2012年7月28日土曜日

元亀2年(1571)1月~2月 木下藤吉郎、小谷城の支城佐和山城磯野員昌を調略、開城 [信長38歳]

東京 北の丸公園 2012-07-24
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元亀2年(1571)
この年
信長38歳、光秀44歳、秀吉36歳、家30歳
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・光秀、義昭に暇を乞う。坂本城築城に着手。
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・毛利氏の意を受けた小早川水軍(来島村上水軍も加わる)、村上武吉の居城能島を攻撃。
説得により、武吉は以後毛利氏(小早川隆景)に忠節を尽くすようになる。
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・朝倉義景、獺谷道(柳ヶ瀬~刀根・池河内・獺河内を経由する山間交通路)により敦賀郡東浦へ塩を買付けに来る近江商人達に活動を許可。
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・初頭、クリミアのタタール人10万、南ロシアに侵入。イヴァン4世(雷帝)は後退。
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・第7回フランス改革派教会会議、「ラ・ロシェルの信仰告白」採択。
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・スペイン、モリスコの反乱、鎮圧。
改宗イスラム教徒(モリスコ)に対する実質的なキリスト教徒化を目指したアラビア語やイスラム的風俗・習慣を禁圧する措置に反発したもの。
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・スペイン、メキシコ市南方のアカプルコ港とマニラ港を結ぶ貿易が始まる(と伝えられる)。
マニラからメキシコのアカプルコへ金銀財宝や香料、絹織物、陶磁器などを積んでの直線の航路を開き、直行で貨物運搬用帆船(スパニッシュ・ガレオン船)を東風に乗せ約4ヶ月で完走。
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・ポルトガル、ダミアン・デ・ゴイス、異端審問所の告発を受け処刑。
欧州各地を遍歴してルターやエラスムスと親交を結び、帰国後はジョアン3世に仕えて国益擁護に尽力。
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・エリザベス1世、39ヶ条を制定。1563年~布告まで8年。英国国教会確立。
宗教論争による対立を避ける為、女王の名の下に全聖職者が従うよう命ぜられる。
人は信仰によってのみ義とされると説き、聖書を唯一の根拠としている点でカルヴァン派に近いものがあるが、白い制服の着用や祈祷の時跪くなどカトリック的な要素も多い。
これにより英国国教会は国王を頂点に、ルター派の構造に似た大主教・主教・副主教・司祭長・司祭というヒエラルキーを確立。議会での激しい反対、布告迄8年を要す。
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1月
この月
・家康(30)、従五位下侍従に叙任。
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1月1日
・武田信玄3万7千、三島集結。駿河興国寺を奇襲、失敗。
3日、駿河深沢城(御殿場市)攻略も失敗、帰陣。
10日、北條氏政、小田原を出陣し深沢城を後詰め。
16日、深沢城攻略。信玄、矢文をもって開城を促し、北條綱成、深沢城を開城。信玄は、金堀衆を動員して城内への坑道を掘り進める。
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1月2日
・信長、北国と大坂との交通途絶(姉川封鎖)を横山城木下藤吉郎に指示。北陸の朝倉義景や越前・加賀一向一揆と本願寺との連絡を断つ。


「北国より大坂へ通路の諸商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻までの間、海陸共堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの件、件の如し。正月二日 信長(朱印) 木下藤吉郎とのへ」(神田氏所蔵文書・「顕如上人伝」)。


