2012年7月23日月曜日

天暦10年(956)~天暦11年(957)/天徳元年(957) 文章博士菅原文時の封事 時弊三点(奢侈のふう、売官の弊、 国・郡をおおう疲弊)

東京 北の丸公園 2012-07-19
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天暦10年(956)
3月
・この月、村上天皇の女御荘子(しようし)、5月に女御芳子、8月に右大臣師輔の室康子内親王が、それぞれ主催者になって歌合をおこなう。
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天暦11年(957)/天徳元年(957)
この年
・撰国史所別当で参議大江朝綱の没。
式部権大輔大江維時が後任となり、また式部大輔橘直幹も撰国史所の仕事に携わることになる。
これらの人々は、『新国史』に続く朱雀天皇治世の編年史を纏めようとした形跡がある。
『拾芥抄』には、『新国史』は50巻で、別名を『続三代実録』といったとある。この三代は、宇多・醍醐・朱雀。
『新国史』の稿が完成した後、朱雀の代の10巻を追加したと考えられるが、未定稿のままで終わる。
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・延喜の右大臣菅原道真の孫の文章博士菅原文時は、この年、朝廷に提出した封事のなかで、時弊を三点に絞って論難している。
第一は、奢侈のふう、
第二は、売官の弊、
第三は、国・郡をおおう疲弊の実情。
村上朝の宮廷の豪奢、権門の栄華は、識者の憂うるところであったが、公卿たちはこれに応えることなく、国事をなおざりにして風流と逸楽に耽溺していた
宮廷のその風潮を代表する者は、親政をたてまえとした父醍醐の遺風を追慕した村上天皇であった。
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延暦寺僧日延、呉越国より帰国。1,000巻以上の内典・外典と新修符天暦の暦法を日本へ将来した。
日延のもたらした浄土教関係の仏典は、10世紀の日本における天台浄土教の成立と発展に大きな役割を果たす。
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4月22日
女御安子の主催のもとに、父右大臣師輔の五十の賀。
藤壷(飛香舎の別名。清涼殿の北、弘徽殿の西にある。皇后・女御の住所)にて。
村上天皇、右大臣以下の諸卿も列席。
酒宴の場は「毎事実を尽くし」たといわれる。天皇はみずから盃をとって大臣にあたえた。大臣の嫡孫(伊尹(これただ)の子)が舞いを披露した。天皇は、大臣以下、殿上の侍従以上の者に禄を与え、右大臣には左・右馬寮の馬5疋を贈り祝意を表した。
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10月27日
・天徳に改元。
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