2012年7月19日木曜日

天暦7(953)~天暦8(954) 呉越国との交流 藤原兼家の結婚 『かげろふの日記』(道綱の母)にみる兼家の結婚生活

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-18
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天暦7(953)
この年
天台僧日延、呉越国王からの依頼で争乱によって失われた天台の書籍を届けるために、この年、右大臣藤原師輔と天台座主延昌に送られて呉越国に赴く。


■呉越国との交流
唐の滅亡後、日本は江南の呉越国と交流。
呉越国は、現在の浙江省一帯を領有し、都は杭州にあった。遣唐使時代からその渡航地として著名な明州もその中にある。呉越国は貿易を重視し、管内にある天台山を中心とした仏教保護政策をとっていた。
呉越商人の活躍はめざましく、呉越国王から日本の天皇や左右大臣らへの贈り物や親書も運んでいる。
呉越国王銭弘俶(せんこうしゆく)は、唐末の混乱によって欠けた仏典の書写を高麗と日本に求めてきた。
それに応えて、天台座主延昌(えんしよう)は書写した仏典を延暦寺僧日延(にちえん)に託して送る。この時、暦博士賀茂保憲(やすのり)は最新の暦の将来を日延に依頼した。
日延は、天徳元年(957)年、1,000巻以上の内典・外典と新修符天暦の暦法を日本へ将来した。日延のもたらした浄土教関係の仏典は、10世紀の日本における天台浄土教の成立と発展に大きな役割を果たすことになる。
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天暦8(954)
・この頃、「天暦蔵人式」が編纂される。
・この頃、藤原兼家(26歳、右大臣師輔の子)、右大将道網の母と呼ばれる女性(18歳、『かげろふの日記(蜻蛉日記)』の著者)と結婚

■兼家の結婚
兼家の妻に当たる女性は少なくとも6人。
その中の1人、『かげろふの日記』(蜻蛉日記)の著者、右大将道網の母と呼ばれる女性は、正四位下陸奥守藤原倫寧(ともやす)の娘。

■『かげろふの日記』(年代記ふうの回想録)に見る兼家の結婚生活
彼女は、「かたちとても人にもにず」(容貌も人なみでなく)と日記では謙遜しているが、系図によれば「本朝第一の美人三人の内」であり、父・兄弟・彼女自身も歌人として名を残し、歌文の道にもすぐれていたと考えられる。

この年、藤原兼家が結婚を申し込む。
兼家は右大臣師輔の子というものの、当時の官職は従五位下右兵衛佐で、特にその将来が約束されている立場でもない。
普通は「つて」を求めるか、召使いの女房を通じて本人に申し込むところを、兼家は父の倫寧を通じて仄めかしてきた。
断わる様子を見せたが、かまわず従者に恋文を持たせて届けてくる。
紙も筆跡もお粗末で、
「おとにのみきけばかなしなほととぎす ことかたらはんとおもふこころあり」
(あなたの評判をただ聞いているばかりではせつない、ぜひお会いしてお話ししたと思っております)
という歌が書いてある。

返事をするか放っておくか相談が始まるが、いつの世にも「古代なる人」(古風な人)はいるもので、母が、やはり返事はするものですよ、というので、返歌を書かされた。


「かたらはん人なきさとにほととぎす かひなかるべきこゑなふるしそ」
(こちらにはお話相手になるような者もおりませんから、いくら声をおかけになっも無駄でございます)
歌の上では一応断わった形になっているが、こんなことでは終わらない。

これを手始めに始終手紙が来る。
娘ははかばかしい返歌もせず、代作代筆の歌を返事に出したりしている。
兼家は、それが代筆とわかるので、こんどは自筆の返事をください、などと但し書きをつけてまた歌を送る。

人を馬鹿にした話のように見えるが、
「かかれば、まめなることにて」(こういう様子ならば、うわついた気持ではなくまじめな話と思われて)
と書いてあるように、女は男の気持を試している。