北国から大坂に往還する商人などを、北近江の姉川と朝妻の間で止め、尋問して不審な者は、「成敗」(殺害)せよ、と命じる。書状で「商人」とあるが、商人に扮して大坂に向かう門徒が多くいたことがわかる。
この通行封鎖はかなり厳重で、奈良の大乗院門跡の尋憲の使者も止められたので、やむなく引き返したことが『尋憲記』に記されている。
また、朝倉義景から三好義継の使者になった僧侶が捕らえられ、京都の一条戻橋で火炙りに処されたという(『年代記抄節』)。
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1月4日
・松永久秀(62)、大和多聞山城へ帰還。
5日多聞山城に於いて大和国衆の礼を受ける。
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2月
・宇喜多直家6千、浅口郡鴨方の毛利方杉山城(備中守護10代、細川下野通菫)を攻撃。
細川は幸山城を頼り落ちる。次に、酒津城(倉敷市酒津)攻撃。幸山城攻撃、降伏。
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2月1日
・信長、秀吉に小谷城に対峙する砦普請の資材を与える(織田文書)。
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2月2日
・フランス、オランジュで2週間にわたりユグノー虐殺。
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2月4日
・シャティヨン枢機卿(コリニー提督兄)、亡命先ロンドンで客死(毒殺)。
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2月5日
・細川幽斎、千句連歌会を勝持寺で催す(大原野千句)。
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2月16日
・信玄、府中を出立。
24日、武田勢、遠江乱入。大井川を渡り小内能満寺に城塞構築。
この頃、勝頼は信玄後継者として、信濃高遠城から甲斐躑躅ヶ崎館に入る。

信玄の遠江・三河侵攻作戦
駿河深沢城後詰めの北条勢と深沢城を攻略した武田勢、駿河三枚橋(沼津市)で衝突。
駿河の支配圏は武田氏に移ってゆくが、以降、遠江徳川領に向う。
信長の攻勢に苦戦する本願寺や長島一向一揆の援軍要請もある。
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2月24日
・フランス、コリニー、アントルモン夫人(ドーフィネ地方の貴婦人)と2度目の結婚。
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2月24日
・木下藤吉郎、小谷城の支城佐和山城磯野員昌(かずまさ)、調略、開城、高島郡へ退去。
丹羽長秀、佐和山城入り。
前後して浅井方太屋城・朝妻城、降伏。

丹羽長秀、この時より犬上郡辺りの在地領主(高宮右京亮・大岩重政ら)を与力として摩下に置く。
建部寿徳も、元亀3年8月と思われる中川重政追放後、長秀に属す。また、石崎高俊は、坂田郡の在ながら長秀に付属(「中川文書」)。尚、この年9月19日、高宮右京亮は丹羽長秀・河尻秀隆に佐和山で誘殺。一揆扇動の咎による。

■この時点での織田軍の近江守備態勢:
①宇佐山城(のち坂本城):明智光秀、
②永原城:佐久間信盛、
③安土城:中川重政、
④長光寺城:柴田勝家、
⑤佐和山城:丹羽長秀、
⑥横山城:木下秀吉

■信長を取り巻く諸勢力の状況
(a)信長の美濃・近江進出により、そこに多くの所領を持つ山門(延暦寺)は経済的な圧迫を受け、山門領の回復と信長の近江支配とは両立しえないことが明白となる。
(b)朝倉氏は義景の父の孝景の代から比叡山に仏堂を建立するなど山門・日吉社との結びつきが強く、義景もこれを重んじる。
(c)江北の浅井氏は、一旦は信長と連盟するが、信長の江南制圧・六角氏追放を見て、信長の越前侵攻に及び態度を翻す。
(d)江南各地の一揆や、坂田・浅井・伊香三郡の本願寺派の中心寺院の江北10ヶ寺を代表とする一向一揆は、信長の支配に大きな危機感を抱き鋭く反抗。
これら近江の諸勢力と朝倉氏との間に反信長連合関係が形成され、信長との対立が続き、石山本願寺・三好三人衆・武田信玄などによる大きな反信長連合の環へと拡がっていく。

磯野員昌は、のちに信長に仕えるが、天正6年(1578)2月、人質に出した母親を見殺しにして逐電。
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2月25日
・信長、樋口直房・秀吉へ、佐和山城「おさへ」砦を解体した資材を小谷城攻囲砦普請の資材とすること、この旨を佐和山守将丹羽長秀に通達したので樋口直房・秀吉が徹底した管理をするよう命令(「織田文書」)。
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2月28日
・信長、小早川隆景と大友義鎮へ「芸豊間無事」は義昭「上意」の望むところで、久我晴通が豊後へ下向、聖護院道澄が安芸へ下向すると通知、馳走を促す。
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