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11月21日
・尾張小木江城、伊勢長島の一向一揆勢により陥落。
信長の弟織田信興、自刃。織田権力には大きな衝撃。

「志賀(滋賀郡)御陣に御手塞の様躰見及び申し、長嶋より一揆蜂起せしめ、取懸け、日を逐ひ攻め申候。既に城内へ攻め込むなり。一揆の手にかかり候では御無念とで思食し、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七(信興)御腹めされ、是非なき題目なり」(「信長公記」巻3)。
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11月21日
・六角承禎、信長の和議に応じ三雲・三上氏が志賀の信長へ出仕。(「言継卿記」。「信長公記」「兼見卿記」では22日)。
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11月21日
織田の部将坂井政尚1千、湖上を渡り堅田の津朝倉小荷駄陣所急襲。
25日、近江堅田地侍(猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎3名)、信長に味方する旨申出。坂井政尚1千が堅田城に入る。
26日、堅田の戦い。朝倉義景が派遣した前波景当と一向門徒の大軍、堅田を攻撃。坂井政尚は戦死。
朝倉軍、堅田を占領、湖上連絡路遮断を狙う信長の策略を阻止。
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11月24日
・信長、若狭の本郷信富へ、若狭守護の武田義統・武田孫犬丸父子が対立し、一族の武田元実・武藤友益らが朝倉氏に味方し織田側を攻撃することを矢部家定に報告したことを賞する(「本郷文書」)。
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11月25日
・下秀吉、山城賀茂郷の銭主方・惣中へ、徳政を無効にする信長朱印状を通達(「賀茂別雷神社文書」)。
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11月26日
・メジエール(フランス北部、ベルギー国境)、シャルル9世と皇帝マクシミリアン2世次女エリザベート・ドートリッシュ(長女スペイン王フェリペ2世と結婚)が結婚。マリー・トゥシェは相変わらず「寵姫」の地位を維持。
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11月28日
足利義昭、関白二条晴良と同道で三井寺で織田・朝倉講和提案
朝倉受入れ。浅井領国の近江北郡、長政1/3・信長2/3分割。延暦寺山門領全て回復を条件に容認。
12月12日、信長誓書。
15日、義景誓書提出。
伊勢長島でも一向一揆が攻勢を懸け、行詰った信長は将軍・天皇両方を動かして和睦に持込む浅井・朝倉側も兵糧が尽き始め、冬の始まりと共に帰国の困難さも増す状況

①信長、公家・寺院向きの政治は浅井氏に委ねると誓約。
「公家・門跡方の政道の件は、貴国(浅井氏)より御沙汰に及ぶべきの条、相違これあるまじき事」(28日付朱印状)。
②朝倉氏には政権放棄、野望は抱かない旨の起請文提出。
「天下は朝倉殿(義景)持ち給え、我(信長)は二度と望みなし」(「三河物語」)。信長は窮地を脱するためなりふり構わない誓紙を出して窮地を脱する。
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11月28日
・島井宗叱、雪魚を大友宗麟に贈る。
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12月
・この月、武田信玄、駿東群に侵攻、興国寺城・深沢城(北条綱成、御殿場市)を攻める。
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・ステティンの和約。デンマークがスウェーデン独立を承認。
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上旬
・吉川元春、満願寺城を攻撃。
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12月1日
・関白二条晴良、天皇・将軍名代として穴太に両方の使者を招き調停に入る。山門は最後まで和議を渋る。
交渉難航に、晴良は、双方折り合いつかねば高野山に上がり隠遁すると主張(晴良一族の興福寺尋憲僧正の日記)。
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12月1日
・山科言継、義昭へ祗候。
他に細川藤賢・摂津晴門・秀吉らが祗候。施薬院全宗と秀吉が碁を打つ(「言継卿記」4)。
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12月3日
・顕如、比叡山山中に布陣の朝倉義景はじめ部将6人に勝利を祝う書状。
「御在陣の軍兵等、窮困察し申し候。毎度勝利を得られし儀、誠に以って珍重に存じ候」(顕如上人文案」)。