こういうふうにして秋には2人が結ばれる。
後朝(きぬぎぬ)の文(ふみ)を取りかわし、三日(みか)の餅(もちい)を祝って結婚は成立する。

後朝の文は、2人が共寝をした翌朝、例によって和歌を贈答すること。
共寝の最初は、男は必ず夜に忍んで来る。そして、夜明けに家に帰って歌を贈り、女はこれに答える。これは、男女の通いが結婚であった前代からの遺風である。
これを3日間続けると、3日目の夜に露顕(ところあらわし)、三日の餅の式がおこなわれる。これが正式の結婚式。
3日という数は、きのう、おととい、あす、あさって、とかの数えられる日数を越えた、無限の時間を象徴するものらしい。それまでの生活に区切りをつけて、これから無限の新生活に入るという気持である。
露顕とか三日の餅は、女の一族が自家の娘に通って来ている男を確認する手続きで、これに自分の家の食物を食べさせて、身内として待遇することを示す象徴的な儀式で、この式がすめば男は正式に娘の婿として認められ、夜に忍んで来たり、夜明けに帰ったりしなくても、堂々と居すわっていてよい。

兼家はこうして倫寧の娘と正式に結婚したので、そのまま、倫寧の娘のもとにずっと生活して、そこを本拠としてよいのである。
当時は、女は原則として結婚しても家を出ない。男のほうが婿として女のもとに来る。
但し、男には妻というべき女性が何人もいるから、その中の1人のところを本拠として、他の女のところにはその時々に通うこともあれば、本拠を別に持ち、そこから全部の女性のところへ通うこともあった。
兼家は、古風な流儀で、特定の女性のもとに住みつかず、終始通い専門でとおした。

■兼家とその妻たち
兼家には、倫寧の娘と結婚する少なくとも2年前からの妻がいた。
従四位下攝津守藤原中正の娘、時姫(ときひめ)、道長たちの母。兼家が倫寧の娘と結婚した前年には、時姫は長男道隆を生んでおり、その12年後に道長が生まれている。兼家はこの時姫のところへも通いでおしとおした。

兼家の本拠がこの時どこだったかの確証はないが、兼家が終生の本拠としたのは東三条邸であり、そこでは時姫、倫寧の娘、その他の妻と呼ぶべき女性、従三位藤原国章の娘(対の御方)、正四位上中宮亮藤原忠幹の娘、村上天皇皇女保子内親王、正四位下参議源兼忠の娘、中将の御息所など、だれひとり共に生活した形跡はない。
彼はこれらの女性のもとに通い続けた。折にふれて滞在したことがあっても、自分の本拠は動かさなかった。

兼家の妻たちの中で時姫の生んだ子女がそれぞれ栄達したので、彼女が正妻と見られているが正式に正妻と認められたのではない。その生まれからしても、時姫が正妻で他が妾という区別が、明確に立てられない。
もし、兼家が特定の女性のもとに住みつき、そこを本拠として他の女性に通う形をとれば、正妻と妾の差のようなものが出て来ることはある。
しかし、それでもその区別は曖昧で、彼が他の女のもとに住み変ってしまえば形勢は逆転する。その間には何らの手続きも要しない。

『かげろふの日記』の世界
倫寧の娘が兼家と結婚して数ヶ月後の10月、父倫寧は陸奥守として赴任し、母は残っているが少々心細い生活になる。
そのうち彼女は懐妊し、翌天暦9年(955)8月末頃、のちの大納言右大将藤原道綱が生まれた。

ところが間もなく、兼家の外出中にふと箱をあけると、中に兼家がどこかの女にやろうとして書いた手紙が入っていた。
10月末頃、3晩も全く姿を見せない日があったりして、ゴタゴタが起こりかける。
兼家が姿を見せたが、
「これからどうしても用があって参内しなくては」
といって出て行った。
人にあとをつけさせたら、町の小路(勘解由小路かという)のどこかに泊ったという。


やはり始まったなと思ったがどうしようもないままに、2、3日して夜明けに門を叩く音がしたが、放っておいたら、例の女のところにいってしまったらしい。
夜がすっかり明けてから、
「欺きつつひとりぬる夜のあくるまは いかにひさしきものとかはしる」
という歌をうるわしく書き、盛りを過ぎて散りぎわの菊に結びつけて手紙をやった(この歌は百人一首にも入っている)。

例によって兼家から返事が来る。
「門を開けてくれるまで叩きつづけようと思ったけれども、召使いが急用を知らせて来たので帰りました。ご立腹はまことにごもっとも」
という白々しい弁解がしてあって歌がついている。