同日付けで浅井長政・久政に信長軍との対陣を解かぬよう求める。また浅井氏部将磯野員昌(佐和山城主)には「その表城堅固の由、別して肝要の儀候」と送る。信長の要請で家康が北近江に進出しているため。
六角承禎が信長と和議を結び、本願寺にとっては浅井氏部将が頼みとなる。
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12月4日
・山科言継、先日の一揆4~500が籠った太秦へ見舞い。一揆は菅屋長頼・木下秀吉が収拾。山科言継、この日太秦泊(「言継卿記」4)。
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12月7日
・一条町周辺より出火し大火事。小御所・台所・車寄をはじめ、勧修寺・大祥寺殿・伏見殿・三条西・四辻・万里小路・知恩院など焼失。
8日、秀吉、山科町衆・一条町衆を召集し昨日の糺明。一条町僧善周・一条町月行事2名が3日間梟首。(「言継卿記」4)
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12月9日
・山門に対し和与受入れを褒める綸旨発給。
正親町天皇、「山門衆徒中」(延暦寺僧兵)に対して今度の朝倉義景と信長との戦闘は「公武籌策」(朝廷・幕府の調停)に任せて「和与」に及んだことに触れ、山門領の変動の無い旨を通達。
「この御所よりの綸旨の筋にて、武家(義昭)も御帰り、信長も下り、越州(義景)も目出度かりにて下り候」(宮中女官の記録)。
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12月12日
・信長、一色藤長・曽我助乗へ、比叡山延暦寺(山門)は不問に付すよう義昭より意見ありこれを承知する旨の披露を依頼(「元亀元年山門へ綸旨并信長状」)。
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12月13日
・上杉輝虎(41)、春日山城看経所(カンキンジョ)に越中平定の祈願文を納める。これより法号謙信を称する。
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12月13日
・信長と浅井・朝倉の間に和議成立。浅井・朝倉が高島郡まで兵を引く間、信長は人質を出す。
14日、信長、柴田勝家と氏家直元の子を人質に出す。
15日、信長、宇佐山城を出て瀬田山岡美作守の館入り。比叡山包囲軍も瀬田移動。

正親町天皇の使者、浅井長政に講和命令を伝える。
「多年兵革 天下ノ難儀 遺恨ヲ止メ」、朝廷と幕府の為に和睦をなすべき。
信長が、正親町天皇と将軍義昭を動かし、停戦命令を出させる。

12月中旬に義昭と関白二条晴良が三井寺まで下向して和睦が調えられる(『尋憲記』12月13日条)。ただし、その和睦の内容は信長にとって厳しいものとなった。
家康の家臣、大久保彦左衛門が書き残した『三河物語』によれば、「天下は朝倉殿もちたまい、われは二度のぞみなき」と信長が誓ったとされている。

信長は9月以来主力を江南に釘付け、決定的戦果もあがらず苦しい立場。
浅井・朝倉にとっても雪のために補給困難。
信長は義昭に働きかけ、将軍の斡旋により両者の間に和議成立。
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12月15日
・信長、山岡景佐へ本知及び新知を扶助(「記録御用所本」)。
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12月15日
・本願寺顕如、信玄・勝頼に誼を通ず(協力強化要望)。
「この表(大坂)未決の式候。様子に於いては、具(つぶさ)に長延寺に申し入るべく候。御分別過ぐべからず候。毎事いよいよ御入魂本望に候」(「顕如上人文案」)。


この7月病没した信玄室の三条氏は顕如内室如春の姉。「長延寺」は長延寺実了。越中・加賀門徒衆を動かし謙信の動きを牽制。長延寺実了を通じて、顕如・信玄はここ10年来良好な関係を築く。
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12月15日
・朝倉義景、山門に充てて「勅命、上意たって仰せ下され…」と、朝廷・幕府の命令で余儀なく和睦したと報じる。
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12月16日
・朝倉義景勢、比叡山下山、退陣。
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12月16日
・信長、帰国。17日、岐阜着。
朝倉・浅井軍が引き揚げたのち、宇佐山城には森可成に代わり、明智光秀が入る。
『兼見卿記』(元亀2年(1571)1月21日条に、吉田社嗣官吉田兼和(のち兼見)が志賀城(宇佐山城)に明智を見舞うとの記事がある。明智は比叡山焼き討ちののち、志賀郡の旧比叡山領を与えられ坂本城に移る。
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12月27日
・秀吉、横山城の蜂須賀正勝に書状を送り、樋口直房に米10俵を渡すことを命ず。(徳川国順蔵文書)
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