こういう調子で兼家はだんだん足が遠き、そのうちに町の小路の女のもとには、大っぴらに出かけるようになる。
兼家は時姫のところへもあまり現われないと聞いたから、便りのついでに時姫に、
「あなたのところにさえ遠ざかっているという話ですが、いったいどこに腰をすえているのでしょうか」
という意味の歌を送ると、
「わたくしのところから離れてどこかへ行っていますが、うわさではあなたのところに根をおろしているということですよ」
という歌が返って来た。"
"こうして来たり来なかったりで年も過ぎて、天暦11年(957)夏頃、町の小路の女に子供が生まれるの、よい産所を選んで兼家は女と同車して大さわざで道綱の母の家の前を通って移って行く。この時は、召使いたちまで、「わざわざここを通らなくても」と悪態をつく。
町の小路の女は、無事男の子を出産したと聞いて気が重くなったが、それからも兼家は時々はやってくる。

ところが10月過ぎ、兼家は町の小路の女に対しても子が生まれてから冷たくなったらしいということで、少しいい気になったが、その子も死んでしまい、しかもその子は兼家の子ではなく、さる孫王(天皇の孫に当たる人)の落胤だという。
なんとも馬鹿らしい、体裁のわるいことで、兼家は自分以上に嘆いているだろうと思うと胸がすっとした。

しかし、自分のところに戻ってくるかと思ったら、今度は専ら時姫のほうに行っているという。
それでも今までくらいの調子でやって来たが、道綱も満2年を過ぎて片言をいう年頃になり、兼家が出て行く時に必ず「いま来んよ」(じきにまた来ようよ)というのを聞き覚え、しきりに「いま来んよ、いま来んよ」とまねをしている。

その後、母が亡くなくなったり兼家が急病になって「いまはこれまで」という場面になったりするうちに、道綱も成長して元服、出仕し、兼家はいつとはなく足を向けなくなる。


道綱の母の一家は中河に転居して父倫寧のもとで暮らす。
兼家とは手紙のやりとりや道綱のことで交渉もあるが、彼女に求婚してくる男もある。
道綱も外歩きをして女をさがす年ごろになっているが、母としては、しっかりした後見のあるよい妻を持たせて安楽に過ごさせたいと願う。
こうして天延2年(974)大晦日、長い回想録は終わる。
彼女はこの20年後、長徳元年(995)5月に没する。
子の道綱は参議右中将、41歳。

自由な結婚・離婚
兼家は多くの妻を持ったが、これらには通う一方で、それぞれの妻に子供が生まれると、その子は母のもとで成長した。
彼は東三条邸を本拠として、時姫に生まれた超子・詮子の2人の娘をそこに迎えて、冷泉天皇と円融天皇の後宮に送り込む。
彼女らは内裏から退出する際は常にこの東三条邸に帰って来る。

後宮女性は懐妊すると約3ヶ月で自邸にさがるのが普通で、こうして詮子に生まれた懐仁(かねひと)親王(一条天皇)も、超子に生まれた居貞(いやさだ)親王(三条天皇)も、この東三条邸で生まれ、外祖父兼家の養護のもとで成長した。
そして、東三条邸は娘詮子に譲られて、彼女は女院となった時には東三条院という院号を得た。

東三条邸には、兼家の妻は誰もいなかったが、不便な点もあって、超子に仕えていた大輔(たゆう)という女房に手がつき、これが権(ごん)の北の方と俗にいわれて、東三条邸を取りしきっていたという。
兼家の本邸に同居した妻はこの女性1人だけだが、この女房だけは「権」が示すように、むしろ妾という立場に考えられていた。

通い婚の場合、妻はそれぞれの家を離れず、自分の家に男を迎え、子を生み、自分の家の力で子を育てるのが正道であり誇りであった。
彼女らは経済的にも夫の力を頼ってはいない。
兼家も道綱の母に、折々の付け届けは多少しているらしいが、経済的にその生活を支えている形跡は殆ど全く見られない。
道綱はもっぱらその母一族の力で育てられ、支度を整えて貰っている。
これが常道で、男の本邸に引き取られる女性は、召使いや身寄りのない者に限られ、むしろ格の低い、憐れむべき存在であった。
その後、結婚風俗は兼家の古風なものから、兼家の子の道長のような「純婿取婚」と呼ばれるものに変貌してゆく
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